2-8


 僕は故郷の海辺にいて、ピアノを前に座っていて、隣には君がいる。

 それから、僕はゆったりと波の音に耳を傾けながらピアノを奏でる。

 ピアノから音の線が走り、何本も走って複雑に絡まり、夜の海を駆けて行く。

 時折君の肩が僕の肩と触れ合って、僕はとても幸福な時間を過ごしている。

 しかし、それはすべて紛い物だ。夢でしかなく、現実の僕はピアノを弾くことが出来なくなり、君は別の人と手を繋いでどこかへと行ってしまうだろう。

 僕の幸せと君の幸せは違うから。だから僕は君と一緒に居ない方が良い。こんな僕と一緒に居ない方が良い。

 僕はピアノと共に海へ沈む。月の光さえ届かない暗い海の底へと沈んでいく。

そうして僕は瞳を閉じ、人知れず息を止めるのだ。


「…………」


 またいつもの夢を見ていた。とても悲しいけれど、しかし現実を正しく映す夢を。

 僕はどうしていたのだろう。

 少しずつ意識が戻って来る。まず初めに感じたのは温かいという感覚だった。じんわりとした温もりが僕の頭を包み込んでいる。次にとても懐かしい匂いがした。とても落ち着く匂いだった。

 この感覚を僕は覚えている。ずっと昔、こんな風に心地の良い感覚に身を委ねた時があった気がする。

 何かが僕の頭をそっと撫でる。優しく撫でてくれる。

 それから音が聞こえる。優しい鼻歌が聞こえる。それはキラキラ星で、彼女も昔、こんな風によくキラキラ星の鼻歌を歌っていた。


「あ、起きた? 体調はどう? 大丈夫?」


 ゆっくりと瞼を開けると、そこには彼女の顔があった。

 見上げる彼女の顔は、夜空を背に優しく微笑んでいて、全く昔と変わらないなとそう思った。

 そんな風に、ぼうっとした思いを抱いた直後、すぐに自分がどのような状況にあるのか把握して、僕は思わず彼女の手を払いのけて起き上がる。

 起き上がると、酷く頭が痛んで目の前がクラクラとした。それでも立ち上がろうとしたが、足がふらついて上手く立つことが出来ない。


「ああ、まだ立っちゃだめだよ。ほら、座って」


 彼女はそう言って手招きをする。

 辺りを見渡してみるに、僕はまだ祖母の家にいるらしかった。彼女が座っているのは縁側で、正面には海が見える。

 昔よくこの縁側で祖母に膝枕をしてもらっていて、懐かしいと感じたのは子供の頃彼女も祖母を真似て時々僕に膝枕をしてくれたことがあったからだろう。


「ごめんね。いつも子供にやってあげてるから、癖でつい膝枕しちゃった」


 彼女はそう言って頬を掻く。昔からの癖だ。何か気まずいことがあったり、誰かに謝ったりする時に、彼女は昔からこんな風に頬を掻いていた。


「いや、」


 君が謝る必要はどこにもないだろう。


「僕の方こそ、その、ごめん……急に手を払ってしまって」


 すると、彼女は「ふふ」と声を出して笑った。

 何か変なことを言ったかと彼女の方を見ると、彼女は「ああ、ごめんね。そんなのじゃあないの」と呟く。


「いや、信世君変わらないなぁって。ほら、ごめんなさいって謝る時、信世君は決まって視線を左下に逸らすから」


 その言葉にドキリとする。そうだっただろうか。僕にはそんな癖があっただろうか。


「それはその、秋野さんも変わってないよ。秋野さんだってさっき、頬掻いていたし」

「そう……? ん~、言われてみれば確かにそうかもしれない」


 そう言いながら彼女は頬を掻いていて、僕達は揃って笑い合った。


「ほら、いつまでも立ってないで座ったら?」

「うん」


 彼女の言葉に頷く。人一人分くらいの距離を開けて僕は彼女の隣に座ると、「そんなに離れなくても」なんて彼女は言うが、きっとこれくらいの距離が適切な距離なのだと僕は思った。


「信世君、久しぶりだね」

「うん」

「中学生以来かな? 本当久しぶり。信世君、成人式も出ていなかったし、同窓会にも来なかったし」

「うん」


 成人式にも同窓会にも出席しなかった。この町には高校生を卒業して以来帰って来ることはなかったし、彼女や鳴海とは中学校を卒業して以来会っていない。


「だからさ、おばあちゃんの葬儀の時に信世君を見かけて驚いたよ」

「僕もだよ」


 まさか彼女と会うとは思わなかった。それに、こうして彼女と話をしていること自体、僕はまだ夢を見ているのではないのかと思ってしまう。


「秋野さんは、どうしてここに?」

「どうしてって言われても……多分、信世君と同じだと思う」


 僕と同じ。どうだろう。きっとそれは違うと思う。おそらく、彼女は祖母のことを思い出したくてこの場所に来たのだろう。でも僕は違う。ピアノを弾くきっかけを思い出すために、僕はここに来たのだ。

