2-7

 実家に戻り、久しぶりに実家の風呂に浸かる。両親は疲れたのか帰宅してすぐに眠ってしまった。

 久しぶりに帰って来た実家は出て行った時と比べ多少の違いこそあるが、しかしそのほとんどが昔のままだ。

 特に僕が昔使っていた部屋はかつてのままで、ピアノに関する参考書や数々の楽譜、卒業アルバムや卒業文集、そういったものがそのまま残っていた。

 時刻は夜の十一時。明日の午前にこの町を出ると両親には伝えてある。

 風呂から出て自室へ行き、カーテンを開けて月の光を浴びながらベッドに仰向けになる。

 懐かしい天井。この先、またこの天井を見つめながら夜を過ごすことはあるのだろうか。

 葬儀で見た秋野の姿と給水場で見た両親の後ろ姿。惨めな僕と、昔の僕。祖母の遺影と故郷の海。ポツポツと薄暗い天井に浮かび上がる。

 たった一日なのに、しかし今日という日はあまりにも色々なことがありすぎた。この町に帰って来てしまったという時点で僕にとっては十分すぎるほどの出来事なのに、それに加えて祖母は亡くなり、母は泣き、秋野にまで出会ってしまった。その所為で否応なく昔の記憶が脳裏に浮かび、葬儀の最中に思い出したそれが胸の内で大きく暴れている。

 そんな状態で眠ることが出来るはずがなかった。そもそも、最近夜中は外を出歩いて過ごしていたのだ。その習慣はすっかりと僕の体に馴染んでしまい、一向に眠気などやって来る気配は無い。


「…………」


 このまま眠りたくない。今日という日をまだ終わらせたくはなくて、やり残していることがあるような気がする。

 気が付けば僕は着替え始め、静まり返った家の中を出来る限り足音を消して歩き玄関を目指した。

 玄関を開けて外に出ると、夜の海が目の前で悠々と揺蕩っていた。

夜の海。故郷の海。潮の匂いが腐りかけた肺に染み込むのが分かる。

 季節はもう冬に移り変わろうとしていて、こちらで吹いている夜風の方が、幾分か都会の夜風よりも冷たく感じる。でも、それは決して嫌な冷たさではなかった。この町に吹く夜風はどこまでも澄んだ氷の冷気のように美しく、僕はこの風を背にして育ってきたのだ。

 海沿いに走る道路を渡り、防波堤の上に立つ。

 故郷の夜はこんなにも静かだっただろうか。月明かりに照らされた海面は、キラキラと光りながら止まることなく揺らめいている。

 繰り返し海は砂浜を濡らし、波は防波堤に当たって重く柔らかな音を響かせていた。

 何もかもが懐かしく、目に映るもの、聞こえるもの、肌で感じるもの、その全てがやはり僕の首を絞め上げる様だった。

 海に沿うように防波堤の上を歩む。いつもなら当てもなく夜の世界を彷徨うところだが、今日の僕には目的地があった。

 防波堤から下りて、山のある方へ足を向ける。澄んだ空気を夜の虫が震わせ、月明かりと点々と立つ外灯が行く道を照らしている。

 昔の記憶を思い出しながら、今日見た祖母の顔を浮かべながら、向かう場所はきっと僕の原点。

 ずっと忘れていた。いや、忘れていたというよりは、分からなかったことが一つある。

 それは、一体どうして僕はピアノなんてものを好きになったのかということだ。

 果たして僕はどこで初めてピアノと出会い、ピアノの音色を聞き、どうしてピアノを弾き始めたのか。それが全く分からなかった。

 これまではその理由なんて気にも留めてこなかったけれど、僕はピアノが嫌いなのだということを自覚した時、そもそもどうして僕はピアノなんかを好きになったのだろうと考えるようになった。

 つまり僕は、ピアノと初めて出会った時の記憶を欲していたのだと思う。初めてピアノを目にした時のこと、初めてピアノの音を聞いた時のこと、その記憶を僕は求めていた。

 絶対にあるはずだ。でも、どうしたって思い出すことなんて出来なくて、もうずっとピアノが傍にあるというのが普通であったような気がしていて、きっと今、僕はこれまで歩んできた道を引き返している。

