雪
赤いハイラックスが雪道をひた走る。一面に降り積もった白い雪と、晴れる気配を見せない雪空とが、灰白色の世界を構成している。
こういった地域での運転は危険極まりない。例えそこに大穴があろうが池があろうが、雪が積もってしまえば全く分からなくなる。いくら頑丈でオフロードに適するハイラックスと言えど、穴に突っ込めば動けなくなるし、池に浸かれば車は沈む。
かと言って、車を止めてしまうのも良くない。止む気配一つ見せず降り続けるこの雪の中で車を停止させれば、数時間で車の周りに雪が積もり、ボディは冷え切り、エンジンがかからなくなるという事態も想定し得る。そうなれば一巻の終わりだ。赤いハイラックスは墓標となる。私は車を置いて外に出て、絶望的な雪の進軍をしなければならなくなる。
「雪の道ってどう? 綺麗だと思うかな」
ハイラックスは無論、何も答えない。それでも私は暖房を切ることで、車をいたわる。焼け石に水でも多少負担が少なくなるはずだ。
やがて雪原の先に、枯れ木の集う林が見え始める。もしかしたら、これはラッキーかもしれない。雪原の真ん中で休むよりは、林の中で一息つく方が余程現実的だからだ。木のお陰で雪も過剰に積もらないし、エンジンがかからない場合は最悪木の樹脂を集めて焚き火をすればハイラックスと自分の身体を暖められる。
しかし、好事魔多しと言う通り、良いことの前には何かしらの障害が立ち塞がることがある。恐らくそれは、幸運を前にした油断に起因するのではないかと思う。
私が林の方向に向かって舵を切り、アクセルを踏むと、車の左前方から大きな音がした。直後、ハイラックスは左前方に沈み込み、動きが止まる。
「……あ」
間違いない。溝か、大きな穴に突っ込んでしまった。左前方のタイヤがそこに埋まってしまったのだ。
私のハイラックスは四輪駆動だ。多少スタックしたぐらいなら持ち前のパワーで何とかなるのだが、この大雪だ。残された三つのタイヤが虚しく雪を蹴り上げるだけになるだろう。私は停止したハイラックスの窓から、外を見た。
「ああ、心底寒そうだなあ。出たくないなあ……」
世の中には、やりたくなくてもやらざるを得ないということが沢山ある。勿論、旅でもそういうことは起こり得る。例えるなら、今の状況が正しくそうだと言えるだろう。
私は、後部座席に備えてある冬用の上着を羽織り、サバイバルに必要な道具をリュックに詰めて背負い、付き合いの長いM4カービンとガバメントとを持って、外に繰り出した。
外に出た私を、白い雪が荒々しく歓迎する。氷の微細な粒が顔中に飛びつき、視界を遮ろうとする。この雪に当たり続ければ、どんなに気力の充満した人間であろうとも、すぐさま体力を消耗してしまうだろう。ましてや、長く運転を続けて疲れ切っている私であれば、言わずもがな、である。
私は車のドアを閉じ、覚悟を決めて走り出す。この場合、雪が積もっているというのは良い。石があろうが雑草が生えていおうが、それらに足を取られることはないからだ。
辛く冷たい雪の中を走り抜け、林に入る。横殴りの雪が多少マシになり、少しだけ安心する。
私は、今夜を何とか乗り切るために、林の中を歩く。廃墟や洞穴等々の雪や風をしのげる場所が必要だ。できれば廃墟がいい。洞穴の場合、熊が寝ている可能性があるからだ。
私は、ちょっと前の自分を叱りつけたい衝動にかられる。何故なら、車を安全に林まで運びさえすれば、何にも困ることはなく、車の中で一冬やり過ごすなんてことも考えられたからだ。ところが、あの場所でスタックしてしまったが故に、明日生きているかも分からない状態になってしまった。
「何でもいい……何か、休める場所を……」
凍傷にならぬよう、指をしきりに動かしながら、私は辺りを見回す。春先にもなれば緑の葉が顔を出すであろうこの場所も、今は枯れ木だけが寂しく佇んでいる。私は遠くを見るのをやめ、今度は降り積もった雪を見る。動物の足跡があるなら、それについていけば穴か何かがあるかもしれないし、もしそれが小さな動物の住処であったなら、それらを夕食にしてしまえばいい。
「……!」
残念ながら、動物の足跡は見つからなかった。だが、別のものは見つかった。
そう、人間の足跡だ。この雪の中に人が居るということは、何処かに雪風を凌げる場所があると言うことだ。そして、その場所への案内図は既に足跡で示されている。
足跡が雪で掻き消される前に、その場所へ辿り着かなければならない。そう考えた私は、林へ飛び込んだ時と同じように、力を込めて走り出した。
足跡の先には、私の読み通り、明らかに人が作ったであろう木造の家屋があった。既に辺りは薄暗くなっており、この中で暖を取れなければ危険、という段階まで来ていた。
私はガバメントを取り出し、それを手に持ち、ゆっくりと家屋に近付く。手袋越しにも銃は冷たく、触っているだけで凍傷になってしまうような気がした。
私は、銃を持っていない方の手でドアをノックする。相手の出方によっては、即座に銃を撃たなければならない。
「おお、入りなさい」
家屋の中から、声が上がる。男性の声だ。
私はドアを開けると同時に、銃を構える。
中に居たのは、毛皮の服を着た白髪の男性だった。
