赤いハイラックスが砂利道をひた走る。踏める限界までアクセルを踏み込み、逃避する。後ろには先程から私の車を追いかける、恐らく強盗の類であろう白い車両が居る。

気付いた時には既に手遅れだった。

あの車の存在に気付いて、距離を取るように走り出したその先には、今私が走る林道があった。雄大な自然の中を縫うようにして作られたこの道は狭く、ただ私は道筋をなぞるように走っていく他ない。つまり、この林道に入った時点で、既に私は敵の術中にはまっていたのだ。

勢いをつけたままヘアピンカーブを曲がると、ハイラックスのタイヤは空転し、砂埃と砂利が宙に舞う。そして、アクセルをベタ踏みするたびに、エンジンからは息苦しそうな音がした。

「お願い。今だけは耐えて!」

 ハイラックスは何も答えない。ただ己の職務に忠実であり続ける。いつもと変わらないそんな相棒の姿が、心の底から頼もしかった。

私は、いざという時にはこの車を捨てて逃げ出せるよう、助手席前のグローブボックスにしまったままにしてあるリュックサックを取り出す。緊急の時は車からこれを持って飛び出し、車なしで旅をすることになる。あまり、想像はしたくないが。

車は坂道を登っていく。私の旅の袋小路であるかもしれないこの山は、小さな雲じみた霧が木々の上になだらかにかかるような、美しい山だった。

道はやがて、曲がりくねったワインディングロードから下り坂に差し掛かる。もしかしたならば、このまま道を下っていけさえすれば、逃げきれるかもしれない。逃げ切る前からそんなことを考え始めていた私は、今にして思えば甘いと言う他ない。

曲がりくねった道の先で私を待っていたのは、武器を構えた男たち。そのうち一人は、ロケットランチャーを担いでいた。

「まずい!」

 私は、周りを確認せず即座にハンドルを切る。

世界の全てがスローモーションになったかのような錯覚の中、車が傾いていく。窓ガラスに映る景色が揺らぎ、タイヤが空転する音がする。直後、銃声が響き渡り、ドアガラスに跳弾が当たってひびが入る。その間も私はアクセルを踏み続けた。

その瞬間、何故私の視界が揺らぐのかを理解した。

ハイラックスと私は、斜面を転がっていたのだ。

ハイラックスはその車体を打ち付け、聞いたこともないような音を立ててその身を歪ませる。私は少しでも自分の身の安全を確保するため、エンジンキーを回して即座に抜き、身体を丸め、ハイラックスが転がり終わるのを待つ。

この間は、数分にも満たない……もしかしたら、数十秒の間の出来事だったかもしれない。だが、この一瞬の間に、私の持っていた、ほぼ全ての物を失った。


 ■ □ ■


「……奇跡だ」

 ミキサーでぐちゃぐちゃにかき回された後のような大惨事となった車内の中、ひしゃげて歪んだミラーに映る傷だらけの自分の顔を見て、素直にそう思った。

前の持ち主から数えれば、何年使われたか分からないこの赤いハイラックスは、中に居る私の命を守り切るだけの頑強さを保持していたのだ。

少しの間だけ私は、歪んだこの部屋の中で一人、呆然と外の森を眺めていた。その間にも、思考は冷静さを保ちながら現実的な判断を吐き出し続ける。

車からガソリンが漏れ出しているかもしれない。早期にこの場から離れるべきだ。荷物は多すぎると問題になる。重機関銃やロケットランチャーは山において用途もなく、重荷になる。突撃銃も捨て置くべきだ。突撃銃そのものより弾丸のほうが重く、荷物として持っていける量では火力にも限りがある。緊急用リュックサックに車内の携帯食料を足し、車を捨てて遠くへ。

「うるさい!」

今度こそ、私に言葉を返すものは誰も居なかった。私も、ハイラックスも、世界も、皆が全て押し黙った。

「分かってる。分かってるよ……分かってるもん」

 空気の抜けた白いエアバックごと、ハンドルを三回殴った。押し潰された悲鳴のようなクラクションが低く鳴る。

私の赤い相棒は、とうとう力尽きた。

ほんの少しの目眩の後、目に熱が篭もる。悔しさ、悲しさ、叫びを上げ続ける本能。それらが全てごちゃ混ぜになって私の頭をかき回す。それでも私は、その中から本能だけを掬い上げ、これから生きていくための行動を取り始めた。

