1-3

 目覚まし時計が鳴り響く。まだ睡眠を欲している脳みそを無理やり起こし、冷たい水道水で顔を洗う。

 頭が重い。体の疲れが抜け切れていないのがよく分かる。鏡に映る自身の顔は昨日よりもやつれているように見える。

 昨日、人が一人死んだ。僕の乗っていた電車が人を一人殺した。そのことについてずっと考えていた。

 どんな人が死んだのかは分からない。男性なのか女性なのか、会社員なのか、学生なのか、それすら分からない。ただ分かることは、きっとその人は自殺をしたのだということだけだ。

 昨日自殺をして死んだ人は、一体何を考えていたのだろうか。

 僕も時々思うのだ。電車を待っている時、今一歩踏み出せばずっと眠っていられるのではないのかと。眠ることが最大の救いである今の僕にとって、そのことはとても素晴らしいことのように思える時がある。でも、結局僕はその一歩を踏み出せない。

 僕は僕のすべてだったピアノを失い、どうして生きているのかも分からなくなってしまったけれど、それでも死ぬことが出来ない。

 今死んでしまったら色々な人に迷惑をかけてしまうからだ。両親や、会社で働いている人達に迷惑をかけてしまう。僕は人に迷惑だけはかけたくなかった。だから僕はまだ死ねない。

 僕はまだ死ぬことを許されていない。でも、事実世の中には自殺をして自ら死んでいく人は多い。きっと毎日どこかで誰かが自分の手で自分の命を投げ捨てている。

そのことを証拠づけるように、電車はよく人身事故で遅延していた。電車が遅れることに僕はこれまで苛立っていて、昨日も自然と舌打ちをしてしまったけれど、これ以上人として悲しいことはないということに気が付いた。

 人身事故が起ころうと、生きることに絶望した人間が一人死のうと、数時間でそれは無かった事になり、いつもの日常が取り戻される。人が一人死のうが世界は揺らがない。そのことがとてつもなく虚しいことだと思った。

 自殺したって世間は靡かない。昨日は夜遅くまでネットで出くわした人身事故に関する記事を探していたけれど、そんなものは一つも見当たらなかった。

 朝のニュース番組はどうだろうかと、テレビの電源を入れて目を通す。でも、どこのチャンネルも昨夜起こった人身事故を取り上げてはいなかった。

 その程度なのだ。僕が生きる社会は。働く理由となっている社会は。絶望した人間が一人死のうと知らんふりをして平和を謳っている。

 せめて僕だけは昨日死んだ名も知らない人のことを忘れないでいよう。悲しい心の持ち主でごめんなさいと頭を下げよう。

 ニュース番組は天気予報に変わる。どうやら今日は雨が降るらしい。


「…………」


 時計を見ると、もう部屋を出なければいけない時間になっていた。

 さあ時間だ。電車に乗って会社へ行く時間だ。今日は大切な仕事が午前中からあるから、遅刻をするわけにはいかない。

 ワイシャツとスーツを着て、鞄に折り畳み傘を入れ、テレビの電源を落として部屋を出る。

 外に出てみると、確かに空は灰色だった。分厚い暗い雲が蠢いていて少し気味が悪い。

 空の様子こそ変わらないが、最寄り駅の様子は変わらない。今日も大勢の人が押しかけて、皆それぞれの場所へと向かっていく。

 定期券をかざし、少しだけ歩幅を小さくして改札を通る。

 ホームに降りてみると、いつもよりも人が多いような気がした。どうしてだろうと思ったが、その理由はすぐに分かった。

 電光掲示版に目を向けると、人身事故が発生し電車が遅延しているという知らせが流れていた。

 またかと、僕は漏れそうになったため息を外に出さずに飲み込む。

 ホームに立っている大勢の人達は苛立っているように見えた。貧乏ゆすりをしている人や、何度も腕時計を確認している人がいる。皆不機嫌そうな顔をしていた。

 僕もそんな群衆の一人。

 電車はホームに着いたのは、いつもよりも三十分遅れた時刻だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る