1-7

 時間はあっという間に過ぎ去って行った。気が付けばもう十月になっていて、僕は金を得る手段を失った。

 病院に入院していた時の記憶はあまりない。ご飯を食べて寝て起きてそれを繰り返し、気が付けば退院していた。退院したということはもう大丈夫だと医者に判断されたということだろうけれど、何が大丈夫なのか僕に分からなかった。仕事を無くし、収入はなくなって、これからどうやって生きて行けばいいのか全く見当がつかない。これのどこが大丈夫なのだろう。

 ただ、それでも退院した後久しぶりに自室で迎えた朝はこれ以上にないほど穏やかだった。もうけたたましいアラームに無理やり起こされることはない。スーツは着なくてもいいし、あの改札を躊躇いながら通らなくてもいい。人で埋め尽くされた電車に乗らなくてもいいし、会社で上司に叱られることも、心をガリガリと削りながらお客さん相手に笑みを顔に張り付けなくてもいい。これほど朝は穏やかなのかと、この時ばかりは涙を流してしまいそうになるほどよく分からないものに感謝していた。

 でも、そんな穏やかな朝も三日程度で終わりを迎えた。少しして僕は朝を迎えることが怖くなった。今日もまた一日が始まってしまう。何もしない一日が始まってしまう。仕事を失って、今はまだ貯金が少しあるけれど、それもいつかは無くなってしまう。いつまでもこのままでいられるわけがない。将来はどうする。これからどうする。僕はこれから何をして働いていく。そういったことが毎朝頭の中でグルグルと渦巻くようになって、起きている間はずっとそのことばかり考えるようになった。

心が安らぐのは寝ている時だけ。あっという間に会社で働いていた時と同じ心境に戻っていて、むしろお金の心配が付き纏った今の状況の方が悪いとさえ言える。

 生きていくにはお金が必要だ。お金を得るためには働かなければいけない。早く次の仕事を見つけて、しっかりと自立して、一人でも生きていけるようにならなければならない。

 しかし、僕は果たしてどんな仕事がしたいのか、一体僕は何がしたいのか全く分からなかった。

 ただ分かった事は、僕は本当にあの上司の言う通り『ピアノしかやってこなかった奴』だったということだ。

 ピアノのことが嫌いになった今、ピアノに関わることのない仕事を探して働いていこうかと思うが、しかしそんな環境下にいる自分自身の姿を可笑しなことに上手く想像することが出来なかった。

 二十数年間生きて来た僕は、そのほとんどの時間をピアノにつぎ込んできた。友達と遊ぶことよりも、恋人を作って同じ時間を過ごすことよりも、僕は何よりもピアノと向き合うことを優先してきた。それは変えようのない事実で、僕はそれだけピアノと本気で向き合って来たのだと思う。そんな僕は、やはりどこまでいっても『ピアノしかやってこなかった奴』だったのだろう。

 そんな僕が、ピアノ以外に何の取り得もない僕が、それなのにピアノが怖くて仕方がなくなってしまった僕が、一体どんな仕事なら役に立つというのだろう。普通の会社に正社員として採用してもらうことすら難しかったのに、それでもどうにかして手に入れた職場だったのに、結局僕は不必要だと言われたのだ。

 一体これから先どうやってまた新しい仕事を見つけ出せばいい。

 これまでのすべてが無意味だった。ピアノだけを見続けた日々は無意味だった。ピアノは僕を求めてはいなかったし、誰も僕が奏でるピアノの音色を求めていなかった。僕はピアノと一緒にはいられなくなった。

『ピアノしかやってこなかった奴』がピアノを手放せば、何もない空っぽな人間になってしまうのは当たり前だろう。

 きっぱりと諦めることが出来るのならそれがいい。加えて、諦めるのなら出来る限り早い方が良い。でも僕はそうすることすら出来なかった。諦める機会はこれまでそれなりにあった。でも、僕はそんな警告をずっと無視して突っ走って来た。

 そして今なお、おそらく僕はすべてを諦めることが出来ないでいる。過去のことを、無謀な夢を、理想を、きっぱりと手放すことが出来ないでいる。ピアノを売るあの会社に就職してピアノと関われる道に進んだのが証拠だろう。本当に笑えてくる。

中途半端に縋りつき、引きずられるようにたどり着いた場所がここだ。行き着いた先に待っていたのは崖だった。崖を前に立ちどまって、手元に残っているのはピアノに対する恐怖心とスカスカになった心だけ。

 おそらく、僕はとっくの昔にとても大切な物を無くしていたのだと思う。ピアノだけが大切だと信じ続けて、それ以外のものには目すら向けてこなかった。ピアノさえあればいい。それ以外は必要ない。これまで持っていた大切な物を捨てて、行く道端にあった大切な物を拾うことなく、ずっとここまで歩いてきた。

 もう道はない。行き着いた先は崖だ。今更ピアノに変わる大切な物を探し出すことなんて出来るわけがない。

 それでも探さなければならない。だって、そうしないと崖から飛び降りるしか手段がないから。

 だがら、僕はその何かを求めるように外をふらつくようになった。でも、平日の日中にこんな大人が私服を来てウロウロしているということが周りの人にどう映っているのか、他人の視線が気になって仕方がなくて「あいつ無職なんだ」「仕事は何をしているの?」と、そんな声が聞こえるような気がした。でもだからと言ってずっと家に籠っていると頭が可笑しくなりそうで、だから自然と人が少ない夜中に外をふらつくことが増えて行った。

