1-5
仕事を終えて会社を出た後、何時だろうと思って腕時計に目を落としたら、もうじき終電の時刻だった。
頭の中が生暖かい液体にどっぷりと浸かっているようで、どうも現実感がない。会社を出て駅へと向かう途中、ふと顔を上げて夜空を見た。こんな風に夜空を見上げるのはいつ振りだろうか。昔はよくこんな風に夜空を見上げていたけれど、こちらに来てからは自然とその回数も減って行ったような気がする。
やっぱり違うなと、そう思う。同じ夜空なのだろうけれど、どうしてこうも見え方が違うのだろう。
星が見えないのだ。この街の夜空はただ真っ暗なだけで、とても悲しい夜空だと思う。
よく見る夢のことを思い出す。君は今も変わらずあの小さな町で暮らしていて、こんな風に小さな浜辺から同じ夜空を見上げているのだろうか。それとも、もう誰かと幸せを築き上げて、僕も知らない別の街で暮らしているのだろうか。
「…………」
こんなことを考えたって意味はない。もう意味はない。僕はもうあの町に帰ることはないだろう。あそこにはまだ夢を本気で追いかけていた僕自身がそこら中に染み込んでいて、それに触れることがどうしようもなく怖い。
だから、帰ることはないではなく、帰りたくないのだ。
なら、僕の居場所はどこなのだろう。今働いている会社だろうか。それとも今住んでいる狭いアパートの一室だろうか。
どこも違うような気がして、じゃあ僕の居場所はどこにあるのかと夜空を見上げながら考えるけど、何も思い浮かばなかった。
ああそうかと、きっと僕に居場所なんてないのだ。かつて居場所であったあの町を捨ててピアノを選んだのは僕で、結局ピアノを手放したのも僕で、こうして今会社帰りに夜空を見上げている僕がいることも、すべて僕が選んだ結果ではないか。
お前、何で生きてんの?
本当、どうして生きているのだろう。
こんなはずじゃあなかった。それなりに頑張って来た。その結果がこれだ。どうして生きているのか分からない。
星も見えない真っ暗な夜空に過去が浮かび上がる。ピアノが、君が、あの町が、学校が、海が、小さな駅が。ポツポツと浮かび上がる。
浮かび上がった光景は遠ざかって、気が付けば僕はポツポツと涙を流していた。
いつからだろう。いつからか僕はこんなにも泣き虫になって、弱くなった。
視界が真っ暗になる。夜空が遠ざかり、ふっと力が抜けて行く。
「もう無理だ」そんな言葉を僕は口にしていた。
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