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 北川先生。僕は彼女から送られてきたメッセージを通してその懐かしい名前を思い出した。

 北川創志先生。先生は僕にとって恩師のような存在で、小学校に入学してから中学を卒業するまで、ずっと長い間北川先生にお世話になって来た。

 小学生の頃、北川先生は六年間僕達の担任の先生であった。おまけに北川先生はピアノが上手だったから、度々僕は北川先生からピアノの弾き方を教わって来たのだ。

 すっかりと色褪せ忘れかけていたあの日々が、彼女から送られてきたメッセージに含まれる『北川先生』という文字をきっかけに色を取り戻して行く。

 確か、僕が中学を卒業する時に先生は五十歳前後であったはずだから、今頃は六十歳を過ぎていて、定年を控える年齢になっていると思う。

 忘れかけていた日々を思い出すと、途端にその人は今何をしていて、どうしているのか気になって来るのだから、本当僕と言う人間はどこまでもどうしようもない。

 彼女から送られてきたメッセージは『北川先生を覚えていますか?』というもので、僕は北川先生の顔を思い出しながら、送られてきたメッセージを読む。

 一体どんなことが書かれているのだろうかと疑問に思いながら読み進めた所、要約するに、北川先生が僕に会いたがっているという内容だった。

 なんでも、北川先生は変わらずこの町の学校で先生をやっているようで、ふと彼女が北川先生に僕が今こちらに帰って来ていることを話したら、北川先生が「久しぶりに会ってみたい」とそう言ったようだ。

 まだ北川先生がこの町の学校で先生をやっているというのにまず驚き、次に北川先生と会いませんかというお誘いに対し純粋に嬉しさがこみ上げた。

 だから、僕は彼女からのメッセージに対し、「僕も会いたい」ということを含ませながら返信をして、今週の土曜日に学校で北川先生に会うことになった。

 それから数日が経過し、約束の土曜日がやって来る。朝目を覚まし、母親の朝食を食べ、身支度を整えて外に出る。

 待ち合わせ場所は学校の校門前で、僕は中学を卒業してからおよそ十年ぶりにこの町の、廃校が決まった母校に向かう。

 海に沿って走る道路。それが僕にとっての通学路で、小学生になり、中学生となり、そしてこの町を出て行くまでの九年間、絶えず歩いてきた道だった。

 冬の寒さが身に染みて、時折来る風に身をすくめながら、僕はかつて何度も往復してきた通学路を一歩一歩踏みしめるように進んで行った。

 海を眺めながら、時折後ろを振り返って、前を向いて目的地である学校を見据え、ゆっくりと歩く。

 この道を、時に一人で、時に彼女と、時に鳴海と、時に三人一緒になって歩いてきた。春の日も、夏の日も、秋の日も冬の日も、僕はこの道を歩いてきたのだ。

 小学生の頃は腕を目一杯伸ばして、この防波堤に上がるだけで一苦労だった。そういえば、よく鳴海はこの防波堤に上がって、僕を見下ろしながら「お前も早く上って来いよ」なんて僕に話しかけて来たものだった。

 雪の日は、白く積もった雪で白い球を作って、投げて遊びながらこの道を歩いていた。鳴海はいつも僕よりも早く先へと走って行き、僕と彼女はそんな鳴海の後を追いかけていた。

 夏祭り。彼女と鳴海の三人で行ったことがあって、屋台を見て回った後、確かこの辺りの海辺で手持ち花火をしたこともあった。

 まだ幼い僕達がそこら中で笑っている様だ。何も知らない、毎日を笑いながら走って過ごしていた彼らは、かつて確かにここにいた。

 この道を、毎日のように歩いていた日々は確かにあったのだ。

 どれくらいの回数、僕はこの道を往復してきたのだろう。それは分からないが、しかし僕の人生の中で一番多く歩いてきた道なのだと思う。

 この道を歩いてきた数だけ出来事があった。今はもうはっきりと思い出すことは出来ない日常は、この今歩いている道の延長線上にあった。

 淡い感傷を流すように、冬の冷たい風が頬を撫でて行く。その風を追うように視線を運ぶと、目的地であった学校の姿が見えた。

 何年ぶりの学校だろう。中学を卒業して以来一度も来たことはなかったから、こうして母校に訪れたのは十年ぶりくらいだろうか。

 あの学校も、来年になればこの町から無くなってしまう。そう思うと、目に映る馴染み深い学校が、どこか遠くへと遠ざかって行くようにも見えてくる。

 それはきっと、仕方のないことなのだと受け入れることしか出来ないのだろう。これから会う彼女の心境と北川先生の心境を考えると、二人にとってそれはどれほど難しいことなのだろうかと、自然と水平線へ視線が逃げて行く。

 それでも歩みを止めるわけにも行かず、僕は約十年ぶりに母校の校門前に立った。昔と変わらない。ただ、こんなものだっただろうかと、不思議とかつて通っていた学校が小さくなったように映った。

 彼女はまだ来ていないようで、僕は黒い塗装が所々剥げている閉じた校門に背を預け、冬の空を仰ぐ。

 学校が逆さまに映って、空へと落ちる様だった。何もかもが逆さまになって、海は空、陸は雲、雨は駆けあがり、僕は未来から過去へと歩んでいく。仮にそんなことが現実に起こったら、少しは笑う回数も増えるのだろうかなんて、夢うつつに取るに足りないどうでもいいことを考えていると、すぐさま「信世君」という声が現実へと引き戻すように聞こえて来て、視線を戻すと茶色いコートを着た彼女の姿があった。