携帯食料を足したリュックサックを背負い、私は車の中から抜け出す。車体が歪んでドアが開かないので、思い切り蹴りを入れる。すると、ドアは拍子抜けするほどあっさり壊れた。

「……」

 私は、近くにあった太い木の枝を持ち、ひしゃげたハイラックスのすぐ近くの土に突き刺し、その場を後にする。

道から見た時にはただただ美しいだけのように見えたこの森も、実際に足を踏み入れてみると、その表情はがらりと変わる。綿のようだった霧は森の中では煙幕のように視界を遮り、深緑の葉が生い茂る木々が太陽の光を受け止めて、その下に貼り付くような湿気とぼんやりとした暗闇を生み出していた。

「ふう……」

一息ついた後に、私は確認のためにリュックサックをあけて中身を見る。あるのはロープ、火打ち石、携帯食料、飯盒、水筒、拳銃、双眼鏡、方位磁石。その中から折り畳みナイフと双眼鏡を取り出し、双眼鏡を首にかけ、ナイフはポケットにしまう。ここからは、ナイフだけで自らの身を守らなければならない。拳銃は最後の武器だ。ナイフではどうしても立ち向かえない敵に出会った時か、切羽詰まってどうしようもなくなった時、自らの脳天を撃ち抜く時以外には使えない。

食料はある。量はそれほどではないが、一個辺りに摂取できる栄養から考えれば、三日間は持つだろう。水源と、安全に眠ることの出来る場所の確保が最優先だ。

私は手始めに、目の前にある木に登ろうと思った。高いところから双眼鏡を使って遠くを見渡し、川を探すのだ。川さえ見つかれば、生命を繋ぐのは容易だ。木に抱きつくようにしてしがみつき、力を入れてよじ登る。木の上部にある太い枝の元に足を置き、安定させる。そうして安全を確保してようやく、周りを見渡す。

こういう時は、太陽の位置を見れば今の時間と方角が大体分かる。今日は運が良い。もし天気が曇りであればこうは行かない。不幸中の幸いという奴だろう。川は……あった。方角は北北西。

私は双眼鏡を再度首にかけ、木から降り始めた。登る時と同じように木に抱きつく。そうして、徐々に力を抜いて落ちる速度を調整しながら下っていく。ザラザラとした木の表面が私の手のひらに傷をつける。そうして地に足をつけ、張っている腕をほぐすために軽く体操をした。腕と脚に重く染み渡る疲労が不愉快でしょうがなかった。

地に落ちている先が二股に別れた長い木の枝を手に持って、私は北北西へと歩を進める。霧は場所によって濃淡が変わり、薄ければ何の問題もないが、濃い場合は文字通り一寸先は闇となる。そうなった時に、切り立った崖で足を踏み外して落ちぬよう、一歩先を枝で確認しながら進む。

この後、私は何度かの迂回を挟みながらも、無事川まで辿り着くことが出来た。日の傾きから今の時間を考えると、今日は食材調達は諦めるべきだろう。

サバイバルにおいては、たかが水一つですら馬鹿にできない。川の水をそのまま飲めば最悪の場合胃を壊す。そうすると体力の減少も早くなるし、体内の水分の排出も早くなってしまう。消毒のために一度火にかけ、沸騰させなければ安全は確保できない。

私は飯盒を使って川の水を汲み取り、川から少し離れた場所をこれからの野営地に定め、今夜を無事に乗り切るための準備を始める。まず集めなければならないのは木だ。火をつけるための乾燥した枯れ木が一つ。次に、松の木を探す。松の木はサバイバルに欠かせない。その樹脂は焚き火の発火剤になり、葉のついた枝は寝床の屋根に使うことが出来る。幸い、松の木はこの地域ではそう珍しいものでもなかったらしく、すぐに見つかった。また、それ以外にも綺麗な状態のままで残っている大きめのペットボトルが見つかった。

寝床も難しい作りにはしない。枯れ草をベッド代わりに敷き、木の枝をお互いが支え合うよう交差するように組み上げ、その上に屋根代わりの葉がついた松の枝を重ねる。それだけだ。

