3-5

「失礼します」


 まるで小学生か中学生に戻ったようだった。年間の行事が書き止められた大きな黒板に数台の古い印刷機、教科書やら参考書、書類なんかが詰まれている先生の机。それこそ時が止まっているかのように、あの頃と変わらない職員室がここにある。

 窓ガラスの先には海と砂浜が広がっていて、時計の針は止まることなく時を刻んでいた。

 職員室に入ると、彼女はすぐに「ここが私の机です」とどこか得意げな顔をして僕にその机を見せつけてくる。几帳面な所がこんな所にもしっかりと出ていて、色々な書類こそ左隅に積まれているが、教科書だとかそういったものはしっかりと整理されていた。

 そんな中、一つ目に留まったのが彼女の机の上に置かれた写真立てだ。その写真立てには、懐かしい中学生だった時の僕と彼女、鳴海の三人が『卒業証書授与式』と書かれた看板を前に並んでいる写真が収まっていた。

 僕の視線に気が付いたのか、彼女は「懐かしいね」とそう言葉を溢す。僕は「そうだね」とそう返した。

 鳴海は今何をしているだろうか。彼は十年前に抱いていた夢を叶えることが出来たのだろうか。


「…………」


 写真を通じて胸に抱く郷愁は、職員室の奥の方から聞こえて来た「久しぶりですね」という声によってより深くなる。

 声がした方に目を向けると、そこには確かに北川先生の姿があった。十年という時間の流れはやはり残酷で、少しばかり北川先生は痩せたように見えるし、髪の毛にも白いものが随分と混じっている。でも、垂れ気味の目尻と温かい笑顔は僕の知っている北川先生で、そのことが純粋に嬉しくもあり、しかし刻々と時間は進んでいるのだということを目の当たりにして怖くもあった。


「お久しぶりです。北川先生もお元気そうでなによりです」

「そうですね。一応まだ体は元気であってくれていますよ」


 北川先生は冗談めかすように笑って、「さあ、こちらにどうぞ。座って話をしましょう」と、奥にある来客用の部屋へと案内してくれる。

 木造のテーブルを間に挟んで白いソファが二つ。石油ストーブが焚かれていて、独特な匂いは冬の象徴のようで、客室は程よく温まっていた。

 コートを脱ぎ、北川先生と向かい合うようにソファに座る。遅れて、湯気の立つ湯呑を三つ持って彼女も客室へやって来て、僕の隣に座り込んだ。


「信世君は秋野先生と同級生だったから、今は二十五歳だったかな?」


 北川先生は湯呑に手を伸ばしながら、そう尋ねて来る。「そうです」と答えると、「もう十年か……私も歳をとった訳ですね」と、遠い目をする。


「そういえば、信世君のおばあさん、とても残念でした。葬儀に出ることが出来なくてすいません」

「いえ」

「この学校が廃校になることは知っていますか?」

「はい」

「そうですか。実は、その件について外せない用事があって、葬儀に参加することが出来なかったのです。改めて、お墓参りに行かせてもらおうと思います」


 廃校について話す北川先生の顔はどことなく寂しげで、それを紛らわすように「信世君のことを聞かせてもらえますか?」と、そう笑う。

 ずっと気になっていたから。成人式で会うことは出来なくて、いつか話がしたいとずっと思っていたと、北川先生はそう話す。

 僕にとっても北川先生は特別な存在で、北川先生は僕の初めてのピアノの先生だ。この町にはピアノ教室なんてものは無くて、ピアノを学ぼうにも祖母は体を悪くしてしまって難しかった。そんな中、当時小学生だった僕は音楽の授業を担当していた北川先生にピアノを教えてもらうようになった。

