終章
5-1
そこは暗い海の中だった。
暗く、右も左も、上も下も分からない、ただ冷たい海の中だった。
冷たい海水に浸かった脳みそは、じっくりと時間をかけて僕の意識を削って行くようで、次第に心地が良くなっていく。このまま上手くいけば死んでしまえるのかもしれないなんて、遠くの景色でも眺めるようにそう思った。
時折僕から浮かび上がって行く空気の泡が、まるで僕にとってとても大切な物が僕を置き去って遠くへ行ってしまうようで、そのことがどうしようもなく悲しくて涙が流れる。
頬を伝う涙は熱く、胸を焦がすほどの熱量は、暗い海の冷たさに震え溶けて行く。
それからどれほどの時間を経たのかは分からなかったけれど、到頭僕は海の底に辿り着いた。海底に溜まった砂が舞い上がり、それが僕を覆い隠す。
とても静かだった。とても、静かだった。そんな静けさの中、僕は声を聞いたのだ。誰の声かは分からない。それは祖母の声かもしれないし、彼女の声なのかもしれないし、鳴海か、あるいは北川先生、もしくは両親の声だったのかもしれない。何を言っているのか分からない声だったけれど、その声を耳にした時、僕は救われたような気がした。
海底を這ってでも、その声がする場所へ行かなければならない。もうあまり考えることが出来ない頭は、それだけを思い冷たくなった僕の体を動かす。
体の感覚が鈍ろうが、音だけは確かにはっきりと聞こえた。どこからか聞こえて来る声が一体誰の声なのか分かるのと、その誰かに再会したのは同時だった。
その声の主は小さな男の子だった。見覚えの顔つきで、果たしてあんな顔をしていただろうかと、そんなことを思った。
その小さな男の子は、深い海の底でピアノを前に音の出ない鍵盤を楽しそうに弾いていた。ピアノから生まれる空気の泡はとても美しく、そうあることが神様にでも決めつけられているかのように上へ上へと昇って行く。
でも、どうしたってピアノの音は聞こえなかった。聞こえて来るのは小さな男の子の笑い声だけで、僕にピアノの音は聞こえなかった。
それから小さな男の子が僕に向かって、「凄く綺麗な音だよね」なんて言ってくるものだから、僕は到頭行き着くところまで行き着いたのだと確信したのだ。
小さな男の子が「どうしたの?」と尋ねて来る。自身の声の掠れ具合とか弱さに驚きながら、僕はその声に「音なんて聞こえないよ」と返す。
すると小さな男の子が「それはとても残念」と、おもちゃでも取り上げられたかのような顔をして、「でも、あなたも自分で弾けばこの音を聞くことが出来るよ」と、気が付けば一台、僕の目の前に大きな黒いピアノが姿を現した。
僕に弾けるだろうか。このピアノを弾くことが出来るのだろうか。
「弾きたければ弾けばいい。とても簡単なことだよ」
小さな男の子が口にする言葉は正しい。でも、いつの間にかそんな簡単なことでさえ僕にはとてつもなく難しいことになってしまった。
きっと、この男の子がピアノを弾く理由はそれなのだ。弾きたいから弾く。音が聞きたいから弾く。そんな単純な理由なのだろう。でも、いつからかそんな単純なことさえ見失ってしまった。
僕はどうしてピアノを弾きたいと、そう思ったのだろうか。
弾きたいと願ったその先。そこには何があるのだろう。
「それを理由にすればいいよ」
いつの日からか忘れてしまったものを思い出すために。そのためだけに僕はもう一度このピアノを弾けばいいのだろうか。
そもそも、そんなものを思い出したところで何になるのだろう。
「さようならを、言うことが出来るんだよ」
さようなら。それは、いつの日か言うことの出来なかった言葉だった。
「鍵盤を押してみて。とても簡単なことだよ」
もう一度、暗い海の底でピアノを前にする。
「もう、大丈夫だよ」
小さな男の子は、「それじゃあ、さようなら」と言い残し暗闇に溶ける。
さようなら。そしてありがとう。
そしてもう一度、僕にその音色を聞かせてほしい。そう強く願った。
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