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いつからかピアノが怖くなった。昔は毎日何時間もピアノに触れていて、縋りついていて、これがなければ生きていけないと思うほど大好きだったのに、気が付けばピアノは僕にとって恐怖そのものに変わっていた。
もう、僕にとってピアノは売り物でしかなかった。楽器販売の営業をやっている今の僕にとって、ピアノは僕に課せられたノルマを達成するためだけのモノでしかなかった。
より多くのピアノを売らなければ食っていけない。ピアノが売れなければ怒られる。「これだから安達は」「これだからピアノしかやってこなかった奴は」と怒られる。
もういつのことだったか分からないけれど、一度営業先でピアノの調子が悪いと話を聞いて少し鍵盤を触る機会があった。
ピアノを触らなくなって一年は経っていた時のことだと思う。たった一年だ。それでも、僕は鍵盤を前にして椅子に座った途端、急に気分が悪くなって、すぐさまトイレに駆け込んで胃の中身を全て便器にぶちまけていた。
その時、便器を握りしめながら痛感した。もうどうしようもなく僕は変わってしまったのだという事実を。ピアノが怖くて怖くて仕方がなくなってしまったということを。
ピアノにスーツを着た自分自身が映り込んでいることが気持ち悪かった。美しく並んだ白と黒の鍵盤が怖かった。動かずジッと誰かに弾かれることを待っているピアノを見ていられなかった。
もう分かっていた。僕にピアノを弾く資格などない。僕は選ばれなかった。ピアノを弾くことを認められなかった。
でも、今朝のようなあんな夢を見てしまう辺り僕はまだピアノのことを忘れることが出来ないでいるのだろう。感情と身体、理想と現実がかけ離れている。二つの相反するものが頭の中に混ざり合うことなく同時に犇めき合っていて、その二つが端に括り付けられた鉄の棒を持って綱渡りをしているようだった。
夢が首を絞めるのだ。過去の夢は叶うことのない理想であって、もう絶対に叶えることは出来ないのに、どうしようもなくピアノが怖くて仕方がないのに、それでも夢を捨てきれることが出来ないでいる。
いっその事、この夢を抱かなかったらどれほど楽かと近頃よく思う。
夢を見るのは子供の特権だ。大人は現実を見なければならない。大人は眠っている時にしか夢を見ることは許されない。
すべて間違いだった。僕はピアノを弾くために生まれただとか、そんな事を本気で思っていた時期があったけれど、それは恥ずかしい勘違いだった。
どうして僕は勘違いをしてしまったのだろう。どうして過去の僕は身の丈に合わない夢を抱き本気でそれが叶うと信じていたのだろう。
その理由を、しかし僕はもう上手く思い出すことが出来なかった。仕事を終えて、ため息をつきながらホームで電車を待っている僕に、過去を思い出して自分を見つめ返すだけの気力はない。
早く帰りたい。早く帰ってシャワーを浴びて、眠ってしまいたい。それだけしか頭の中にない。
いつからか眠ることが僕にとって最大の喜びになっていた。眠っている間はどのようなことにも縛られない。睡眠は完全な無で、無になることが救いだった。
眠っている間は何も考えなくていい。惨めな感情も、やり切れない思いも、行き場のない怒りも、そのすべてを忘れることが出来る。そのことが今の僕にとって最大の救いだった。
ウトウトと瞬きの回数が増える頃、ホームに電車がやって来る。
やっと来た。僕を部屋へ送り届けてくれる電車がやっと来た。これでもうすぐ眠ることが出来る。そんな事をうすぼんやりとした頭で思いながらつり革につかまった。
目を閉じて電車に揺られる。つり革に手首が食い込んで、その痛みを頼りに何とか眠気に耐える。
電車は進み、もう少しで最寄り駅だと緊張が緩んだ頃、これまでガタガタと良い調子で夜のレールの上を走っていた電車が警笛音を鳴らし、直後急停止した。
最寄り駅二つ前の駅のホーム。何か嫌な音の後、電車は中途半端な位置で止まる。
疲れ切っている乗客が少しだけ騒がしくなって、それからすぐに電車内にアナウンスが響く。
『現在、線路内にお客様が飛び込み、人身事故が発生しました。この列車は状況確認のため、しばらくの間停車いたします。ご乗車になられますお客様には大変迷惑をおかけしますが、しばらくの間お待ちください』
少しだけ騒がしくなった電車内は、そのアナウンスの後さらに騒がしくなる。
アナウンスが繰り返され、乗り合わせた乗客はヒソヒソと声を出す。
帰れないのか。あと少しなのに。あと少しでベッドに入って眠ることが出来たのに。僕は帰ることが出来ないのか。
――ッチ――
見ず知らずの誰かが死んだことを告げるアナウンスに、誰かの舌打ちがかき消される。
舌打ち。人が一人死んだのに舌打ち。そんな事悲しいことをした奴は誰だ。
「…………」
それは僕だった。
どうして僕はこんなにも苛立っている。人が一人死んだのだ。それなのに、どうして僕は舌打ちなんてして、こんな気持ちになっている。
僕は到頭、人として最悪なところまで落ちてしまったのではないのだろうか。
『現在、線路内にお客様が飛び込み、人身事故が発生しました。この列車は人身事故の事後処理のためにしばらくの間停車いたします。お客様には大変迷惑をおかけしますが、しばらくの間お待ちください』
冷たいアナウンスが虚しく響く。人が死んだのに、電車を運転していた人は何も悪くないのに、それなのにこんな僕をお客様だと言って謝罪している。
謝るのは僕の方だろう。
いつの間にか眠気はどこかへ消え去って、目頭が熱くなる。それを堪えるように、僕はつり革を強く握りしめた。
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