既に日は落ちつつある。私は、夕色に輝く空をバックに、先程取った松の樹脂と枯れ草を合わせた着火剤に火をつける作業を始める。一度火がついてしまえば、後はそれを薪に放るだけでいい。水を沸騰させるために、三本の木の枝をテントを作る時と同じ要領で立ち上がるようにし、それを焚き火の上に置いて、飯盒を引っ掛ける。この木の枝は先程木を折って取ったものなので、中に水分が含まれており、燃え移らない。勿論、長い時間火に当てれば燃えてしまうが、直接火に当てているわけではないし、水を一度沸騰させたら解体するので問題はない。

久々だから不安ではあったが、完全に日が落ちる前に火をつけることが出来た。私はリュックから携帯食料を一つ取り出し、それを食べながら、次第に暗くなりつつある森と、綺羅びやかな星が浮かび始めた空とを見つめていた。こうなってから初めて、感情が動いたような気がした。

私を突き動かすのは、常に生存本能のみだった。生きるために自らの身を守り、生きるために食べ、飲み、明日を生きるために睡眠をとる。だから、私は忘れていたのかもしれない。夜の寒さ、暗闇に対する恐怖、孤独でいることの不安。それらを覆い隠すように、常にそばに居た相棒はもう居ない。森の中でただ一人、ひっそりと佇み、苔むして朽ちていくだけの鉄塊に過ぎない。

それでも私はまだ生きている。生きている以上、生き続けなければならない。どんなに悲しくても、時は止まらず、全てのものは流転する。

沸騰させた川水を飲み、余った分は水筒に入れて夜の寒さを凌ぐために使う。飯盒を吊り下げるのに使った支えをばらし、先程お湯を入れた水筒をぎゅっと抱きしめ、リュックサックを背負ったまま、私は寝床に入った。

消えかかった焚き火の火が、小さく息をしていた。


 ■ □ ■


 次の日。森で迎える朝の、その冷たさに私は思わず身体を震わせた。日の落ちる時間から考えれば、今の季節は初夏であろうか。私の中の無意識な生存本能が凍傷の危険性について考察し始める。私は寝床を出て、指先と足先を細かく動かした後に軽く体操をする。

そうして身体を温めた後に、私は水筒の水を飲みながら、今後について考える。

まず、この森に居着くというのが考えられる。この森の中に居る限り、水と食料には困らないだろう。確かに、良い選択肢のように思える。

だが、これは論外だ。確かに半年ほどはこの森で凌げるかもしれないが、雪の季節になったらまず生き残れない。移動も困難になる。それに、私を襲った奴らがここらへんに来ないとも限らない。こちらは一人だし、ロクな武装もない。三人くらいはやれるだろうが、それが限界だ。

次に、ハイラックスを直す。無理だ。例えば近くに廃棄された車があるなら簡単な修理ぐらいは出来るかもしれないが、あの状態になった車を直すのはもはや一から車を作るのと同じだ。

次に、川沿いを下って街を探す。人が文明的な生活を送る上で水は何よりも重要だ。かつて人類が生み出した数多の文明も、その殆どが川沿いで誕生している。だが、これも駄目だ。川沿いを下っていけば街がある、というのは昔の話だ。世界が滅んだ今の時代、街どころか生きている人を探すこと自体が困難であるし、そもそも、今私が一番出会う確率の高い人間は、昨日私を襲った連中である。出会ったところでどうするのだろう。身包み剥がされて殺されて川に流され川魚の餌になるのがオチだ。

逆を言えば、私達を襲ったあの連中に出会うのは容易である。私を待ち伏せしていた箇所を見張り、彼らがどこを拠点にしているか調べるのだ。

そこで、最後の案が浮上してくる。彼らから何とかして移動手段を一つ奪い取り、この山を抜け出す、という案だ。たんなる遭遇戦であれば勝ち目はないが、こちらが相手の位置や武装を把握した上での不意打ちであれば、勝機はある。というより、戦闘をする必要そのものがない。相手がどこに車のキーを置いているかが分かれば、夜闇に紛れて鍵を盗み出し、さっさと車を盗んで立ち去ってしまえば良い。そのためには、安全に道路を見張ることが出来る場所を確保しなければならない。拠点を高台に移し、何日か彼らを見張り、大体の方向が把握できたら、その方向へ足を進める。私は、自らの食料と水、寝床を確保しながら、彼らを追って移動する。まるで、かつて育ての親から聞いた特殊部隊の作戦のようだ。

