3-6
一度だけ、僕は北川先生に「先生、ピアノは好き?」と尋ねたことがあった。それは、僕が初めて北川先生に放課後音楽室でピアノを教わった日のことだ。
十年以上前の話。その時北川先生は何と答えただろうか。「好き」だとか「好きではない」だとか、そういう答えでは無かったのは確かだ。好きか嫌いか。明確な回答ではなく、もっと別な、曖昧な言葉であった。
防波堤の先端で、最も海に近い場所で座って、夕日の赤にかつての記憶を映し出す。
同じように真っ赤に染まった音楽室で、黒いピアノを前にして座っていた僕は、左手側に立っていた北川先生を見上げている。
北川先生は僕の質問を聞くと、一瞬だけ目を見開き、その後は何か懐かしむような表情をする。背後で響いたのは下校時間を告げるチャイムで、音楽室は放課後の空気で満ちていた。
一日の終わりを告げる鐘の音は静寂の尾を引いて遠くへと消えて行き、そして北川先生は、
「私にとって無くてはならない存在だった。それは確かだと思います」
と、そう言った。当時の僕は、その時の北川先生の声色に、どこか悲しいという感情を抱いたことを覚えている。無くてはならない。それはつまり好きだということで、それなのにどうしてそんなにも悲しそうに話すのだろうと、僕は思っていた。
今なら、あの時北川先生がどのような気持ちでその言葉を自身の口から放ったのか、その一端くらいは想像できる。
無くてはならなかったが、それが必ずしも好きだとか、愛しているだとか、そういう好意に繋がるという訳ではないということを。
「…………」
僕にはまだ、ピアノと向き合う資格がある。
果たして本当にそうだろうか。
そもそも、資格というのは何なのか。ピアノに愛される資格か、それともピアノに選ばれる資格か。
僕はピアノのことが嫌いになった。いや、正確に言えばそれは正しくなくて、嫌いと言うか、どうしようもなく拒絶してしまうのだ。つまりは怖くて、恐怖のあまりピアノを見れば気持ちが悪くなり、鍵盤に触れようものなら目の前がグルグルと回り出して立ってはいられなくなる。
本当、お前は昔から変わらないなと、波の音が耳元で囁いてくる。
「そこ、私の場所なんだけど」
ふと、そんな声がして僕は後ろを振り返った。
振り返ると、そこには数日前にこの場所で出会った女子中学生の姿があった。かつて僕も着ていた、懐かしい学校指定の紺色のジャージを身に纏い、初めて出会った時と同じカメラを首から下げていた。
「実は、十数年前ここは僕の場所だったんだよ」
中学生になると、僕はこうしてよく一人でこの場所に蹲って海を見ていた。学校で夜遅くまでピアノの練習をした後、何もせず、ピアノの音で火照った耳を覚ますように波の音を聞いていた。
どんなに時が流れようとも、景色が変わっていこうとも、この場所を大切に思って訪れる人はいるものなのだなと、それが少し嬉しくて頬が緩む。
「何だらしない顔してんの?」
「別に、何でもないよ」
女子中学生はカメラを構え、夕日と海に向けてシャッターを切った。女子中学生がこの前話していた言葉を借りるのなら、少女は今、目の前に広がる夕日と海を切り取った。
「どうかしたの?」
女子中学生は顔を前へ向きながらそんなことを言う。「どうしてそう思うの?」と聞いてみると、「そんな顔をしている人を、最近よく見るからね」と、分かるような、分からないような回答を述べる。
どうかしたのか。もう、ずっとだ。ずっと僕は何をしているのかと自問自答を嫌になるほど繰り返してきた。
お前には才能がない。そんなことは知っている。お前には真剣さが足りない。これでも僕なりに向き合ってきた。お前はピアノ以外取り得のない、本当に使えない奴だ。そうだろう。でも、しっかりしようとこれまでやって来た。
なら、そのすべては一体何のためにやって来たのだろうか。どうして僕はそんな事をしてきたのだろう。どうして僕は、ピアノを弾き続けて来たのだろうか。
その問いに明確な回答を用意することが出来ない。
なぜ、僕はピアノを弾き続けて来たのか。嫌いになるほど、ピアノが怖く見えてしまうほど、僕はピアノを弾き続けて来たのだろう。
「君は、プロの写真家になりたいだとか、そんなことを思っていたりするの?」
女子中学生はシャッターを切る。そして、「そうだよ」と、どこかで聞き覚えのある声で明々と言い切った。
「両親は現実見ろとか言うけれど、私は本気。私のことは私が決める」
そう言う女子中学生は強く見えた。そうだ、この少女はかつての僕に似ているのだ。まるで過去の僕を見せつけられるようで、だからこそ今目の前に立つこの少女がとても力強く見えるし、目を逸らしたくなる。
夢を、希望を、輝かしいままに見据えて走ることが出来る、傍から見れば陶酔しているかのような眩しさを少女は内側に秘めているのだろう。
僕が落とした大切な何かを少女は持っている。その夢は、後に自身の首を絞めつける原因となることを、僕はもう知ってしまった。決して遠くない未来、その希望に縋りつくあまり、気が付けば後戻りできないところまで歩んでしまうことになった。
僕は無意識のうちに「現実は、確かにあったんだ」と、そんなことを呟いていた。
