無駄
赤いハイラックスが白い砂浜の上に立つ。天気は快晴。空と海が水平線でくっついて見えるほど、両者は蒼く透き通っている。海は穏やかに、小さな波が寄せては引いて、波打ち際に白い泡を残している。
そんな中で私は、浅い海を挟んだ向こう側にある大きな陸地を遠目に見ながら、小さく溜め息をついた。
「どうにかして渡れないかなあ」
見た感じではわりと浅いように見えるこの海。エンジンが止まってしまえば自力では救出できなくなり、私の旅の移動手段が車から徒歩に切り替わることになる。
かといって、このまま海岸伝いに移動していったとしても向こうの陸地に渡ることのできる保証はない。以前居た場所に戻ってしまえば無駄足になるし、その際の燃料の浪費がきっかけで後々燃料切れにでもなったら悔やむにも悔やみ切れない。
「どうしよっかなー……」
燃料切れは考え過ぎにしても、一度来た道を戻るというのも時間と燃料の浪費のように思えてしまい、中々実行できない。そういった思考の結果が、今のただ海岸を見つめ呆然とする今の無駄な時間に繋がってしまっているわけだ。
「ねえ、君さ。何とかして海を渡れない?」
勿論、ハイラックスは何も答えない。
「若いの、一体何を悩んでいるんじゃ」
唐突に、後ろから声が聞こえた。
「海、渡れないかなあって」
「うむ。渡れぬこともないかのお」
この時点で私はようやく今起きていることのおかしさに気付き、ガンホルダーから拳銃を抜き、後ろに居るはずの声の主へ銃口を向けた。
「おお、何と物騒な」
そこに居たのは一人の老人だった。
「一体何者? 後ろを取られるなんて久々」
確か、つい先程周りを見回した限りではこの老人の人影も、人が居る気配もなかった。そのはずなのに、いつの間にか私は無防備な背後をこの老人に晒していたのだ。
「何者か、と問われると少々答えに困るな。自分の名前も身分も、今や何の意味も持たないからのう。分かるだろう」
銃を向けているというのに、この老人は何ともまあまったりとした調子で言葉を返してくる。思わず気が抜けてしまいそうだ。
「そうは言っても、じゃあ貴方のことをどう呼べばいいの? そもそも、貴方は私から物を奪いにきたの? それとも物乞い?」
「荒んでおるなあ。まあ、無理もない。時代が良くないんじゃ、時代がね」
「いや、その……」
成り立っているようで微妙に成り立っていない会話を繰り返しているうちに、段々とこの老人に対してイラつきを覚え始めていた。
「こら。イラつくな。イラついたって得なことは一つもないんじゃから。なあ?」
何がなあ、だ。
「はっきりして。あんたはここでずっと何をして暮らしてきたのか。あとあんたを何と呼べばいいのか。さっきから聞いているのはそういうこと。分かる?」
「そこは、ほら。若いの。あんたから話すのが筋じゃないかい」
「私はただのトラベラー。そこの車とその中身は全部私の持ち物。それが全てでそれ以上は何もない。これでいい?」
「ふむ。ならワシも答えよう。ワシはずっとここで野草をとったり魚をとったりして日々をか細く生きている。ただそれだけじゃ」
たったそれだけ。たったそれだけの言葉を引き出すために、何故私はこの老人とくだらない問答を延々と繰り返さなければならなかったのだろう。
「無意味だ……」
銃を構えたまま、私は大きく、大きく溜め息をついた。
「で、結局あなたはどうすればこの海を確実に、安全に渡れるというの?」
「そうじゃの……まずは」
言って、老人はすぐ近くに置かれていたボロボロのバケツを指差す。
「あれ使って、水汲んでこい」
「どうして?」
「知りたいんだろう? 海の渡り方」
「……どこの水、汲んでくればいい」
私が言うと、老人は小さく笑った。
この日一日、私があの老人に指示されて行ったことを列挙していってみようと思う。
まず第一に水汲み。海岸から歩いて一時間以上かかる場所にある井戸から水を汲み、海岸近くの林の中にある老人の小屋へと運ぶ。第二に薪割り。錆のついた斧を渡され、木を切るように指示された。全く上手く切れずにイライラした私は、以前に街から持ち去ったガソリン駆動のチェーンソーを持ち出し、全ての木を燃やしやすい薪の形に変えた。その時老人は
