4-8
今日僕が目を向けるのは中学生であった僕ではなく、もう少し昔の僕。
タイムカプセルを埋めたのは小学六年生の時で、今日読む手紙の送り主はその時の僕だ。
手紙の内容を、しかし僕は上手く思い出すことが出来ない。とはいえ、その手紙には何が書かれていて、当時の僕が未来の僕にどんな言葉を送ったのかは分かってしまう。
祖母のピアノを聞くことはなくなり、北川先生と毎日のようにピアノの練習に明け暮れていて、中学生になっても、高校生になっても、大人になっても、きっと僕はピアノを弾いているのだと、根拠もなくそんなことを信じ込んでいた時代の僕。そんな僕に返事をすることはもう出来ない。時間はいつだって一方通行だった。
「信世、閉校式でピアノを弾くんだろ?」
学校へ向かう道すがら、隣を歩く鳴海はそんなことを口にする。
「優から聞いた。詳しくは知らないけど」
「そっか」
鳴海は「俺も閉校式は行くからさ、久しぶりに信世のピアノが聞けるっていうのは楽しみだ」と、いつかの時のように僕の背中を軽く叩く。
鳴海は「はは」と笑い、それからポツリと「何年ぶりになるんだろうな、こんな風に三人そろって学校で会うのは」なんて呟く。
僕が「十年くらいだと思う」と答えると、鳴海は「信じられねぇな。ついこの間までここら辺を走っていたような気がするよ」と、立ち止まって遠くを見た。
鳴海の視線を辿ると、そこには足跡一つない砂浜と、時計の振り子みたいに満ち引きを繰り返す海がある。
「俺も、ここに帰って来るのは二年ぶりくらいだ」
「そうなんだ」
鳴海の顔は僕の知っているようで知らない顔だ。髭だって濃くなっているし、髪型だって昔と変わっている。
「俺さ、近々結婚するんだぜ」
それから鳴海は、「結婚とか、そんなもんはずっと遠くにある良く分からねぇもんだと思ってたのにさ」と笑ってみせる。
鳴海が浮かべたその笑顔は、僕の知る子供の頃のそれとは全くの別物で、きっとそこには僕が鳴海と離れ離れになっていた十年という長い時間が押し込められているのだと思った。だから、鳴海が僕の知らない笑みを浮かべることを何ら違和感なく受け入れることが出来て、でもそのことが少しばかり寂しい。
鳴海もまた、僕の知らないところで何かを失ったり、手に入れたり、怖くなったり、そんなことを経験してきたのだと、その笑みと言葉は僕に伝えて来るようだった。
「行こうか」
僕がそう言うと、鳴海は「おう!」と子供みたいな返事をする。
それから僕と鳴海が何か会話を交わすようなことはなく、黙ったまま時折海だとか、砂浜だとか、空だとか、山だとかを見渡して学校へと向かった。
きっと、僕がピアノを怖いと感じるようになってしまった事も、会社から解雇されてボロ雑巾みたいになってこの町に帰って来たことも、鳴海は知らないだろう。同じように僕も鳴海がどんなふうに時間を過ごして、子供を辞めて、誰かと出会って、そうして一緒になることを選んだのか、先ほど呟いた彼の言葉にどれほどの重さがあるのか知らない。
でも、こうして鳴海と歩いているだけで、その知らないという溝は不思議と埋まっていくような気がして、だから僕等に言葉なんて必要なかった。
ただ走るだけで笑うことが出来ていたあの頃の僕達は、きっとこんな風に言葉を交わすでもなく、笑い合うでもなく、走る訳でもなく、黙々とこの道を歩く未来など想像すらしなかっただろう。ピアノが弾けなくなるという未来も、学校が廃校になるという未来も、バラバラになってそれぞれがそれぞれの痛みを背負いもう一度再会することも、きっと想像していなかった。
ずっと続いて行くような気がしていた。ずっと、子供のまま無邪気に今を走っていられると思っていた。可笑しな話で、歩幅は子供の頃よりも大きくなっているはずなのに、誰かの元へ近づくことが難しくなってしまった。
鳴海、君は今何を思ってこの道を歩いているのだろう。どんな気持ちでこの町に来て、僕と再会し、タイムカプセルを掘り起こそうとしているのだろう。