 楽譜の読み方、指の運び方、そういった基礎的なことは、すべてこの北川先生から教わったのだ。


「そう、ですね」


 老けた北川先生の顔を視界におさめると、過去の記憶が重なるようで静まっていた胸の奥底が再び騒めき出すのが分かる。

 僕はピアノを手放したのだ。僕はピアノのことが嫌いになったのだ。それを、恩師に告げることが果たして出来るのだろうか。告げたとして、どんな顔をされるのだろう。


「信世君」


 ふと、そんな声が隣から聞こえる。じっと、彼女は僕の目を見つめてくる。言葉こそないが、その目は「大丈夫」だと僕に伝えてくれているようで、無意識のうちに込めていた肩の力が、ふっと抜けて行くのが分かった。


「北川先生。改めて、僕は先生にとてもお世話になりました。だからこそ、僕は謝らないといけないと思います」


 音楽科のある高校に進学し、僕なりにピアノと向き合って、限界まで駆け抜けて、都会の音大に進んで、限界はその壁を無くし世界は広がった。

 高校までの世界の広さに耐えることは出来たが、しかしさらに広くなった世界に僕は食らいつくことが出来なかった。

 それでも認めたくはなかったのだ。僕は所詮少しピアノが弾ける程度の凡才であるということを見とめたくはなかった。誰しもが特別でありたくて、誰しもが自身を特別であると妄信していなければ立っていられない。あの場所はそういう場所で、特別ではないことは死ぬことと同義であった。

 改めて思い返すと、僕は病気か何かに罹っていたのではないのかと、そんなことを思ってしまう。きっとそれほど僕はピアノに執着していて、縋りついて生きていたのだろう。


「その結果、僕はその、ピアノを弾くことが出来なくなってしまいました」


 蝋燭の火が弱まって行くのを僕はあの時感じていた。目が眩むほどライトが照らすあの舞台の上で、ピアノと二人きりになって鍵盤を叩きながら、僕はもうダメなのだと悟った。


「つまり、僕は諦めてしまいました」


 だからごめんなさいと、北川先生に謝る。北川先生にあれほど多くのことを教えてもらったのに、僕はその恩を返すことが出来なかった。北川先生にだけは、しっかりと話すべきであったはずなのに、僕は得体のしれない恐怖からそうすることが出来なかった。

 頭を下げて、これまで抱いてきた感情とは別の感情が浮かび上がって来るのが分かった。僕はおそらく悔しがっている。そのことが分かるのと、北川先生が「私もそうでした」と言うのは同じだった。


「信世君、私も君と同じだったのです」

「同じ、ですか?」

「ええ。私も同じです。とはいえ、私は音大に入学してすぐに悟ってしまったため、信世君よりも愚か者であったかもしれませんが」


 一度も聞いたことがない、北川先生の過去の話を僕は聞く。

 北川先生もピアノの魅力に取りつかれ、ピアノにのめり込み、ピアノと共にあった青春時代だったと、少しばかりの憂いを含む笑みを浮かべる。

 僕と同じように、小学生、中学生だった時は学校で一番ピアノが弾けるということで有名になって、実際にコンクールで入賞したこともあり、自分は一生ピアノと共に生きて行くのだと、そう考えていた時期があったという。


「当然プロになるつもりでいました。親にはピアノなんてやっていたって飯は食っていけない。もっと現実を見ろなどと反対されましたが、私は頑なにピアニストになるのだと話し、喧嘩別れをするような形で音大に進みました」


 私も若かったと、北川先生は後ろ髪を掻き、そして「でも、私はすぐに諦めてしまいました」

とそう語る。

「音大に入ってすぐ発表会があったのです。そこで、私なんかよりもずば抜けて上手くピアノを弾く人間がいることを知りました。それも一人二人という訳ではなく、何十人も集まっていて、その時に私は悟ったのです。ああ、私には届かない場所なのだと。おそらく私は大学でピアノを続けても、彼等には決して届かないだろうと、そう思ったのです」


 純粋にピアノが大好きなのだと分かる人と話をしている時がとても辛かったと、北川先生は話す。その気持ちは僕にもよく分かって、そういう奴に限って僕なんかよりも何段も上にいたりするのだ。