この日から、本当の意味で私の生き残りをかけたサバイバルが始まった。

高台にある洞穴に目をつけ、そこを拠点とした。その場所からは双眼鏡で林道を望むことが出来た。煙が目立たぬよう、焚き火は少し離れた場所で行う。食事は、ペットボトルを使って作った簡単なトラップで取れた魚や、蛇、木の実が主で、何も取れない時は虫や野草も食べた。それらは決して食味が良いものばかりではなかったが、贅沢は言っていられない。栄養を取らなければ人は死ぬ。水分も一日辺り一・五リットルは飲まなければならない。それも一気にではなく、細かくだ。そうして常に、油断せずに生存を意識した行動を取らなければならない。今までの日常から強制的に解き放たれた先に待っていたのは、ただただシビアな現実だけだった。

そうしながら私は、高台から双眼鏡を使い、彼らを見張る。

彼らが獲物を追う頻度はそう多くない。せいぜい多くて週に一回程度だ。私にそうしたように、彼らはこの山の林道まで獲物を追い込み、銃撃して足止めをする。相手がその場で止まったら、中に居るドライバーを引きずり出し、頭を撃ち抜き、中にある荷物を奪い、残った車は谷底へと突き落とす。やっていることは立派な強盗だ。だが、そのやり方と頻度から察するに、彼らは強盗だけをやって生計を立てているわけではないらしい。

そもそも、大体の強盗は常に移動しながら獲物を探す、いわば狩猟民族なのだ。そうしないと燃料や弾薬が尽きてしまう。常に獲物を探し、獲物を見つけ次第狩り、また別の場所へ移動する。燃料が切れれば道行く車を足止めし、騙して物資を奪い取り、また移動する。同じ箇所で続けて行うことはない。

そうなら、恐らく拠点は山の中にある。今の私と同じく、山の中にいれば人はやり方次第で如何ようにも生き長らえることが出来る。それが集団であれば尚更だ。一人なら限界はあるが、複数人であれば山の中でずっと暮らすことも出来る。

私は、水筒の水を口に含み、ゆっくりと飲み干す。ついさっき口にした蜘蛛の苦味が蘇り、思わず表情を歪める。

ここ一ヶ月ほどの監視の結果、彼らの大体の居場所を察することは出来た。後は覚悟の問題だ。ここから、彼らを追って移動する。そうなると、今まで以上に安定して食料を確保することが困難になる。水や食料の調達が困難になれば、死も想定の範囲となる。例えば、崖から落下して何処かの骨を折ってしまいでもすれば、誰にも助けて貰えない。

つまり、ここからは生存以上に、死を見つめなければならない。すぐそこに死があり、最後まで生き残った場合のみ生存が可能になる。

「……よし」

 覚悟は決まった。


 ■ □ ■


 深い闇と霧が支配する森の中を、私はただひたすら歩いた。日によっては雨が降り、その日一日を洞窟の中へと投げ捨てた。その間も彼らは人を襲い、戦利品を詰め込んで林道を行き来している。

何日間、この生活を続けただろうか。はじめこそ、歩き出して何日目になるか指折り数えていたが、途中からその行為に嫌気がさし、今では自らが歩いた日数を全く把握出来ていない。

私は、藪の中を這う蛇の首根っこを二股に別れた木で押さえつける。蛇はその身をくねらせ、逃げようとする。その様子を見て、逃げられぬよう木を持つ手に力を込め、ポケットから取り出したナイフで蛇の頭を切る。蛇は喉から舌を突き出し絶命するが、その後も蛇の身体はぐねぐねと動き続けていた。

生き物が生命を落とす瞬間とは、いつもこうだ。自らの生き残りのために、全身全霊をかけてあがき、そして醜い姿を晒して死ぬ。虫であろうと蛇だろうと、人間だろうとそれは変わらない。死の瞬間とはいつも醜い。そこには何の感慨もない。生きている間は優劣が存在するが、死の瞬間は全ての生き物に対し平等に訪れる。その瞬間、全ての生き物は並列に並ぶ。

首を落とした蛇をしまい込み、私はまた歩き始める。山の様相も出発地点とは違って見えてきた。何日か前まで私は、急な斜面や崖に悪戦苦闘しながら進んできたが、徐々にそういった要害は減り、今ではほぼ平らな土地ばかりになっている。恐らく、このあたりが山と山の間の盆地なのだろう。

