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「お前、こんな大事な時に弛んでんじゃあねぇぞ!」
昼過ぎ。営業から帰った僕を、上司は声を大きくして怒鳴りつける。よくもまあそんなに大きな声が出せるなと感心してしまう。
こんな大事な時。確かにそうだ。今日はとても大事な日で、ピアノを複数台購入したいという顧客との打合せがあった。僕にとっても初めてとなる大きな取引で、「成功させろよ」なんてこの上司や他の社員に言われていて、ようやく具体的な交渉にこぎつけられたのが今日だった。
その打合せで僕は大きなミスをした。顧客が購入を希望しているピアノの種類とは違うピアノの製品カタログを用意してしまった。
「お前の所為で、俺まで恥をかいちまったじゃねぇか!」
一緒に打合せに着いてきてくれたのは今僕を叱りつけている上司なのだが、上司がこんな僕のことを助けてくれるはずもない。結局、もう一度日を改めて打合せをしようということで話は終わり、今日は会社に帰って来たのだ。
どうしてこんなミスをしてしまったのだろう。どうして僕は怒られているのだろう。上司の怒号が遠くへと離れて行く。
悪いのは僕だ。僕がミスをした。失敗した。上司に恥をかかせてしまったし、会社に迷惑をかけてしまった。誰にも迷惑をかけたくはないのに、こんな些細なミスをこんな大事な日にしてしまった。
大事な日。不意に、今朝の人身事故のことが思い出される。
その途端、瞼の裏が熱くなった。見ず知らずの人が死んだ日だ。でも、この上司はそのことなんて知らないで、僕にも全く関係なくて、人が死ぬことよりもピアノを売ることが大事で、何十万、何百万の価値があるピアノの方が人の命よりも大切なのだ。
怒られることにはもう慣れた。社会人になって、会社で働くようになって、子供の頃よりも叱られる回数が増えているような気さえする。
子供の頃は「ピアノが上手に弾けて凄いね」なんて怒鳴られるどころか褒められていたけれど、大人になった僕はといえばピアノを売ることが出来なくて「使えねぇな!」なんて怒鳴られてばかりだ。
僕はもう大人だ。しっかりしなくてはならない。いつまでも夢を見ていないで現実を見なければならない。働いて、自立して、迷惑をかけないで、そうしてしっかりと生きて行かなければならない。皆そうして生きているし、そうすることがきっと正しくて社会の常識だ。
それでも、どうしてか今日だけは耐えられなかった。胸の奥が締め付けられて、どうして僕はこんな所にいて、こんな風に怒鳴られているのか分からなくなる。今自分が立っているのか立っていないのか分からなくなる。
「聞いてんのか!」
上司がさらに声を上げる。僕は「すいません」とさらに頭を下げる。自分の声が小さくて、少しだけ震えているのが分かる。
ごめんなさい。ごめんなさい。役に立たなくてごめんなさい。迷惑をかけてごめんなさい。
「本当使えねえな! ピアノばっかりでろくに勉強もしてこなかったんだろう!」
その通りです。ごめんなさい。
「謝ることしか出来ないのか!」
ごめんなさい。もうどうしていいのか分からないのです。
「この役立たずが! ……ったく、お前、本当に何で生きてんの?」
ごめんなさい。もう僕にも分からないのです。
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