「おお、見事見事」
と言って小さく拍手しながら私の方を見ていた。少しは手伝ったりしないのか。
そうこうしているうちに夜が訪れると、私は老人に対して怒った。
「いい加減いつになったら海の渡り方を教えてくれるんですか。もし嘘だったりしたら、脳天撃ち抜きますよ」
「物騒じゃなあ。もう少し落ち着け」
「十分落ち着いていますよ。貴方の頭を如何に早く撃ち抜くかについて考えを巡らせることが出来るくらいには」
老人は小屋の中で火を炊いて、干した魚とよく分からない草をボロボロの鉄鍋に放り込み、それをぐつぐつと煮込み始めた。
「あと、部屋の中が煙いです。何とかなりませんか」
「火を炊いているんだから当然じゃろう。窓は全部開けてあるから死ぬことはないぞ」
「そうじゃなくて」
「もし耐えられないというのなら、外に出るんじゃな。ああ、ワシのメシはやらんぞ」
「いらない!」
そう叫んで、私は外へ出た。
真っ暗な夜闇の中、星空に煌めく数多の星と、そこに浮かぶ大きな月。月光りを反射する海だけが光っていた。私はそこらにあった石を一つ掴むと、海の方へと思い切り放り投げ、大声で叫んだ。
「海の馬鹿野郎!」
夜空の星も月も、誰も答えを返しはしなかった。
■ □ ■
その次の日に目を覚ました時、当然だが私はまだ海の近くに居た。
「あー……気分最悪」
何かあったわけではない。けれど、何もなかったことが今の私にとっては大問題だった。
忌々しいことに海はまだそこにあり、突然橋が出来上がるわけでも、海が開けて道が出来たわけでもなかった。本当にあの老人が言うように、海を渡れるようになるのだろうか。そもそも、具体的にどんな手段で海を渡ると言うのか。
この日の空も憎たらしいほどの快晴だった。特にやることのない私は砂浜に寝転がり、ぼうっと空を見つめていた。
「おい、若いの」
「……なんですか」
ようやく、この空と海の良さに気付けそうになったというのに、この老人はそれを邪魔するかのように私の前に現れた。
「今日はとっておきの場所に連れて行ってやるぞ」
老人は妙に長い木の棒を手に持っていた。
「とっておきの場所より、海の渡り方を教えてください」
「それも、とっておきじゃ」
抵抗する気も失せていた私は、黙って老人についていった。特別何かすることがあるわけでもなかったし、ここで空を見ていようと、老人についていこうと時間の無駄であることに変わりはない。
「おい、若いの」
「なんでしょう」
「お前、今の時間が無駄だとか。そう考えてはおらんか」
「その通りです」
「その時間は、お前が作り出したものだ」
「え、一体何を言って」
元はと言えば、この老人のせいで足止めを食ったのが原因だというのに、この老人はそのことを忘れているのだろうか。
「人が生きてるうち、無駄な時間というのは早々ないものじゃ。あの時無駄だと思っていた時間が、今思えば重要な時間だったなんてのは人生でざらにある」
「でも、私は世界を旅するトラベラーです。止まっている意味なんてないですよ」
「いつからお前は、常に動いていなければ旅ではないと思い始めたんじゃろうなあ。きっと、長くその場に留まると誰かに襲われるとか、そういうところから始まったんじゃないか」
「事実ですからね」
「他の場所ならいざ知らず、ここらへんでそういうことはまずないから、安心して気を抜くといい」
結局、老人が何を言いたいのかはいまいち分からなかったが、確かに、昨日からの様子を見るに、何者かに襲われる心配だけはなさそうだった。
老人に連れられた場所は海岸の堤防。だいぶ昔に作られたもののようで、波や海風に削られ、もはや普通の岩場と区別のつけられない状態になっている。
「堤防の下を見てみるといい」
老人に言われるがまま、私は堤防の下を覗く。そこでは、小さい魚から大きい魚まで、多種多様な魚がゆったりと泳いでいた。
「うわ、すごい一杯」