「……!」

 川の近くを歩いていた私は、あるものを発見した。

鹿の死骸だ。

その死骸は、食べるのが容易な肉や栄養豊富な内臓、また毛皮として使用できる胴回りの皮だけが綺麗に切り取られ、足や頭、骨等の『人間には使いづらい部分』だけが残されていた。恐らくこれは、人が鹿を仕留めて解体した後だと思われる。つまり、既にこの場所は彼らの生活圏なのだ。

ようやく辿り着いた。この地域こそが彼らの拠点なのだ。

私は鹿の死骸に残っている骨の一部を確保し、すぐさまその場を離れた。今日の移動はこれで取りやめにし、彼らに発見されないよう視認性の悪い場所に今日の拠点を構える。

山での生活を始めた時と同じように、寝床を作り火を焚く。飯盒に入れた水を火にかけるのと同時に、皮を剥いだ蛇の身と、先程確保した鹿の骨を焼く。彼らは知らないのだ、動物の骨の中にある骨髄が美味であるということを。

これらを食べ終えた後。私は、日が沈んで夜になるのを待った。普通、夜の移動は危険なので出来れば避けた方が良いのだが、今の状況では寧ろこの闇が私の身を守ってくれる。もし彼らに見つかったとしても、暗闇の中でなら深追いもしてこないだろう。

日没と共に私は移動を始めた。鹿の死骸の位置から、大体目星はつけてある。彼らが集団で生活していて、一箇所に留まり続けているのなら、恐らく夜は火を焚いているだろう。同じ場所に長くいれば、ゴミや汚物の処理もしなければならなくなる。そしてその匂いは狼や熊のような動物に存在を気付かれる原因となる。安全に、尚且つ労力をかけずに、それらの動物を寄せ付けないようにしなければならない。勿論、方法はある。それも、とても簡単な方法が。

林の向こう側に、光が見える。火だ。

大体の動物は火を見ればそこに近付こうとはしない。無論、例外はあるが、夜中に火を焚いておくだけで、夜の安全は保証されると言っていい。

「勿論、私は火なんて怖くないけどね……」

 寧ろこの場合、火の灯りは私にとって良い目印になる。もし何かヘマをして逃げるハメになった場合、その明るさは命取りになるが、昼間の太陽のもと彼らの拠点を偵察するよりは幾分かマシだ。

彼らの拠点は至極簡素なものだった。木で出来た長方形のシンプルな家が二つあり、その近くに私を追いかけてきたあの白い車がある。そして、その周りを取り囲むように火が焚かれている。

見張りは……居ない。この森の中だ。わざわざ見張りを立てるほど警戒する必要もないのだろう。私は二つの住居のうち、がやがやと音がする方へと近付き、耳を当てて中の様子を探る。住居からは複数の人の声が響いてくる。

「いやあ、今日も大量だったな」

「全くだよ。今の御時世にあんな沢山のものを抱えて移動してるなんてな」

 恐らく彼らは、旅人を襲って奪い取った物資の話をしているのだろう。

「車から閉め出しされた時のあいつの顔見たかよ。笑っちまったよなあ」

「命乞いってのは無様なもんだよ。必死こいて口ぱくぱくさせてさ。何様だっつの」

「俺達が用があるのはお前の持ってる荷物であって、お前じゃねえっての」

「どっちが『荷物』なんだか。なあ?」

 その言葉の後に、複数人の笑い声が響く。

「そうだ。俺ちょっと小便してくるわ」

 直後にがた、と恐らくその声の主であろう人物が立ち上がろうとする音が聞こえた。

まずい。すぐさまこの場を離れなければ。そう考えた私はすぐさまその場を立ち去ろうとし、足に力を込めた。

「あっ……!」

 足は地面を蹴らず、ぬかるんでいた土へとめり込み、私はその場に倒れ込んだ。

「おい。お前は誰だ!」

 振り返らずとも分かる。彼らに見つかってしまった。

「銃持って来い! 撃ち殺してやれ!」

 脇目もふらずに、私は目の前の森へとひた走る。額に浮かぶ汗が目に垂れる。脈拍が上がる。

森の中を全力で走ると、枝葉が擦れて身体中に傷を作る。その間にも後ろからは怒号にも似た叫びと、狙いを定めぬがむしゃらな銃声が響き続ける。

死にたくない。

何度も躓いた。何度も転んだ。痛む場所は数えきれない。それでもただ私は生きたいと思った。

死にたくない。

死の瞬間はみじめだ。それはどんな生物であろうと変わらない。身体中に残る全ての力を振り絞って逃げようとする時、その生き物はもはや生き物とは思えない壮絶な表情を浮かべる。きっと今の私もそうなのだろう。もはや自分がどれだけの距離を走ったかも、彼らから逃げ切れたかも分からない。ただ、ある瞬間になってから、唐突に身体の力が抜け、私はじっと湿った土の上に座り込む。そうして、見つからないよう頭を抱え、小さく縮こまって、朝が来るのを待った。


