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 電車に乗っている間、祖母と過ごした時間を思い出そうとしたが、しかし上手く思い出すことが出来なかった。何かを探すように車窓に目を向けるが、どこまでも寂しげな海が視界に入るだけでやはり上手く思い出すことが出来ない。

 祖母のことが好きだったことは覚えている。僕がまだ小学生だった頃、住んでいた家からそう離れていない木造の住宅に一人で住んでいた祖母の元へ毎日のように遊びに行っていた。

 でも、実際にそこで何をしていたのかは上手く思い出すことが出来なかった。当時同級生だった彼女と一緒に祖母の家へ遊びに行っていたことは覚えている。けれど、なぜか祖母の家で何をしていたのかは思い出せない。

 そして、祖母の顔も上手く思い出すことが出来ない自分に少しばかり驚いた。

 祖母と最後に話をしたのは小学校四年生くらいだったように思う。その頃になると祖母は認知症を患い、住んでいた町を離れ大きな施設に移ったのだ。

 唯一つ、はっきりと覚えていることがある。それは祖母が施設に移る前、両親と共に一時的に祖母が入院していた病院へ行った時のことだ。

 その時、僕は「おばあちゃんは体調を崩して入院をしているから一緒にお見舞いに行こう」と母親に言われてついて行った。祖母と会うのは久しぶりのことで、僕も祖母と会って話がしたいと考えていたことを覚えている。

 病室に入るまではまだ祖母のことが好きだった。でも、病室に入った途端、僕はそれまで抱いていた感情をごっそり失ってしまった。

 祖母は実の娘である僕の母親の顔を見ると母親の名前を言って笑った。だけれど、僕のことを見ても僕の名前は言わずに「坊やは、どこから来たんだい?」と優しく笑いながら僕にそう言ったのだ。

 その時すでに祖母は認知症を患っていたらしい。しかし、当時の僕は認知症がどういうものなのかも知らなければ認知症という言葉すら知らなかった。祖母は何か病気に罹ってしまい、体を悪くしたという認識でしかなかった。

 祖母のその言葉を聞いて僕は祖母と話すことは出来なくなってしまったし、一歩も動けなくなって祖母に近寄ることも出来なかった。泣くことはなかったけれど、祖母がとても遠くへ行ってしまったように感じて今すぐに布団に包まりたい気持ちになった。

 病室を出た後、母親が「おばあちゃんはだんだんと色々なことを忘れてしまう病気になってしまったの」と説明してくれたが、どちらにしても僕は祖母のことが分からなくなった。祖母と言うか、人自体がとても怖い物のように思えてしまった。大切な物をだんだんと忘れてしまう。そんなことが人間には出来てしまうのだと、それがどうしようもなく怖くて、帰り道僕はずっと母親の手を握っていた。

 そんなことがあった所為なのか、祖母に会うために施設まで行ったことは一度もなかった。祖母が施設に行った後、僕はすでにピアノに打ち込んでいて、ひたすらピアノを弾いていたということも祖母に会いに行かなかった理由の一つだと思う。

 そして、僕は中学を卒業すると共に音楽科のある高校へ進学しあの町を去った。

 祖母が死んで、こんな形で再びあの町に帰ることになるとは想像すらしていなかった。あの町に帰るのは何年振りだろうか。大学に通うようになってからは一度も帰っていない。

 ピアノの練習があるからと成人式にだって出席していなかったし、仕事が忙しいからと同窓会にも出席していない。両親から「たまには帰って来ないの?」とメールが送られようが、僕は絶対にあの町には帰らなかった。

 帰らなかった。というよりも帰りたくはなかった。あの町には昔の僕がそこら中に染み込んでいるような気がするからだ。まだ夢を夢のまま胸に抱いて希望に溢れていた僕がそこら中にいて、きっと僕はそれに触れることが怖いのだと思う。


「…………」


 本当、いつから僕はこんなにも怖がりになってしまったのだろう。ピアノが怖い。過去の自分が怖い。祖母が怖い。あの町が怖い。人が怖い。挙げ始めたら切りが無い。

 でも、僕は確かに祖母のことが好きだった。好きだったはずなのに怖くなった。それはなんだかピアノと同じだと、そんな事を思う。

 そんな祖母が死んだ。人はいつか死ぬのだ。自分から死ぬ奴だってあの街には大勢いた。人身事故の大半は人の死を語っていて、ニュースキャスターは毎日誰かが死んだ話を語っている。

 でもどうしてだろう。あの時あの河川敷で祖母が死んだと知った時に抱いたものと、駅の改札前で人身事故のお知らせを目にした時に抱いたものは、全く違った。


「…………」


 祖母が死んだ。あの祖母が、もういなくなってしまった。

 僕は無くしてばかりだ。祖母も、あの町も、仕事も、ピアノも、君も、僕は無くしてばかりで、どうしようもなく変わってしまった。


「…………」


 電車は暗いトンネルに入り、車窓には僕の顔が浮かび上がる。酷い顔だ。これが僕なのだ。

 僕の顔が消えて、もう一度海が車窓の向こうで広がる。

 故郷の海だ。僕が幼い頃ずっと眺めていた海。

 帰って来てしまった。こんなにも変わり果てた僕。何一つ変わらず揺らぐ海。

 涙は決して流さないと、ちっぽけな意地を捨てることは出来ない。

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