鳴海は一言「久しぶりに波の音を聞いた」なんて呟いて、僕達は学校にたどり着く。年末ということで校門は閉じていて、すでに廃校になってしまったかのように静かだった。
学校にたどり着くと、鳴海は徐にポケットからライターとタバコを取り出し、白い棒を一本口に咥え火を点けると、優しく息を吸い込んで、溜息でもつくかのように白い煙を吐く。
「鳴海、タバコ吸うんだね」
「そうだな、信世は吸わないのか」
「うん。僕は吸わない」
「そうか」
ふと、鳴海は「別にどうってことはないんだけどさ、俺のこと、苗字で呼ぶのな」なんて、やはり白い息を吐きながらそんなことを言う。
昔は鳴海のことを達也と下の名前で呼んでいたのに、今自然と口から出て来たのは鳴海だった。思えば彼女のことも昔は優と呼んでいたのに、今は秋野さんと呼んでいた。
鳴海は「大人になったんだなぁ」と白い息に言葉をのせる。その声は、子供ではない何かになってしまった僕達を定義付ける言葉のように聞こえて、まさしくその通りだった。
鳴海がタバコを一本吸い終わる頃、見計らったかのように彼女がやって来て、彼女は笑いながらこちらに手を振っていた。
彼女は鳴海と「久しぶり」なんて言葉を交わし、それから「行こうか」と鍵を取り出して校門の扉を開ける。
キィという軋む音が消えた後、僕は彼女と鳴海と共にグラウンドへと向かった。
校舎のさらに向こう側。フェンスの先には海が広がっていて、鉄棒だとか滑り台、ジャングルジムや登り棒なんかが昔と変わらない姿で点々としている。
タイムカプセルを埋めたのはグラウンドの右端にある一本の松の木の下。松の木は変わらずにそこにあって、地面にはまつぼっくりが落ちている。潰れたものもあれば、大きく開いたもの、一部が欠けたもの、開かず小さいままのものが距離を置いてそれぞれ地面に横たわっていた。
「シャベルとか、スコップとかはどこにあるんだ?」
鳴海は屈んでまつぼっくりを一つ手に持ちながらそんなことを呟く。すると、彼女も同じように鳴海の横に屈んでまつぼっくりをいじりながら「体育倉庫にあるから、持ってこようか」とポケットから体育倉庫らしい鍵を取り出した。
そんなやりとりをしている二人を、僕は少し離れた所から見つめる。見つめるだけで、二人と同じように屈むこともせず、結局口から出て来たのは「僕が取りに行ってくるよ」という言葉で、僕は彼女から鍵を受け取って体育倉庫へと向かった。
場所も人も同じだ。あの頃と同じであるはずなのに、だからなのか余計に際立つのだ。鳴海は結婚すると言っていた。彼女だって中学生時代の夢を叶えて教師になった。
疎外感のようなものに襲われて逃げた訳ではない。そうではなくて、きっと僕は悲しいのだ。
鳴海も変わった。彼女だって変わった。僕だって変わった。変わらずにはいられなくて、所謂挫折だとか、後悔だとか、一時の幸福を味わってここに立っている。そのことがたまらなく悲しかった。
この町におよそ十年ぶりに帰って来た時、シャッターが下りた店や、荒れ果てた田畑が増えていた。でもそれはこの町に住んでいる人が変わったというだけで、店や田畑そのものは変わらずそこに残っていた。木造の小さな駅、壊れかけのベンチ、海、祖母の家、学校、そういったものは変わらずに、タイムカプセルだって変わらずあの松の木の下に埋まっている。
帰って来ていい場所があることは支えになるが、しかしその場所はもう僕にとって帰る場所ではなくなってしまったのだろう。きっと無意識のうちにそのことを知っていて、だからこんなにも悲しい。ジオラマの中に迷い込んだような錯覚が、まさしく僕にそのことを訴えていた。
「じゃあ、掘り起こそうか」
再びこの場所を帰って来てもいい場所にするために。
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