 ずっと歩いてきた。一人で、ずっと歩いてきた。振り返ることなく、誰かと歩みを共にするわけでもなく、ずっと目の前にあるピアノだけを見続けて歩いてきた。

 遠くへ行けば行くほど周りに人はいなくなっていった。歩いてきたのは誰でもなく僕で、先へと行けば行くほど孤立を極める様だった。

 そう言うものなのだ。進むことは孤立することで、同じ道を選ぶ人もいたけれど、他人に構っていられるほど道は優しくなかった。

 歩んできた道を引き返すことは、ちょうどアルバムをめくることと同じだ。こんなことをしたところで今は変わらない。全くの無意味で、どこまでも閉じた感傷に浸ることでしかない。

 でも、僕の足は一向に止まる気配はなかった。僕の足は、何かに引きつけられるように歩み続け、そしてたどり着いた。

 父の言った通りだった。祖母の家は昔のままで、この家を必要とする人はもういなくなってしまったのに、この家は昔のままずっとここに残っている。

 木造の小さな家。木々の生い茂る森の麓。近くには小川があって、庭先には銀杏の木がある。

 僕が初めて聞いたピアノの音色は、祖母が奏でるピアノの音色だった。

 僕が祖母を訪ねると、祖母はいつも美味しいクッキーと甘い紅茶を出してくれた。小学生の時、僕はその美味しいクッキーと紅茶を飲むために、よく放課後に彼女を連れて祖母の家に遊びに行っていた。

 ある日、僕は祖母の家で大きなピアノを見たのだ。小学校の音楽室にもそれはあったけれど、祖母の家にあったピアノは学校にあるそれよりも少しだけ小さかった。

 狭い部屋、そこには柔らかな日差しを浴びた小さなピアノがあった。僕が初めて何かを見て綺麗だと感じ取った瞬間だった。

 トイレを済ませて、秋野と祖母がいるリビングに戻る途中、僕はそのピアノと出会った。少しだけ開いた扉から光が差していて、何かに導かれるようにそっと僕は扉の先にあるものを見た。

 ピアノと出会った後、僕は祖母のいるリビングまで急いで駆けて行き、「あの部屋にあるのはなに?」と紅茶を入れていた祖母に尋ねた。

 ああ、次々と記憶が蘇る。

 その時、クッキーを一かじりしていた彼女は驚いたような顔をしていて、祖母は「落ち着きなさい」と笑っていた。

 それから、祖母はゆっくりとリビングを出てあの部屋へと僕を導いてくれた。

 ちょうど、こんな感じだ。

 今はもう真っ暗なリビング。もうクッキーも紅茶もない。祖母もいない。誰にも使われることのない食器や家具、倒れた写真立て。

 リビングから廊下に出て、左の扉。

 祖母はその扉を開けて、「これはピアノって言うのよ」と笑い、鍵盤を一つ、ポーンと押し込んだのだ。

 優しい日差しが部屋を暖かくしていて、祖母はそんな中でピアノの前に座り、曲を弾き始めた。確かキラキラ星だったはずだ。でも、それは僕が学校で聞いたことのあったキラキラ星とは全く違うもので、音が楽しそうに跳ねていて、ピアノを弾いている祖母も笑っていて、こんなにも綺麗なものがあるのかと、子供ながらにそう思ったのだ。

 あれから時が経った。あの時祖母が引いていたキラキラ星変奏曲を僕も弾けるようになった。

 暗い部屋。扉を開ける。木の板で出来た薄っぺらな扉はキィと軋みながら僕に部屋の奥を見せる。

 ピアノがあった。僕が初めて触れたピアノが、夜の暗い部屋の中で静かに佇んでいる。

 祖母のキラキラ星変奏曲。それを聞いた後、僕もこのピアノに触れたくて、何か曲を奏でたくて、綺麗なものに触れたくて、祖母の膝の上に座って鍵盤を押したのだ。

 不規則にバラバラな音が出て行くだけ。それだけでも僕は嬉しかった。顔を上げれば祖母がいて、顔を横に向ければ彼女がいて、多分、あの時の僕は心の底から楽しくて仕方がないというように笑っていたと思う。