「は?」
女子中学生は「何それ?」と尖った声を出す。
現実を現実として受け入れる時というのは確かに訪れる。好きなものをずっと好きでい続けることは難しい。愛することを知らず、夢を夢のままにしておけないのが現実で、すべてが無意味に見えてくる現実は目を背けることなど許さないと迫り来る時が必ずやって来る。
この女子中学生に、「そんなものは叶わない。夢は所詮夢だ。だから、自身の身の丈に合った、もっと現実を見据えた生き方を選択するべきだ」と、そう言ってやりたくなる。
それは、あまりにもこの女子中学生がかつての僕と同じ瞳をしていたからだ。僕は、その純粋で美しい瞳が濁って行くのを許せないのだと思う。
「仮に、君のその夢がかなわなかったらどうする?」
僕は話していた。僕自身のことを、かつての僕のような少女に話していた。同じように、僕もプロピアニストになるつもりでいた。でもそれはやはり無謀なものであった。
「カメラを、写真を撮ることを嫌いになって、怖いと感じるようになったらどうする?」
僕はピアノが怖い。立っている場所が崩れ、底の見えない暗い穴の底へ落ちて行くような感覚に襲われる。
まるで過去の自分自身に問いかけているようだった。いや、きっと僕はずっと聞きたかったのだと思う。何よりも過去の自分自身に、ピアノのことが好きで、まだ夢を夢として追いかけていたあの頃の僕に、「君は本当にそれで良かったのかい?」と、ずっと聞きたかった。
今、閉じることのない僕の耳は波の音を捉えている。変わることなく同じ音を虚しく響かせる波の音だ。その音を切り取るかのように少女はシャッターを切った。
「それでも私は、写真を撮っていたい」
冬の海風が、少女の黒い髪を撫で上げる。体は途方もなく広がっている海を向き、少女は顔だけを振り返るかのように僕の方に向けた。
「変な人には何をガキが粋がってんだって思うかもしれないけど、少なくとも今の私はそうしたいからしているんだし、そうありたいって思っていたい」
少女の言葉が僕の背中を押すようであった。もしくは、無理やり手を引っ張られて立たされたようだ。
少し照れたように後ろ髪を掻く少女の灯が、僕の灰となった残骸に無理やり炎を灯すのが分かる。その小さな灯が放つ微小な熱が、雪を解かすようにじんわりと染みわたって行く。それは僕の足に伝わって、自然と僕は立ち上がっていた。
「何?」
「何でもないよ。本当、君の言う通りだと思っただけ」
きっと、過去の僕も同じことを言うと思う。未来を考えるだけの余裕もなく、かといって振り返るだけの過去を持ち合わせていない少年は確かに今を生きていて、今やりたいことがピアノを弾くことだったのだ。
本当、いつからこんなにも今を直視することが出来なくなってしまったのだろう。見えもしない、それこそ虚像のような未来と、足首を掴むような過去に囚われ続けるようになったのだろう。
今でもピアノは怖いだろうか。きっとそうだ。僕はまだピアノが怖い。ピアノを前にしたら、きっと僕は気持ちが悪くなってその場に倒れそうになるだろう。
それでも、結局僕の中にあるのはどこまでもピアノなのだ。嫌いで怖いけれど、やっぱりどうしようもなく好きなのだと思う。
嫌いになるほどに好きで、怖いほどに僕の内側に留まり続けている。
「今日、北川先生に会ってきたんだ」
「北川? ああ、あの爺さんね。あんた、本当にうちの学校の卒業生だったんだ」
北川先生。先生がまだ僕にピアノを弾く資格があるのだと言うのなら、もう一度向き合う理由には充分すぎるのだと思います。
「僕達のあの学校、廃校になって取り壊されるんだよね」
「そうだよ」
「今日北川先生にね、卒業式と同じ日に閉校式も執り行うって聞いたんだ」
そして、北川先生は僕にこう言った。
「閉校式でピアノを弾いてみないかって、そう言われた」
北川先生は、僕がもうピアノを恐怖の対象として捉えるようになったこと、弾こうとすると吐き気がすることを知った上で、ピアノを弾いてくれないかと誘ってくれた。もちろん、無理なら断ってもらってもいいと、そう言ってくれている。
学校を出て彼女と別れてから、ずっとそのことについてこの防波堤の先端で海を眺めながら考えていた。
僕はまたピアノを弾くことが出来るのか。弾いてもいいのだろうかと、ずっと考えていた。
「…………」
もう一度、かつて無謀な夢と希望を燃料に馬鹿みたいに走っていた少年に還りたい。
もう失うものなどない僕だ。死という言葉が放つ魅力に取りつかれそうになっている僕だ。
なら、ピアノを弾いて死んでやろう。ピアノに殺されるのなら本望だ。
「弾いてやろうって、そう思う」
馬鹿みたいだと我ながら思う。結局僕はどこまでもピアノしか能が無い人間だ。
そんな愚か者である僕のことなどどうでもいいかのように、ファインダーを覗く少女は「勝手にすれば」と、そう呟く。
故郷の海は僕の馬鹿々々しい決心など、どうでもいいと言わんばかりに変わらず揺蕩っている。
それくらいが、今の僕には心地よかった。
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