「今日はここで一日釣りをするんじゃ」
言って、老人は抱えていた長い木の棒に糸を結び、その糸の先にドッグタグをほんの少し折り曲げたような金属片を結びつけた。
「それはなんですか?」
「海辺で拾ったドッグタグをトンカチで叩いて作った疑似餌じゃ。こんなのでも魚は食いつくんじゃよ」
「へえ……」
「今日も大物を釣り上げてやるぞ!」
そう言い放って、意気揚々と釣りを始めた老人であったが、引きはいつになっても来ず、いつの間にか私はただ空を見つめるだけになっていた。
「……のどかじゃのう」
「そうですねえ……」
今までの旅はずっと警戒し続けていたが、ここに来て初めて私は自分の時間を取り戻しつつあるような気がしていた。ゆったりと流れる時間。何かに追われることもなく、何かから身を守る必要もなく、ただ時間のみが過ぎ去っていく。
「釣りって、ここ以外で出来ないんですか」
「糸が短いからのう。海岸からある程度遠くまで投げられるような糸と釣り竿があれば、他の場所でも出来るんじゃが……」
そこまで聞いてから、私は一つ良いことを思いついた。
「じゃあもし、海岸の先の方で落ちて爆発するものがあったりしたら、沢山魚とれますかね」
「爆発が強すぎなければ、かつすぐに爆発するものなら何匹か浮かんできそうじゃなあ」
「なら、待っててください!」
私は一度ハイラックスに戻り、手榴弾を一個だけ持ち、老人の元へ戻った。
「これを海に投げれば、きっと沢山魚がとれますよ」
「物騒じゃなあ」
「でも、人は死にませんから」
「それもそうじゃな」
私はいつも使う時と同じように手榴弾のピンを引き抜き、海に向かって放り投げた。手榴弾は海面に没し、小さな爆発音を上げ海中で破裂した。その直後、大きな魚が何匹も浮かび上がってきた。
「大漁ですよ。行きましょう!」
私がそう言った時には、老人は既に海に飛び込み、魚の浮かぶ場所へと泳いでいた。元気で羨ましい。
この日の夜は私が手榴弾でとった魚を老人と二人で分けて食べた。普段の無味乾燥な保存食と全く違うその味に私はとてつもなく驚いた。その食事の最中に、老人は口を開く。
「若いの。この海はな」
「はい」
「物凄く浅いものだから、ある時期になるとさあっと海が引いて、向こうの陸地まで陸続きになるんじゃよ」
「え、それじゃあ」
「そう、その時だけはこの海を渡ることが出来る。そして、今日が丁度その日のはずじゃ」
「そんなことが実際に起こり得るんですか」
「あと二時間もすれば完全に海が引く。最高速で車を飛ばせば十分間に合うじゃろうな」
「そうだったんですか。だから……」
だから、私をこの場に足止めしたのか。
「言っても信じないじゃろうからな。後は何処へなりとも好きに行くがいいさ」
「はい!」
その時から既に波打ち際はかなり遠くまで下がっていて、老人の言った通り二時間もすると目の前の海はたんなる湿地帯になっていた。しかも、ここはかつて道路であったらしく、海が引いた後にはコンクリートで出来た道まで現れた。
私は老人に別れを告げ、ハイラックスのエンジンを始動させる。またここが海に戻ってしまう前に走り切るため、私は思い切りアクセルを踏み込み、出せる限りの速度を出して海の上を駈け出した。
「何だか久々に、楽しかったなあ……」
楽しいなんてことを思うのは、いつぶりだろうか。もしかしたら、私の人生でも初めての出来事だったかもしれない。自らの身の安全のために動き、常に進み続けていた。それがいつの間にか自分の使命であるかのように、勘違いしていた。それに気付けたというだけでも、あの時間は無駄ではなかったように思う。
「あの老人に感謝しないとな」
と考えた段階で、私はふと考えた。今日はともかく、昨日の水運びや薪割りに、一体どのような意味があっただろうか……?
「あれ、もしかして私、いいようにこき使われてたような」
あの老人に感謝するのは、やめにしようと思った。
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