はじまり
小さかった時のことを、私はあまり覚えていない。
私の頭の中にある一番古い記憶は、あの赤いハイラックスに揺られながら、無限に続くように思えた草原の中を駆け抜けた時のものだ。運転しているのは私ではなく、私を育ててくれた男性だった。
「私の持つ全てをお前に教えてやる」
それが、育ての親であったあの人の口癖だった。十年間を共に暮らしてきた私だから言える。この言葉に嘘偽りはどこにもなかった。
私は、物心ついた頃には既に世界が壊れていて、何が普通で何が異常なのかが分からなかった。だが、あの人は常日頃からこう言っていた。
「もし、あの頃の世界がまだこの世に存在したのなら、私は虐待者と呼ばれるだろうな」
あの人との生活は単調ではあったが、楽だった日は一度もなかった。筋力トレーニング、ランニングから始まり、日によっては特殊な訓練が行われる。それ以外は食事と、洗濯や耕作などの雑事で埋まる。
日々行われる訓練は苛烈なものであったが、それでも何処かで不思議な釣り合いがとれていた。
身体的に無理の出る訓練は行わず、身体が壊れないようなプランが組まれていたし、何よりそれを施す本人がコーヒースプーン一杯分ほどの罪悪感を持ちながらやっていて、自らが虐待者であるということを聞かれる前から告白していた。
ある時、私はスコープのついた狙撃銃を渡され、野に居る獣を撃てと言われた。銃を撃ってもロクに的に当てられなかった頃だ。勿論私は当たりっこないと言った。それに対し、あの人はこう返したのだ。
「お前が撃てないなら今夜は肉抜きだ。私もお前も、どちらもな」
その日は結局、一匹も獣を捕らえられなかった。勿論、その日の食卓に肉はのぼらなかったが、理不尽だとは思わなかった。
こうした生活を長く続けていくうちに、あの人はまるで、罅割れた器に入れられた水が滲み出ていくかのように、少しずつ自身の過去について話をするようになった。
「私は軍人だった。人を殺すために生きてきた」
軍人とは、軍隊とは何かと私が問うと、あの人は表情一つ変えずに、淡々と説明をしてくれた。
「簡単に言えば、人の代わりに暴力を振るう集団だよ。軍隊っていうのはね」
「なんで、誰かに代わってもらなきゃいけないの?」
「お前も分かるだろう? 銃は重いし、撃つのも難しい。その上、銃を撃って狙ったものに当てるのは物凄く難しい。昔、パンを作る職人や家を作る大工のような専門家が居たのと同じように、人を殺す専門家が居たってことだ。私もその一人だったんだよ」
「へえ、そうなんだ。でも、人を殺す必要なんてあるの? 一緒に仲良くしていた方が、楽しいよ」
「そうだな。人が少なければ、そう考えられるのかもしれないが、あの時は人が沢山居た。だから、異なる意見がぶつかりあって、行き着くところまでいってしまえば、もう力を使うしかない。勿論その過程では色々な衝突と和解、交渉が行われるのだがね」
私は黙って、その話を聞き続けていた。
「そうやって人同士が争うのを戦争と呼んだ。戦うのは私達軍人だ。死ぬのも、相手を殺すのも、私達軍人だ。農家が畑を耕すのと同じくらいそれは必然的で、当たり前のことだった。最後の戦争は長く、長く続いた。仲間も散り散りになって別れて、私は一人で戦っていた。一人でも戦えるように、私は訓練されていたからだ。
もはや、それは戦争と呼べるものなのか、私には分からなかった。銃を撃つ回数よりも、日々の糧を得るためにナイフを使うことのほうが余程多かった。そういう生活を続けていくうちに、私は家を見つけた。そこにもし人が居たならば、いっそ私は軍人をやめ、戦争を忘れ、彼らと共に生きていくのも良いかと思ったんだ。でも、そうはならなかった。
そこに居たのは、痩せ細った母子二人だけ。後は皆、皮だけのような姿になったものや、綺麗に身体の肉が削ぎ落とされた死体だけだった。母の女性は私に自らの子供を預け、息絶えた。
なんということだ。今の世界では、武器を持って獣を捕らえることが出来なければ、このようにして息絶える他ないのだ。私は衝撃を受けた。ならばせめて、この子供にだけは、私の全てを教えて、この世界で生きていけるだけの力をつけさせてやろうと、そう思った。それがお前だ」
この頃の私は、徐々に身体が大きくなってきていた。あれほど過酷に思えた訓練も徐々に楽になり、場合によってはあの人よりも良く動けることさえあった。私がランニングであの人を追い越すと、あの人は何も言わずに、ただ汗ばんだ顔で薄い笑みを浮かべていた。
車も運転できるようになり、私は一人で獲物を狩って、それを捌いて食べることまで出来るようになると、あの人は突然消えて、居なくなってしまう。家の中に、一枚の置き手紙があって、そこには『旅に出ろ』とだけ、書かれていた。
そうして私は、赤いハイラックスに乗って旅に出た。
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