「今夜……いや、しばらく泊めていただけませんか?」
私の言葉を聞いた男性は両手を上げながら、こう言った。
「その銃をおろしてくれるなら、いくらでも泊まってくれていいよ。欲しいなら、食事も出していい」
どうやら、交渉は成立したようだ。些か、乱暴ではあったが。
身の安全を確保した私は、寒さで震える手で銃の安全装置をつけ、銃を懐に戻した。
「この雪の中、よくここまで来たなあ」
男性はゆったりと言葉を話すので、先程まで緊張しきりだった私の身体から少しずつ力が抜けていくような感じがした。
「ええ。車で来たのですが、途中で穴にはまってしまったみたいで」
「それは大変だなあ。雪で埋もれてしまったら事だ」
「本当、そうなんですよね……」
私は旅の一大事を話しているつもりなのに、この男性と話していると、何処かありふれた世間話のように感じてしまうのが不思議だった。
「……そうだな。雪がおさまったら、車の雪かきぐらいなら手伝ってもかまわないよ」
「本当ですか?」
私がそう返すと、男性は笑った。
「そんな嘘をついたって何も良いことはないじゃないか。それに、一つ条件があるんだよ」
「なんでしょう。私で出来る範囲のことであれば」
そう言った私に対して、男はこう言った。
「地図を埋めるのを、手伝って欲しいんだ」
男性は、私と同じ旅人で、冬はこうして家に篭り、春の訪れと共に旅に出て、冬になる前には戻ってくるような、そういう生活をしているらしい。そして、家に戻っては地図を書き換えているというのだ。
私は一宿一飯の恩義と、この後の手伝いの約束のために、この男性の趣味に付き合ってやることにした。
「そこは確か、廃墟ばかりでしたよ。もう集落とはいえないでしょう」
地図上の点を指差しながら私が言うと、男性は
「前までは人が居たというのに!」
と言い、驚きを隠せないでいた。
「ただし、パン屋だけはありましたね」
「不思議だな。最後に残るのがパン屋とは」
「そうですよねえ」
地図を埋める作業は万事が常時この調子だった。私は、今まで自分が旅してきた場所を脳裏に思い浮かべながら、一つ一つ、何があって、何がなかったかを説明していく。そしてその度に男性は驚くのだった。
■ □ ■
「しかし、なんで地図なんか作ってるんですか?」
男性が出してくれた干し肉のスープと茹でたじゃがいもを食べながら、私は質問した。
「昔の時代、地図は完成し尽くされていた。そこらじゅうが建物で埋め尽くされていて、全ての山という山、森という森が知り尽くされていた」
「私にとってはどうも実感のない話ですね」
「そうだと思うよ。だいぶ昔だからね」
そう答え、一拍おいて、男性は言葉を繋げる。
「もはや人類に知り得ない土地はない。そういう時代だった。だがそれが変わった。世の中の色んなものが壊れて、今みたいになってしまった。するとどうだろう、皆自分が何処に居て、この先に何があるのかを知らなくなった。知ることも出来なくなった。不謹慎かもしれないが、私はそのことが嬉しかったんだ。全てがなくなったそのどん底に、希望だけが残っていたんだ。私は喜々として、地図を作るようになった。今は……少し怪我をして、遠くまでは歩けなくなったが、それでも、私にはまだ耳が残っている。だからこうして、旅人から話を聞いて、地図を書き換えているのさ」
言い終えた後に、男性は少し笑った。
「すまんね。年を食うとどうしても話したがりになってしまう。退屈だっただろう?」
「いえ、そんなことはないですよ」
その言葉に嘘偽りはなかった。男性もそれが分かったようで、私に向かってニッコリと笑いかけてくれた。
■ □ ■
それから三日すると、雪はようやくおさまり、空には白い太陽が浮かぶようになった。男性の手伝いもあって、ハイラックスを救い出すことが出来た。
久々に見たハイラックスは水びたしだったが、走るには問題がないように見えた。エンジンを入れて、一気にバックすれば穴から抜け出せるだろう。
「三日の間、お世話になりました」
私が言うと、男性はにこやかな笑みを浮かべ、応える。
「いやいや。あれぐらいのこと。どうってことないよ」
その言葉の直後、男性は懐からものを取り出した。
「君にプレゼントしたい。持っていってくれ」
それは、大陸の枠だけが書かれた白紙の地図だった。
「羊皮紙で出来ているから、湿気を避けてしっかり保管すれば、君が生きている間はずっと使えるよ。ペンは大きな鳥の羽根の先を切って作ることが出来る。インクが問題ではあるが、きっと何処かで手に入るだろう」
「……いいんですか?」
「勿論」
私は、男性の手にあった地図を受け取り、言った。
「大事にします」
すると、男性はその顔に笑みを浮かべた。
私がハイラックスに乗り込むと、男性は林に向かって歩き出す。その後ろ姿を覗きながら、私はハイラックスのエンジンをかけ、操作する。ハイラックスはすぐさま動き出し、容易に穴から抜け出した。
こうして私はまた、旅路に戻った。助手席に置かれた地図から、自らの旅の終焉に思いを馳せながら、ハイラックスは進んでいく。
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