 ■ □ ■


 いつの間にか、私は眠っていた。まるで時間が吹き飛ばされてしまったかように思えるような、深い眠りだった。

「ここ、どこだろ」

 昨日の夜、ただ彼らから逃げるために森の中を走っていたことだけは覚えている。

私が眠っている間に殺されていないところから見ると、彼らは途中で捜索を諦めたようだ。だが、日が昇ると同時にまた私を探し始める可能性もある。早急に、この場を離れなければならない。

私はその場で立ち上がり、自らの身体を見た。

服には裂けた箇所が何個もあった。手のひらは擦りきれて薄く瘡蓋が張っている。靴を脱いで足を見ると、親指の爪が割れて黒ずんでいる。脛と太ももには、青黒い痣がいくつも出来ていた。

私は生きている。生き残った。そして、生きようと思った。

本能は常に冷静に、最適解を吐き出し続けている。逃げの手をうったところで行く宛はない。私が生き続けるには、彼らを殺す他ない。相手は銃を持っているが、実際の殺しの技術なら私の方が数段上手だ。ましてや、自らの手を汚していながら、常に自らが優勢であるままで居て、尚且つそれを疑おうともしない彼らに、私を殺せるものか。

もはや、傷の痛みなど気にはならない。殺菌効果のある木の葉をすり潰して塗り込めば何の問題もない。私はただ、彼らを殺すことだけを考えて森を徘徊する。残された足跡や動物の死骸から、彼らの普段使う道を割り出し、罠をはる。穴を掘って底にナイフで削って尖らせた木の杭を差し込んで落とし穴を作り、木と木の間に尖った木を結びつけたロープをはって、丁度下腹部にそれらが刺さるように高さを調整する。丁度良い太さの木の枝を探し出し、ロープと繊維が頑丈な植物を組み合わせて弓を作る。弓矢は尖らせた木の枝に松の樹脂と炭を接着剤にし、鳥の羽根をつけて作る。これらは全て、育ての親から教わった。ナイフと火と、豊かな自然があればこれだけの武器を作り出すことが出来るのだ。

これらの作業を、おおよそ三日程度で終える。その後、私は森の中で息を殺し、間抜けな誰かが罠にかかるのを待った。

罠を全て仕掛け終えた次の日には、一人目の獲物がかかっていた。落とし穴を仕掛けた辺りから、男の悲鳴が響く。私はすぐさま現場へと走る。

「あ、ああ……あああ。いてえ、いてえよ」

 男の身体の至る所に木の杭が突き刺さっている。そのうちの一本は大腿動脈を貫いたらしく、穴の中が血で染まっていた。

私は、男が持っていた自動小銃を奪い取り、その場を去る。とどめを刺さずとも、この男はじき死ぬだろう。

私はその場から距離をとって、木に登り双眼鏡を使い、彼らが来るのを待った。

案の定、彼らはのこのこと私のテリトリーへ踏み込んでくる。それも、物陰に隠れることもなく身体を堂々と晒し、四人全員で密集したまま。

私からすれば、固まってくれていた方が余程好都合だ。銃はともかく、弓を使うのは久しぶりだから、あまり自信がなかったのだが、あれなら撃てば身体の何処かに当たるだろう。

一本目の矢は、一人の肩に刺さった。

弓は銃と違い、訓練を要する使用難易度が高い武器だが、銃にはない大きな利点がある。一つ目に、手で作ることが出来ること。そして二つ目に、音が鳴らないこと。そのため、山岳においては銃よりも弓の方が強い場合が多々ある。

私は二本目の矢を取り出し狙いをつけ、再度放つ。二本目はどうやら頭に刺さったらしい。

彼らはようやく自らの身の危険を察知したらしく、その場に伏せて身を隠し始めた。だが、それこそが私の狙いだ。一度伏せてしまえば、立ち上がって移動するまでに時間がかかる。そのタイムラグが戦場では命取りだ。