 それに今の僕は眠ることすら難しかった。日中何もせずゴロゴロとしているだけの体は疲れを知らず、疲れていない体は休みを欲しないから上手く寝付けなかったのだ。会社で働いていた時はすんなりと、それこそ死ぬみたいに眠ることが出来たけれど、今は何度もベッドの上で寝返りを打つようになってしまった。

 だから、眠るためにも僕は夜の中を歩く必要があった。

 夜に外を当てもなくぶらついて、日付が変わってだいぶ時間が経過した頃家に着き、シャワーを浴びて正午頃に目を覚ます。そんな日々を繰り返すようになった。

 僕は出来る限り暗い場所を求めた。飲食店やマンションといったものが放つ明かりが届かない、真っ暗な場所を目指した。そうしてたどり着いた場所が河川敷だった。

 アパートの一室を出て、歩いて、鉄橋を渡って、河川敷に下りて座り込む。夜なのに眩しいほど明るい街が遠くにあって、これまで僕はあんな場所で生きて来たのかと他人事のように川の向こう側に広がる光景を眺めていた。

 ふと後ろを見れば、暗闇が大きな口を開けてそこにある。どこまでも夜で、風がビュービューと吹いている。

 この河川敷は境界線だ。あっちとこっちを区切る境界線。僕はもう、あっち側で生きていくだけの気力も体力も、夢も希望も失ってしまったように思う。

 本当に、もうどうすればいいのか分からない。いっそのこと死んでしまえればどれだけ楽かと思うけれど、だからと言って自ら死のうとするだけの勇気なんて持ち合わせていなかった。ホーム下に飛び込む勇気も、自分の首を自分で締め上げるだけの度胸もない。

 考えることが難しい。これまでの事、これからの事、そして今を考えることが出来なくて、いっその事明確な敵のようなものがいればどれほど救われるだろう。

 目に見えない障害がそこら中にあって、いつの間にか僕は囲まれていて、押しつぶされて、自然と眉間に力が籠る。

 瞳を閉じればとても熱く、瞳を開ければ水面が遠い街の明かりを反射してチラチラと揺らいでいた。

 チラチラと揺らめく水面が何だかとても綺麗で、川に足を入れてみると、じんわりと冷たいという感覚が足の底から這い上がって来る。

 夏の面影はもうどこにもない。川の水は足を刺すような痛みを与えるほど冷たくて、吹く風は誰も寄せ付けないように張り詰めている。冬の足音が聞こえて来るようで、あと二、三ヶ月で今年も終わるのだなと、そんな事を思った。

 年末、僕はどう過ごしているだろう。変わらず一人であの小さなアパートの一室に居るのだろうか。もう何年も実家に帰っていない。

 来年はどうだろう。職を失った僕は、果たして来年新しい仕事を見つけて働いているだろうか。僕はしっかりと生きていることが出来ているのだろうか。

 今住んでいる狭いアパートの部屋が思い浮かぶ。これまで出会った人、過ごした場所が浮かび上がる。会社、大学、高校、中学校、小学校、住んでいた家、住んでいた町、会社の同期、大学の知り合い、高校の同級生、そして。


「…………」


 もう、今更どうしろと言うのだろう。あれからあまりにも時間が経ちすぎてしまった。捨てて来たのは僕なのだ。あの町を、あの町の日々を、君を、そのすべてを捨ててここまで歩いてきたのは、そうしようと決めたのは何より僕だ。

 ピアノは今どこにある。もうどこにもない。思い出すのはいつも見るあの夢だ。

 ダメだった。どうしても耐えることが出来そうになかった。

 いいじゃないか。こんな場所、僕以外に誰も寄り付かない。こんな場所に人なんていない。

 でも、どこまでもちっぽけな意地が邪魔をして、俯いて声を押し殺している僕がいた。

 足はそれなりに疲労を溜めて熱を帯び、その溜まった熱が川に溶け出していくようだった。

 もう歩くことが出来ない。冷たい水が心地いい。

 いっその事、全身を冷たい水に浸けてしまいたいと、そんな事を思った時、ブルルとポケットに仕舞っていた携帯電話が震えたのが分かった。

 目を擦って携帯電話を取り出すと、青白い光が夜に放たれる。

 メールが一通届いていた。母からだった。母からのメールが一通届いたのだ。

 こんな時に……、と、一度止めたものが再び流れ出るのが分かる。

 母からは年に数回メールが届く。「元気にしていますか」「たまには帰ってくれば」そういう内容のメールが、両親の近況と共に送られて来るのだ。

 前回送られてきたのは、確か今年の三月頃だったと思う。

僕はそんな母からのメールに対し毎回「大丈夫」と送り返してきた。

 迷惑はかけたくないから。だからずっと「大丈夫」と返してきた。

 そして今回も「大丈夫」僕は大丈夫。何も心配することはない。

 嘘だ。そんなのは嘘だ。そう思ったけれど、でも僕は今回も「大丈夫」と返すだろう。

 そう考えながら母からのメールに目を通す。

 しかし、そこに書かれていたのはいつもとは違う文面だった。

 いつも送られて来るメールと同じくらいの文量。ただ一文だけ、メールに書かれた一文だけがいつもとは違っていて、何もかもを越えて僕の中に飛び込んで来る。


『おばあちゃんが亡くなりました』


そんな一文が、青白い光の中で浮かび上がっていた。

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