「自分のことが嫌いになりました。どうして親の話をもっと真剣に聞きとめなかったのかと、絶対に叶えることが出来ると豪語していた過去の自分が、私を惨めなものへと変えていきました」


 同時に、所詮その程度の気持ちだったのだと落胆する。まさしくそうだ。僕がこれまで抱いてきた熱意はこうもあっけなく冷めてしまうのかと、その事実が追い打ちをかけるのだ。

 北川先生はその後どうしたのだろう。それが気になって、僕は北川先生に尋ねる。すると先生は、「時間が解決してくれます」と、そう語った。


「それは逃げで、心を麻痺させるだけの手段でしかないのだと思います。でも、私の場合はそうだったように思います。悟って、音楽教師になるしかないなと諦めて、そうして音楽教師になって日々を過ごすうちに、過去に抱いていた希望だとか、夢だとか、熱意だとか、そういうものはどこかへ行ってしまいましたね」


 北川先生は、「それはきっと、正しいことではなかったのかもしれない」と、そう話す。

 正しくはない。正しいことは、理想は、もちろん本当にやりたいこと、夢だとか、そういうものを現実のものにすることだ。それが無理でも自身に正直であるべきだ。北川先生は、自身はそのように生きて行くことは出来なかったことがこれまでの人生における最大の後悔であると語る。


「まだ音大に入って最後まで全力でぶつかっていればこんなにも中途半端な気持ちではなかったでしょう。最後まで走り抜けて、そうしていれば、もしかしたらという淡い期待のようなものをずっと抱え込まずに済んだでしょうし、別の道を必死に進むことだって出来たはずです」


 こんなことを言うと申し訳ないが、私は先生になりたくてなった訳では無くて、それしかなかったから先生になったと、どこか遠い目をして僕と、そして彼女に視線を向けた。

 しかし、北川先生は「それでも決して悪くはなかった」とそうこぼした。


「こうして教え子が同じ教師になって、同じ学校で働くことが出来ているというのはやはり嬉しいですし、なにより信世君と出会うことが出来たのが、一番大きかった」

「僕、ですか?」

「ええ」


 まるで昔の自分を見ているようで、ピアノと純粋に向き合い、夢を語る姿がとても微笑ましかったと、北川先生は話す。


「だから、信世君が私に謝る必要はありません。こうして再び話すことが出来た。同じ夢を抱く少年に、ピアノを教えることが出来た。それだけで、私は充分ですから」


 北川先生の言葉は僕の奥底に響く。先生、それでも僕は、そんな先生から教わったピアノのことが嫌いになってしまったんです。


「でも、僕はそんなピアノのことが嫌いになってしまった。ピアノと向き合うと、気持ちが悪くなってしまって、立っていられなくなってしまうんです」


 そのことが、まるでこれまでやって来たこと、出会って来た人達と積み上げて来たものを否定しているようで苦しい。


「なら、やはり信世君は私よりもピアノと向き合う資格があると思いますよ」

「それは、」


 どういうことだろう。


「私は逃げました。何年と積み上げて来たものを簡単に切り捨てて諦めたのです。私の場合、それが今なお深く後悔として残り続けている。でも、信世君はそうではないでしょう?」


 そうではない。それはつまり、後悔してはいないだろうと、そういうことだろうか。

 確かに僕はピアノに関して後悔の念を抱いているというよりは、ただ怖くて嫌いになっただけだ。


「嫌いだというのなら、それはまだピアノのことを見ているということに他ならない。確かに君は挫折したのでしょう。でも、だからと言って逃げたという訳ではない。だから、信世君は私よりも立派です」


 北川先生は「そんな教え子を持つことが出来て、私は幸せでした」と、僕がまだ小学生の頃、ピアノを教えてくれていた時によく見せてくれた微笑みを浮かべるのだった。

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