 それがどうだ。今の僕はどんな顔をしている。暗い部屋に真っ黒なピアノ。気持ちが悪い。怖い。怖い。気持ちが悪い。ドロドロとしたものがすべてを飲み込んでいくようで、今この場で立っていることすら難しい。

 ピアノは埃を被っていた。一つ息を吹くと、埃が付きの光を受けて輝きながら宙を舞った。

 こんなにも、このピアノは小さかっただろうか。僕の記憶にあるピアノと、今目の前にあるピアノとのイメージが少しだけずれている。きっと、変わったのは僕の方だ。

 椅子に座って、鍵盤に触れて、祖母の手の動きを真似るように僕は音を奏でていた。

 彼女はいつも隣に座っていて、祖母は僕の後ろから手を伸ばして一緒に鍵盤を叩いてくれていた。

 瞼の裏に浮かんでくる。ずっと忘れていた記憶が、今頃になってこんなにも鮮明に。

 どうして僕はピアノを弾くようになったのか。そんなこと、もうずっと忘れていた。

 祖母は僕のことを忘れてしまった。僕にはピアノしかなかった。だから、ピアノが好きだとかそういう以前に、僕にはピアノしかなかった。

 まさしく僕はピアノに縋りついていた。ピアノのことが嫌いになってしまうほどに。


「…………」


 ピアノを前にして座る。久しぶりだ。もう何年もピアノを弾いていない。昔は毎日何時間もピアノと向き合っていたのに。

 白い鍵盤は少しだけ濁っている。鍵盤に合わせた自分の手は、小刻みに震えていた。

 思い出すのだ。あの時のことを。あの舞台の上で、僕はピアノに選ばれなかったという事実を。ピアノと向き合った直後、すぐに便器の前に駆けて行って胃の中身をぶちまけた時のことを。

 調律はされているのか。しっかりとした音は出るのか。どうして僕はこのピアノを弾こうとしているのか。どうして僕は今ここにいるのか。どうして僕は今生きているのか。

 恐怖心と惨めな思い。自身のちっぽけさと不甲斐なさ。会社を辞め何の取り得もない自分。

 すべてが指先に集中して、鍵盤を押し込むだけだというのにそれがどうしようもなく難しい。

 指先が重い。とてつもなく重い。

 視界が暗くなる。座ってすらいられなくなる。

 ずっとこのままなのだろうか。それだけは嫌だった。

 もう祖母はいない。僕にピアノを教えてくれた祖母はいない。

 どうして僕は、祖母と距離を取ってしまったのだろう。祖母はもう死んでしまったのに。もう会えないのに、今の僕はもう一度祖母の奏でるピアノの音が聞きたいと切に思っている。

 この町にいる間は泣かない。そう決めたはずだ。でも、指先が震えて、目が熱くなる。

 あと少し。あと少しだ。少し指を動かすだけでピアノは音を出してくれる。


「…………」


 やっとの思いで動いた人差し指は、とても弱々しく音を出した。本来出るはずの音ではない、濁った音。弱々しい線は、暗闇を少し走った後、すぐに消えて行った。

 たったそれだけだ。それだけで僕は限界だった。

 スッと力が抜けて、胃がグルグルして、目の前が真っ暗になって、何も考えられなくなる。

 後はもうなるがまま。ピアノが僕から離れて行く。いや、おそらく離れているのは僕の方だ。

 世界が右側に傾いて、バタリと床に落ちる。

 立ち上がれそうにない。もう、動けそうにない。

 気持ちが悪い。今すぐにでも全て吐き出してしまい。

 体中が痛かった。内側も、外側も、痛かった。

 すべての感覚が遠ざかって行く。

 そんな中で、近づいてくる音があった。

 コツコツと、こちらに近づいてくる音。


「信世、君?」


 その声は、消えかけた僕の中にしっかりと届いた。

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