 だから僕は、「きっと違うと思うよ」と言葉を返した。そう、違うのだ。僕と君とでは違う。


「そうかな?」

「うん。きっとそう」


 だって、僕はつい昨日まで祖母の顔すら忘れていたのだ。そんな僕が、祖母の死を悲しみこうしてここに来るわけがない。

 僕は薄情者だ。時々、感情というものが無いのではないのかと思うことがある。

 誰かに対して怒りを覚えたことは一度もなかった。どれほど会社の上司に理不尽なことを言われようが、大学の講師や教授、大会の審査員に否定されようが、心の底から怒りを沸かせたことはない。

 祖母のことだって僕は忘れていて、祖母が亡くなろうと心が揺れ動くことはなかったように思う。今日の葬儀中、母親が泣いていた姿を見ても、どこか冷めた視線でその背中を受け入れていた。

 ピアノを弾いていて楽しかったか。過去の僕にそう尋ねられた時、果たして僕は何と答えるだろう。そして、僕は本当にピアノが好きだったのだろうか。

 今はもう分からない。だって、僕はもうピアノのことが嫌いで、怖くて、見ているだけで気持ちが悪くなってしまうから。

 ピアノが嫌い。嫌い、というのはどういうことだろう。その感情すら上手く理解する自信が無い。ただ確かなのは、先ほどのように指先が震えて、意識が遠ざかるほど僕はピアノを拒絶するようになってしまったということだ。


「秋野さんは、今幸せ?」

「幸せ?」


 人は幸せになる権利がある。高校生の時、そんな話を聞く機会があった事を思い出す。


「最近さ、子供の頃には考えなかったようなことをよく考えるようになったんだ」


 例えば生きる理由だとか生まれた理由、幸福の在り方。昔は考えすらしなかったことを最近になってよく考えるようになった。

 人身事故、自殺、他殺、戦争、病気。生きがいなんてものはどこにもなく、人は死ぬまでの時間潰しをしているに過ぎない。


「さっき、秋野さんは子供によくやってあげているって言っていたけれど、誰かと結婚して、子供を産んで、平穏な生活を過ごすっていうのは、幸せの形なのかな」

「そうね、」


 彼女は立ち上がり、そして僕の方を向く。その顔は少しだけ笑っていた。


「一つ。信世君は勘違いをしています。私は結婚していないし、子供もいません。さっき話した子供っていうのはね、受け持っているクラスの生徒っていう意味」

「生徒?」

「そう。私、今は学校の先生をやっているの」


 そういう彼女は得意げな顔をする。

 そうか。学校の先生か。

 ふと、昔彼女が話していたことを思い出す。

 中学生の時、将来の夢について話したことがあった。その時、彼女は学校の先生になりたいのだと、そう話していた。

 つまり、彼女は子供の頃に抱いていた夢をしっかりと叶えたということだ。


「じゃあ、やっぱり君は幸せなんじゃあないのかな。子供の頃に抱いていた夢をしっかり現実のものにしているのだから」

「うん。多分、そうなんだと思う。それにね、運がいいことに今私はあの学校で先生をしているの」


 彼女はそう言ってある場所を指さす。白い人差し指の先。そこには海沿いに建つ学校がある。そう、その学校は僕達が子供の頃に過ごした学校だ。

 学校を指さす彼女の後ろ姿が遠く見える。子供の頃よりも少しだけ長くなった髪が、夜風に吹かれて靡いている。

 やっぱり、君は僕なんかよりもずっと遠くへと行ってしまっている。あの時感じた二人との距離は、十年ほどの時を経て取り返しのつかないほど大きなものになってしまった。


「でもね、悲しいことがある」

「悲しいこと?」

「そう。その反応だと、きっと信世君は知らないんだろうから話すね。実は、私たちが通っていたあの学校、今年度を最後に廃校になるんだ」


 廃校。それはつまり、あの学校は近々無くなってしまうということだろうか。


「最近、入学してくる生徒がとても減っていて、今の全校生徒は小学生、中学生を合わせても八人しかいないの。だから、来年度からは別の大きな学校と統合されることになって……私も、その統合先の学校で来年度から働くことになってる」

「そう、なんだ」


 そう話す彼女の声はとても寂しげだった。だってそうだろう。あの学校には忘れたいほど僕等の思い出が詰まっていて、彼女にとっては今でも大切な場所であるはずだ。

 それが無くなる。無くなってしまう。それはきっとどうしようもないことで、今日のお昼頃に見た寂しげな商店街通りと同じように、無慈悲な時の流れに抗うことなんて出来ないのだと思う。でも、そういった事を受け入れることしか出来ないというのが僕は悲しいと思う。


