第三章

3-1


 夜、僕は一睡もすることなく卒業アルバムに目を通した。

 こんなことをしても現実は変わらない。確かにそうだ。それでも僕は陽が昇るまで眠ることなくアルバムをゆっくりとめくっていった。

 そこには過去があった。昔確かに僕が過ごした時間があった。

 それはどうしようもなく僕の胸を締め付けるものであったが、それと同時に微かに温もりを僕に与えてくれる。

 アルバムの中の僕は随分と弱々しい顔で彼女や鳴海と一緒にいた。

 遠足、海水浴、運動会、日々の授業、プール掃除。ぎこちない笑みを張り付けた僕がそこにはいた。

 思い返せば、僕は笑うことが苦手だったように思う。皆が笑う時、僕は決まって笑わなきゃと思って笑顔を作っていた気がする。

 何となく、そういうことが苦手だったのだ。皆といることが苦手だった。皆と空気を共有することが苦手だった。

 今でも笑うことは苦手だ。会社で働いていた時も、笑う度に心の表面が削られていくのを感じていて、この町に帰って来た時、実家の前で母に笑って見せた時も、僕は上手く笑うことが出来なかった。

 それでも、苦手だからと避けてはいられないほど僕は子供ではなくなってしまって、苦手だろうが上手くやる術をいつの間にか身につけていた。

 大人なんてものは偶像か何かかもしれない。ただ子供ではいられなくなってしまっただけで、蝉の抜け殻のように、ただただ虚しい空っぽなものなのかもしれないと、そんなことを思う。

 数々の写真の中で、一際僕の目を引くものがあった。

 それは卒業式の写真だった。卒業式で、体育館に彼女と鳴海がいて、後輩がいて、両親だとか、先生がいる。

 そんな中で、僕は彼女や鳴海がいる場所とは違う場所にいた。

 僕は一人ピアノの前に座っていて、ピアノを弾いていた。

 卒業式だとか、音楽発表会、それから音楽の授業。僕はいつもピアノを弾いていた。ピアノを弾くといったら僕で、僕がピアノを弾くことは当時学校内で常識だったのだ。

 そんな日々を、ピアノと共にあった日々を、果たして僕はどんな表情で過ごしていたのだろう。

 今見ている中学三年生時の卒業式の写真。そこにいる僕の表情はお世辞にも楽しそうな表情だとは言えない。そこにいる僕は、淡々とした表情でピアノを弾いている。

 この時の僕は何を思って伴奏を弾いていたのか。何となく想像はつくけれど、しかしそれが本当に当時の僕が抱いていた思いなのかは分からない。ただ少なくとも、幼い頃に祖母の家でピアノを弾いていた時のような気持ちでピアノと向き合ってはいなかったことは確かだろう。

 何が違うのだろうなと写真から感情を抜き出そうとするが、しかし一向に分かる気配はない。当時の感情も一緒に写し取ってくれたのならどれほど助かるかと、写真に無茶なことを思う。

 当時の感情を、写真に写る光景と共に振り返る。しかし、どれだけ思い出そうとしようが、ぼんやりとした輪郭を捉えているようなだけで一向に触れたいところに触れることは出来そうになかった。

 声変わりする前の声が思い出せないように、ゆったりと移り変わる時の流れは、確かに色々なものを過去へと変えてしまうらしい。

 アルバムに散らばった光景は、決して触れることの出来ないショーケースの中にある素敵なおもちゃを眺めているようで、ほんの少しだけ辛くなった。


「…………」


 朝日が昇って、部屋に日差しが入り込む。

 立ち上がってカーテンを開け、窓を開けると海の匂いが僕の肺に満ちた。

 不思議なもので、過去のことを詳細に思い出すことは出来ないけれど、この匂いを僕は確かに覚えている。子供の頃何度も吸っていた匂いで、変わらないものがあることにほんの少しだけ救われる。

 彼女は変わっているようでやはり根元の所は変わっていなかった。

 まだ記憶が鮮やかであるうちに彼女から言われたことを思い出す。自然と頬が熱くなって、胸の内側が暴れ出し、自然と顔が枕に埋まるけれど、そんな新鮮な感情を抱くこと自体が久しぶりで、可笑しいけれどそれが心地良い。

「お疲れさま」「大丈夫」「少し、休めばいいと思うよ」彼女の言葉はじんわりと胸の深い所に染み込んでくる。

 しかし、果たしてそれでいいのだろうか。僕は休んでもいいのだろうか。僕はやりきったのだろうか。

 ただ確かなことは、一つ大きな何かが終わっていたということだ。終わったものは夢か、子供の頃の希望か。何が終わったのか明確に言葉で表すことが出来ないけれど、終わりを迎えたのは確かなことで、僕は数時間前、彼女にそれを教えてもらった。

 甘えではないのかと、僕は思ってしまう。僕はもう大人と呼ばれる年齢になった人間だ。何もしないわけにはいかず、生きて行く為に何かをしなければならないのだと思う。自立して、一人でも立っていられるだけの強さが求められる。

 ふと、その義務感はどこから来て、誰に強さを求められているのか疑問に思った。

 生きなければならない。何かをしなければならない。それはどうしてだろう。

 自立して、一人でも立っていられるほどの強さを求められている。それは誰から求められているのだろう。

 思い当るのは社会だ。僕は社会で生きるのだから、社会に様々なものを与えなければいけない。働くというのはそういうことで、社会に与えられるのだから、僕も社会に与えなければいけない。

 その最たる手段が会社に所属することで、だから多くの人達は会社に就職するために仮面をかぶり、良く分からない義務感を燃料に動く。僕もそうだった。

 何に追われていたのだろうなと、僕はそう思う。何かに追われてピアノを弾き、何かに追われて就職し、何かに追われて働いて、その結果僕は解雇され、社会から弾かれて、ピアノが嫌いになった。

 立ち止まることは甘えだろうか。ずっと走り続けて来たような僕だ。立ち止まることに不安を覚える。

 そして、仮に立ち止まることが許されたとして、果たして僕はもう一度走り出すことが出来るのだろうか。


「…………」


 少し強い海風が頬を撫でて狭い部屋に吹き込む。その海風を追うように部屋へ視線を戻すと、そこら中に走り続けて来た面影があった。

 それに手を伸ばそうとしたところで、下の階から「朝ごはん、出来たよ」と母の声がする。

 僕は面影に触れることなく母に「分かった」と声を返し、部屋を出た。

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