「信世君、来るのが早いね。待たせちゃったかな」


 少しだけ息を切らした彼女は、白い息をはぁはぁと口から吐き出す。


「そんなことないよ。大丈夫」


 僕が勝手に早く家を出て、勝手に早く学校に来ただけだ。何となく家でじっとしていられなかっただけだ。

 彼女は「本当? ならよかった」と笑い、「それじゃあ行こうか」と校門を開けて学校の敷地内に入って行く。

 彼女の後を追って校内に入る直前、僕の心の内側に慣れ親しんだ躊躇いが生まれるのが分かった。ちょうど駅の改札を通る時に感じていたあの躊躇いだ。

 この先に待っているのは、過去の僕自身でもある。今更になって、過去に触れることが怖くなったのだろうか。

 そんな一瞬の躊躇いを、僕は彼女の背中を追いかけることで踏み越える。きっと大丈夫だと、そう言い聞かせて僕は約十年ぶりに学校の敷地内に足を踏み入れた。

 校舎は一つ。五階建てで、一階に保健室だとか、事務室、給食の配膳や下駄箱、来客用の玄関口があり、二階は小学生のクラス教室と職員室があり、三階には中学生のクラス教室がある。そして、四階と五階には図書室だとか、家庭科室、そして音楽室といった特別教室があった。

 左手側にそんな校舎が建っていて、その校舎の奥、つまり海側には体育館があったはずだ。そして右手側にはグラウンドとプールがあって、この学校に通っていた時は、海を眺めつつ息を切らしてグラウンドを走っていたものだった。

 グラウンドを見て、一つ思い出す。そう言えば、小学生の卒業式の後あのグラウンドにタイムカプセルを埋めたのだ。大人になったらみんなで掘り起こそう。そう約束して、あのグラウンドのどこかに子供の頃の気持ちを手紙に込めて埋めた。

 あれは一体どうなったのだろうか。彼女や鳴海はもうそのタイムカプセルを掘り起こしてしまったのだろうか。

 少し前を行く彼女に聞きたくなったが、しかし僕は実際に聞くことなど出来なかった。聞いたところでどうするのだと、そんな気持ちの方が勝ったのだ。

 小学六年生の時に書いた手紙の内容など忘れてしまっても想像は出来る。夢見がちで幼かった僕は、叶えることも出来なかった遠い夢について、輝かしい希望にあふれた言葉と共に書き記していただろう。

 将来を信じていた自分自身と対面することに、いつからか恐怖を抱くようになってしまった僕                    は、きっとタイムカプセルに触れるだけの度胸を持ち合わせていない。ほんの少し心が軽くなった気でいたが、しかし僕はまだそこまでの事をやってのけるほどの自信はなかった。


「ごめんね信世君。信世君は来客用の玄関口から入ってもらっていいかな? そこでちょっと待っていて」

「ああ、うん。分かった」


 彼女はそう言って、職員用の玄関口へと向かっていく。僕は一旦彼女と別れて来客用の玄関口を目指し、そこから校舎内に入った。この学校に通っていた時は、ここではなく下駄箱のある所から出入りしていたのに、もう僕はそこからこの学校の校舎に入ることは出来ないのだと思うと、やはり変わったのだなと感じずにはいられなかった。

 少しして、彼女が来客用の玄関口に姿を見せる。僕は彼女の指示に従って名簿に氏名を書き、事務室にいる事務員から来校の許可を貰ってスリッパに履き替える。


「どう? 久しぶりに来た学校は?」


 どうだろう。焦げた茶色をした廊下を歩くと、時折メシメシと軋む音が聞こえて、天井には所々染みが浮かんでいる。そんな様子はどこまでも変わらない青春時代を過ごした建物で、校舎内を漂う少しばかりジメリとした木のような匂いは、的確に僕の記憶を刺激する。


「変わらないね」


 でも、変わろうとしている。この学校は、来年度にはもう廃校になる。


「この学校の校舎ってさ、廃校になったらどうなるの?」


 僕がそう尋ねると、彼女は一度暗い顔をした後、「壊される予定だよ」と、無理に笑って見せた。

 そもそも、この校舎自体が古すぎるらしく、廃校になった後何かしら活用することも考えられたが、結局解体することでまとまったという。

 この町自体に活気がない。廃校となった校舎を活用しようにも、こんな交通の便も悪い場所で人も少ない。

 過去を吸い込んだ校舎は、その果てに壊される。


「そうなんだ」

「うん」


 もう、ここはなくなってしまうのか。

 隣を歩く彼女の顔を盗み見る。しかし、彼女は俯いていてその表情までは見て取れなかった。

 なんと言葉をかければいいのか分からない。彼女は顔を上げて、「だから、最後の卒業式はこれ以上にないものにしないとって、頑張らなきゃね」と、俯けた顔を上げて「おー」なんて声を上げる。そんな様子がとても懐かしくて、僕は思わず笑ってしまった。


「なに? 私、何か変なこと言ったかな?」

「ううん。違うよ。本当、君は変わらず強いなって、そう思っただけだよ」


 赤く塗装された階段を、彼女は一段飛ばしで駆けあがる。そして、彼女は振り返って僕を見る。


「強くなんかないよ。強くあろうって、そう意気込んでいるだけ」


 冬の、ツンとした空気に彼女の寂しげな声が溶け込む。

 一瞬の静寂に、彼女の憂いた表情。それをごまかすように、「なんて、早く行こう。北川先生が待っているよ」と、再び彼女は階段を一つ飛ばして上がって行った。

 そんな彼女の後ろ姿は、いつか見た背中と重なるようで、また僕は彼女にかけるべき言葉を見つけ出すことは出来なかった。

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