「私の話はいいや。それよりも、信世君の話を聞かせてよ。私、ずっと信世君の話が聞きたかったんだ」


 彼女はそう言って僕の隣に腰かける。人一人分の間隔を埋めるように、昔の頃の距離を取り戻すように、僕のすぐ隣に座った。

 僕の話。情けない僕の話。

 暗い海が見える。綺麗な月が見える。本当の夜が、今目の前に広がっている。

 自然と足が動いた。立ち上がって、数歩前へ歩く。もう少し近くへ行ってこの町の本当の夜を見てみたくなった。


「信世君?」


 後ろから声が聞こえる。思えば、こうして誰かに下の名前を呼ばれるのはいつ振りだろう。


「僕、今は東京に住んでいるんだけど、夜がこんなにも穏やかだったなんて忘れていたよ」


 毎晩何かを探すように夜の街を歩いていた。でも、僕が求めていたものはどこにもなかった。どこまで行っても何もないのだということを自覚する以外、得るものは何もなかった。


「この町を出て十年くらい。でも、この町で過ごした時間は十年以上。なのに、僕は色々なものを忘れてしまった気がする。忘れて、失ってしまった気がする」


 こんなことを話して何になるのだろう。そう思う。でも、勝手に言葉が出てくる。


「この町の学校で過ごした日々を忘れてしまった。どんな風に毎日を過ごしていたのか、どんな事を感じて、どんなふうに笑っていたのか。どうやって生きていたのか。君と何を話していたのか。海の匂いはどんなもので、町には何があったのか。おばあちゃんの顔だとか、おばあちゃんの家でどんな風に時間を過ごしていたのかだとか、そういうことも全部忘れていたんだ」


 そう。僕は忘れてしまった。忘れたのは、もしかしたらそれらなど自分には不必要なのだと判断したからなのかもしれない。


「それを、ほんの少しだけ思い出した。思い出して、変わってしまったんだって、そう思った」


 後方から「どんな風に?」と声がする。


「とても変わったよ。うん。変わってしまった。僕は僕のことが嫌いになった。生きる理由も見失った。大人になったら一人でも立っていられるようにならなきゃなんて思っていたけれど、今の僕はそれが出来ていない。僕は僕に期待しなくなったし、生きることにも期待しなくなった。人身事故で電車が遅延した時、自殺した人がいたのに舌打ちをするくらい酷い人間になった。それに、一番変わったのは……」


 一番変わったのは。


「僕は、ピアノが怖くなってしまった」


 そう言葉にした直後、僕の声は故郷の夜に溶け込んで行き、それはどうしようもないほど逃れられない現実なのだと自分自身が耳元で囁いた。

 そうだ。そうなのだ。僕にはもう何もない。何もないのだ。

 ぐらりと、足元が揺らぐ。すぐにでも蹲ってしまいたい。

 おかしい。視界がぼやける。目を閉じると、瞼の裏がとても熱い。

 ダメだ。この町にいる間は泣かないと決めたのだ。

 我慢しなければ。今泣いたら、僕はもう戻ることが出来ない。


「僕は…………」


 僕は、何だろう。声が震えているのが分かる。

 瞳を閉じたまま顔を上げる。それから、どうすればいいのか分からなくなった。

 声を出すことが難しい。何か声を出してしまえば、僕は途端にその場に蹲ってしまうような気がする。

 どうすればいいのだろう。僕は、どうすればいい。

 真っ暗だ。本当に何も見えない。

 光など何もなく、目指すべき方向も、自分が立っているのかどうかも分からなくなる。


――お疲れさま――


 暗闇の中で、確かにそう声が聞こえた。

瞳を開けて後ろを振り返る。そこには祖母の家があって、縁側に彼女が座っている。


「お疲れさま」


 それは、ズルい。

 その言葉とその微笑みは反則だ。

 僕はもう、泣くしかないじゃあないか。


「もう、充分だよ。私、信世君がこの町を出てからどんな風に日々を過ごしていたのか知らないけれどさ、信世君がこの町にいた間、どれだけ努力してきたかはよく知っているから」

「信世君は、ずっとピアノと向き合って、必死に努力してきた。私はまだ信世君がどんな曲をどんな風に弾いていたか覚えている。私は、忘れていないから」

「私は、信世君の弾くピアノ、大好きだよ」


 何かが溢れ出る。とても熱い何かが、奥底から這い上がって来る。

 終わったんだ。

 もう、終わったんだ。

 力が抜ける。我慢が解けて、蹲って、馬鹿みたいに泣く。子供みたいに泣いた。鼻水と涙が気持ち悪いほど流れ出て、「ああ、泣いてしまった」とどこか自分のこと冷めて見下ろす僕がいる。

 そんな僕の背中を、丸くなって小さくなった背中を、彼女は優しく撫でてくれる。


「……ごめん」

「謝る理由なんてないよ。むしろ、私の方こそ信世君の話を聞かせてなんて言ってごめんなさい」

「…………ごめん」

「大丈夫。大丈夫だから」


 涙が止まらない。どうしたって、止まってはくれそうになかった。

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