1-6
目を覚ますと見知らぬ天井がそこにはあった。真っ白な天井にはポツポツと小さな黒い穴が規則正しく並んでいて、なんだかずいぶんと昔に通っていた小学校の教室の天井みたいだった。
体を起こしてみると、右腕から管が伸びていることに気が付く。その管を追うように視線を動かすと、それは点滴に繋がっていた。
白いベッドに白い布団。窓ガラスが開いているのか白いカーテンが風に揺られている。
どうして僕はこんなところにいるのだろう。
「あ、安達さん。目を覚まされましたね」
声がした。顔を向けると、ちょうど白い服を着た人が扉を開けてこの部屋に入って来るところだった。
「お名前、分かりますか?」
名前。僕の名前。
「安達、信世です」
「出来る限りでいいので、直前の記憶をお話して頂けますか?」
直前の記憶。会社で仕事をしていて、ミスをして、ミスを取り返すために終電まで働いて、それから家に帰って。いや、家には帰っていないような気がする。改札を通った覚えはない。
「安達さん、二日前の夜中、道端で倒れたんです。それからこの病院に運ばれたんですよ。覚えていますか?」
倒れた? 僕が? それに今この人は何と言ったのだろう。二日前に倒れた?
「あの、今日は何日ですか?」
白い服を着た人は僕の問いに答えてくれる。日付を聞くと、確かにあれから二日経っていた。
「…………」
どうして僕はこんなところで眠っている? 会社はどうなった?
唯一つ、こんなところで眠っている暇など今の僕にはないということだけは分かった。
「ちょ、安達さん。まだ安静にしていてください」
「いえ、もう大丈夫です。会社に行かないと」
「ダメです。安達さんはしばらく休まれた方がいいです」
休む? 休んでいる訳にはいかないだろう。僕が立ち止まって休んでいる間、他の人間は走り続けていて、こんな僕なんてあっという言う間に取り残されてしまう。
「休んでいる暇なんてありません。会社へ行きます」
「ダメです」
なんでダメなんだ。働かないと。より多くのピアノを売らないと。でなければ僕は生きていけない。
「離してください」
「ダメです」
「離してください!」
「ダメです。それに、安達さんが働いている会社からはしっかりと休むようにと連絡をいただいています」
「…………え?」
しっかりと休むように? あの会社が? 僕に休むように言っている?
「それは、本当ですか?」
「はい」
直後、スッとすべての力がどこかへ抜けて行くのが自分でも分かった。ベッドから起き上がろうとしていた体は糸を切ったかのようにぱたりと動きを止めて、これまでずっと抱え込んでいた漠然とした焦りのようなものが、まるでシャボン玉が弾けて霧散するかのように消えて行くのが分かる。
もう休めと。お前なんていなくても大丈夫だと、そういうことだろうか。
白い服を着た人は続けて何かを僕に話しかけているが上手く聞き取ることが出来ない。ただ僕はベッドの上でこれまでのことを思い返すことしか出来なかった。
あの会社で働いてきたこと。必死になって喰らいついてきた日々のこと。
でも、思い返しても具体的に何をしていたのか全く思い出すことが出来なかった。僕は一体これまで何をしてきたのか。どうやって日々を過ごしてきたのか。何一つ思い出すことが出来なくて、それでも正体不明の何かに追われ続けていたような感覚だけは残っている。
気が付けば白い服を着た人は部屋からいなくなっていて、僕一人だけがこの白い部屋に取り残された。
どうやってここまで来たのか全く分からない。道端で倒れたという話だったけれど、倒れる直前のことは全く思い出せないし、どうやってこの場所に来たのかも全く覚えていない。
何かを探すように窓ガラス越しの空を眺め続けたけれど、どれだけ時間が経っても何も変わらない。何も思い出せなかった。それでも時間だけは変わらずに進んで行って、ゆっくりと青い空は色を変えて燃え上っていった。
真っ赤だ。これほどまでに夕日は世界を真っ赤に染め上げるものだっただろうか。
「調子はどうだい?」
静かな病室に声が響く。僕がよく知る声だ。目を向けると、そこには会社の上司と見知らぬスーツを着た男性が立っていた。
上司の顔を見て、僕はすぐに視線を逸らした。上司はこれまでに一度も見たことがないほど気持ちの悪い表情を顔に張り付けていた。それこそ、まるで僕のことを本気で心配している様に見えてくる。
「倒れたと話を聞いた時は驚いたけれど、目を覚ましてくれて本当によかった」
上司はそう言って笑う。ヘラヘラと笑う。
気持ちが悪い。ただただ気持ちが悪い。何もかも気持ちが悪い。
それから、上司ともう一人の男性は色々なことを僕に話していった。残業がなんだ。過労がなんだ。給料がなんだ。しっかりと休みなさい。今月分までは払うから。それで何とか収めてほしい。それが君のためだから。君のためにはそうすることが一番正しいと思うから。
「どうだい? 会社は辞めてしばらく療養に専念するのは?」
最後に上司はそう言った。
「…………」
すべてが夢うつつで、これはもしかしたら夢なのではないのかとそんなことを気持ちの悪い顔をした大人二人をベッドの上から眺めて思った。
なら、僕はいつからこんな夢を見るようになったのだろう。
ずっと望んでいた夢を捨てて、こんな悪夢のような現実の中を生きるようになってしまったのはいつからだろう。
気が付けば上司ともう一人の男性は病室からいなくなっていた。
真っ赤に燃え上った世界は静まり返り、真っ暗な夜がやって来る。
すべてが遠ざかった。
もう、何も考えることが出来なかった。
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