私は木から飛び降りて、わざとらしく音を立てながら彼らの方向へ走る。すると、彼らは私に立ち向かおうともせず、散り散りになって逃げようとする。

所詮彼らは烏合の衆だ。のろのろと立ち上がる彼らに向かって、落とし穴にかかった奴から奪った自動小銃を撃つ。一人が倒れこんで、痛みにもがき苦しむ。運良く被弾しなかった者も、ロープのトラップに引っ掛かり、間抜けな叫び声を上げた。

私は手負いの彼らを一人ずつ、しかし確実に仕留めていった。

「た、助けてくれ。助けて」

 矢が肩に刺さっている男が、私に命乞いをする。顔中に汗をかき、口をぱくぱくとさせながら、怯えた表情で私を見ていた。それに耳を貸すことなく、銃で頭を弾き飛ばすと、彼は黙り込んだ。

「ああああ、俺の目が! 目が!」

 その男は両手を使い、右目に刺さった矢を抜こうとするが、矢は抜けず、喉の底からひゅうひゅうと苦しそうに息を吐いていた。そいつの頭を撃ち抜くと、死んだと言うのに何処かそいつは安心したような顔をしていた。残りの二人も、似たようなものだ。ぱくぱくと口をあけて、目の前に迫る死を食っていた。

殺戮は、ものの数十分で終わった。

私は死体から武器だけを奪い取り、彼らの集落へと向かう。住居の規模から考えても、せいぜい残り二人といったところだろう。

もはや、立場は逆転した。彼らは狩られる側であり、私は狩る側だ。住居の中へ、死んだ奴らから奪った手榴弾を放り投げる。爆発音の後に、悲鳴が木霊する。煙のたつ住居の中へ自動小銃を斉射すると、悲鳴もなくなる。

ほんの少しの時間を置いた後、私は住居の中へと入った。

「……!」

 そこには、死体が二つ……否、厳密には三つ、転がっていた。

一つは男性のもので、もう一つは女性のもの。そして、その女性のお腹の中に居たであろう、赤ん坊のもの。バラバラになって、身体から血を滴らせ、顔を歪めて沈黙する三つの死体。それらは全て、私が、私の手によって作り出したものだ。

思わず、力が抜けた。がしゃんと音を立てて、銃が地に落ちる。

私が戦っていた者とは、一体何だったのだろうか。ただ一方的に人を嬲り殺し、弄んで笑みを浮かべるような悪党どもではなかったのか。例えそうだったとしても、生まれる前の子供に、その咎はあったのだろうか。

私は生き残った。だというのに、虚しかった。何故ならそこには、生以外の何者も残されてはいなかったからだ。


 ■ □ ■


 殺戮の日から、数日たった。

私は、何の目的もなく、森の中を彷徨っていた。彼らの拠点には十分な食料もあったので、食べるのに困るようなことはなかった。車には十分な量の燃料が詰め込まれていたし、予備もあった。出ようと思えば今すぐここを出て、旅を再開できた。だと言うのに、私はその一歩を踏み出せずに居た。

森の中は陰鬱な空気を漂わせ、私の身体にまとわりついた。沢山の生命が蠢いているはずなのに、この世で生きているのは私一人だけになってしまったような、寂しさがあった。放置されたままの死体は異臭を放ち始める。私はその様子を、毎日観察していた。

今日、一つの変化があった。死体の周りに猛禽たちが集い、その肉を食んでいたのだ。私はその様子を見て、拳銃を抜きかけたが、そこで踏みとどまった。

死体を食らう鳥を追い払ったところで一体何になると言うのか。どう足掻いても彼らは腐り、朽ち果てて、やがて消える。鳥達はただ己の生存のためだけにそれを食らう。そこには何の感慨もないじゃないか。

「うん。そうだ……その通りだな」

 私は、自らを嘲るために笑った。小さく、けれど確実に、自らの耳に入るように。

生きることに優劣などない。生きること、それ自体が目的であり義務であり、苦痛であり幸福なのだ。今まで私が戦ってきた彼らは正しく、そして間違っていた。私も同じだ。

「……旅を、しよう」

 私は旅を続けようと思った。どう足掻いても、どうしようとも、私には死と共に、生もついてくる。それならば、生について考える必要など何処にもないではないか。

こうして、私は自らの目的のために、旅をしようと思った。何故なら、目的がない者には、生と死以外には何も残されないからだ。

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