4-9
十数年前の僕から届いた手紙。
その最初の一行は「あなたはまだピアノをひいていますか」だった。
タイムカプセルを掘り起こし、彼女と鳴海と一緒に町の小さな居酒屋でお酒を飲みながら話し込んだ後、良い具合に酔いが回った僕は一人夜の砂浜で手紙を開けた。
程よく脳みそをアルコールで麻痺させなければ、とてもじゃないけれど踏ん切りがつきそうに無かった。無意味で弱い思考をアルコールで断ち切らなければ、とてもじゃないけれど手紙を読むことが出来そうになかった。
「ぼくはまだピアノをひいていますか」ではなく「あなたはまだピアノをひいていますか」
どうやら過去の僕にとって、未来の僕は「あなた」と呼びかけるほど遠い存在だったらしい
それは僕も同じだ。あなたが僕であったことが信じられなくて、あなたがとても遠い存在であるように感じてしまう。
あなたの「ピアノはまだひいているか?」という質問に答えるとすれば、とても残念なことだけれど、あなたが望んでいるような形で僕はピアノを弾いてはいないよ。
僕は今、すべてを終わらせるためにピアノを弾いているんだ。
手紙には「ぼくにはゆめがあります」「ピアノをひいて、たくさんの人をたのしませたい」「ピアノが好きだから、ピアノをずっとひいていたい」なんて、やっぱり予想通り眩しすぎる汚れのない言葉が古ぼけた小さな紙に敷き詰められていた。
「…………」
波の音は遠く。耳元にはピアノの音。気持ちよく酔えている所為か、傷つくことさえ心地よく感じられる。
三回。僕は三回手紙を読みなおした。読みなおしたところで手紙に書かれている言葉が変わることなどなく、確かに過去の僕がそこにはこびり付いていた。
一つだけ。一つだけ今の僕と過去の僕はやはり繋がっているのだと思える言葉が手紙の裏側に書かれていた。手紙の表側ではなく裏側に書き残す辺り、臆病者の色が少しばかり見えて笑えてくる。
手紙の裏側には「でも、ピアノもおばあちゃんみたいになってしまうのがこわいです」と、そう書かれていた。
その言葉だけが、未来の僕を言い当てていた。あなたが怖いと感じていたそれは、将来現実のものとなった。
読み終えてしまえばあっけなくて、欠けていた何かが痛みを伴って戻って来るようで、結局僕はその痛みに怯えていただけなのだろう。
丁寧に手紙をたたみ仕舞った後、一度目を閉じて波の音に耳を傾ける。
居酒屋で話したことを思い出す。鳴海と彼女が高校でどんなふうに毎日を過ごしていたのか。高校を卒業した後、それぞれがどのような場所に旅立ってどんな経験をしてきたのか。最近のこと、昔のこと、思い出したいこと、楽しかったこと、それこそ宝箱を開けて一つ一つ一緒に確認し合うかのように、ただただ感傷に包まれながらお酒を飲んで話をした。
「いつかまた、こうして会うことが出来ればいいね」と彼女が一足早く帰った後、僕は鳴海と二人でもう少しだけお酒を飲んで話をした。
「…………」
今日手元に戻って来たのは過去からの手紙ともう一つ。僕はその時、鳴海からあるものを手渡された。
それは、僕が中学を卒業する時に二人へ聞かせようと作り上げた曲の楽譜だった。
自室の棚にも、机の引き出しの中にも、ベッドの下にもなかったそれは、鳴海が持っていた。
鳴海は「中学の卒業式の後にな、教室から廊下に出た時にこれが落ちてたんだ」と、顔を赤らめ目尻を下げ、その時のことを思浮かべるように遠い目をしていた。それから、「俺、あの時優に告白したんだけどな、振られちまったんだぜ」と、鳴海はお酒を呷り、この楽譜を僕に手渡したのだ。
この楽譜は中学時代の僕から届いた手紙のようなものだ。点々と打たれた音符が当時の僕の心境をこの楽譜に刻み込んでいる。
後悔が一つ。いや、二つ。僕には弾かなければならない曲がある。
今更そんなことをしたって意味はないのかもしれない。それは単なる自己満足。でも、それでいいのだと僕は思う。
だって、僕は今終わらせるためにピアノを弾いているのだから。
僕はしっかりとお別れを言うことが出来なかった。
彼女に、鳴海に、祖母に。そして何より僕自身に。
時を経て手元に戻って来た二つの手紙は、僕にもう一度「さようなら」を言う機会をくれる。
「…………」
今年がもうじき終わる頃、閉校式で弾くべき曲が決まった。
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