第二章
2-1
『そうじゃない! それはただ弾いているだけ! 鍵盤を押しているだけなのよ!』
なら、どうやって弾けばいいのだろう。
『君、本当にこれまでピアノを弾いてきたの? それにしては随分と軽い音だね』
なら、どうやって弾けばいいのだろう。
『他の人はもっとピアノと向き合ってる。そんなもんじゃあ足りないって言っているの』
そうだ。だから僕はもっと向き合わないと。
『つまらない。全く以てつまらない』
そんなことは知っている。
『何も伝わってこないんだよ。音が聞こえてこない』
こんなんじゃあダメだ。
『そんなミス、小学生でもしないよ?』
こんなんじゃあダメだ。
『全然ダメ。全くダメ。基礎からやり直したらどう?』
もう一度、一から始めよう。
『あなたのために言うけれど、才能ないよ』
そんなことは知っている。
『君はダメだ』
分かってる。
『半端な覚悟で臨んでいるような奴はピアノを前にしてはいけない』
分かってる。
『なら立ち去りなさい。もう辞めた方がいい』
それでも、今更立ち去れるわけがないだろう。
「僕だってすべてを捨ててここまで来た。ピアノだけをずっと見て来た。ピアノのためにずっと生きて来た」
だから僕は弾き続けなければいけない。つまらないと言われようが、向いていないと言われようが、それでも喰らいつかなければならない。高い学費を払ってくれている両親のためにも、何よりこれまでの自分のためにも、僕は弾き続けなければならない。
何を言われようが、才能がなかろうが、それでも僕はやらなければならない。
チャンスが来た。最後の大きなチャンス。もしかしたら夢に、理想に届くかもしれないと、そう思えるほど大きなチャンスだった。
これまでやって来たことは、僕のすべてはこの時のためにあった。本気でそう思っていた。
色々なことを考えた。これまでの事を考えた。
才能がない。そんなことは知っている。
やめた方が良い。そうかもしれない。
どうして生きてんの? それはきっとこの時のために。
何のためにピアノを弾いているの? これまでの自分のために。
本当に? 本当に。
あなたの両親は? そうだ。僕のために汗を流してくれている両親のためにも。
本当に? 本当に。
なら、あなたは何を求めているの? 求めている?
そう。ピアノを弾くことに何を求めているの?
「…………」
僕はピアノが好きで、ピアノが答えてくれることが好きだった。
だから何も求めていない。
ピアノには何も求めていない。
僕がピアノに求められるようにならなければいけない。
ピアノに振り向いてもらえるようにならなければならない。
そのために、僕はピアノを弾くのだ。
コツコツと足音を立てて僕の番が近づいてくる。
一人、また一人と優秀な奴らがピアノを弾いている。
そう。僕なんかよりも優秀な奴ら。優秀な奴とそうでない奴の違いはピアノが答えてくれる。
選ばれた奴が一度鍵盤を押し込むと、音はガラリと変わるのだ。そのことがようやく分かるようになっていて、優秀な奴の演奏はやはり優秀だった。
ついに僕の一つ前の奴の演奏が始まろうとしていた。そいつは優秀な奴らの中でもずば抜けて優秀な奴だった。
そいつは自身の順番が来るとゆったりとした歩幅でピアノの元へと向かった。
そうしてピアノの前に座った後、大切な人の手を握るように、奴はそっと鍵盤に指を絡める。裏も表も含めて、この会場にいる全員が皆息を呑むのが分かった。
奴は笑ったのだ。心底ピアノを愛していると言うように、これから君を愛そうと宣言するように。
そうして奴の演奏は始まった。奴の噂は耳にしていたけれど、実際に奴の演奏を聞くのはその時が初めてだった。他の優秀な奴の演奏に耳を傾けるほど当時の僕に余裕はなかったのだ。
その時も僕は余計なことを考えたくはなかったから舞台上を映すディスプレイから目を逸らした。けれど、どうしたって奴の音はここまで届いてしまった。
音が全く違うのだ。これまで数人の奴らが同じピアノで同じ曲を演奏してきたけれど、奴の音は全くの別物なのだ。
ピアノが答えている。奴に対してピアノは美しい音色で答えている。
奴の演奏は聞く人すべてを魅了した。ピアノですら奴に魅了されたようで、会場は拍手で埋め尽くされた。
そんな中で僕の名前が呼ばれる。
次は僕の番だった。
僕だってここまで来たのだ。夢を、理想を掴むために、これまで必死に喰らいついてきた。ピアノと向き合って来た。
奴とすれ違って、僕は静寂に包まれた舞台に立つ。
黒いピアノが目の前にある。
ピアノを前にして僕は座る。
どうしてピアノを弾くの? それはピアノが好きだから。
あなたは何を求めているの? 僕は何も求めていない。
でも、答えてくれることを求めているのでしょう?
「……」
黒いピアノがとてつもなく大きく見える。スッと自分自身が後方へ抜けて行くようで、何もかもが遠ざかって行くような感覚になった。
奴はピアノを前にして笑っていた。しかし僕は笑うどころかピアノから目を背けようとした。
その時思ったのだ。僕はピアノのことが好きなだけでピアノを愛しているという訳ではないのかもしれないと。
「…………」
スポットライトが眩しくて、とても熱かったのを覚えている。
会場の静寂と、圧倒的な何かを纏って佇むピアノを覚えている。
僕が初めてピアノに対して恐怖という名の感情を抱いたことを覚えている。
僕はピアノに選ばれなかったことを、何より僕がピアノを求め切れなかったことを覚えている。
ピアノを弾きながら、その音色を聞きながら初めて挫折を経験した。心が折れる音が聞こえた。
そして、僕はあれ以来ピアノを弾くことが出来なくなっていった。
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