第8話 魔族の手の中で(前編)
意識が浮上してくる。なのにどこかで自分を眠りの世界に押し戻そうとする力が動く。
『眠りに押し戻そうとする力』とは何だろう。変な感覚だ。なんだか変な力に優しく寝かしつけられているようなのだ。
子供じゃないのに、とおかしくなってくる。
それと同時に麗佳が、今、親の側にいられない事も思い出してしまった。
そっと唇を噛む。夢だから痛くはない。
それにしても自分の身体に一体何が起こっているのだろう。ちっとも魔王を倒さない駄目な勇者として寝ている間に毒でも飲まされたのだろうか、それともオイヴァの気が変わって暗殺魔術——そんなものがあるのかは分からないが——でもかけられているのだろうか。
勝手に使われて、勝手に邪魔者扱いされて、勝手に殺されようとしている。
そんなのは嫌だ。麗佳はまだ死にたくはない。
そう思っていると眠りに落とす力が弱まってくる。
今度こそきちんと意識が浮上する。麗佳は思い切って目を開けた。
最初に目に入ったのはイケメンのどアップだった。反射的に飛び退く。とは言っても横になっている状態なので身体をずらす程度だったが。
「随分な態度だな、『勇者殿』」
不機嫌そうな声が振ってくる。
「普通ビビるから! 起きてすぐ男の顔のどアップが見えたらびっくりするから! こっちの状況も考えてっ!」
反射的に言い返した。目の前の男はぽかんと口を開けている。
そこでその男が見知った顔だという事に気づいた。こんな漆黒の髪と純金の瞳を持つ男など一人しか知らない。
そのオイヴァは麗佳の反応に呆れ返ったようにため息をついている。その態度がものすごく腹立つ。
麗佳はしっかりと起き上がった。そしてベッドの上に座ってオイヴァを睨みつける。
「驚かさないでください、オイヴァ様」
わざと敬語を使う。案の定オイヴァは不機嫌そうな顔をした。
「敬語も様付けもいらないと言わなかったか?」
「オイヴァ様も私の事を『勇者殿』って呼びましたよね? お互い様です」
先ほど驚かされた仕返しもあるが、言わないでおく。
「分かったよ、『レイカ』。これでいいんだろう」
「うーん。何だか投げやりっぽい?」
「いい加減にしろ」
少しだけからかったら機嫌を損ねた。どうやらオイヴァは結構短気なようだ。その様子がおかしくて麗佳は思わず笑ってしまった。
「レイカ! そいつに気を許すな!」
奥の方から慌てた声が聞こえた。そちらの方に目をやると、パーティメンバー達が三人が三人とも心底不安そうな表情で立っていた。
それにしてもこれはどういう状況なのだろう。
ヨヴァンカがかけよってくる。
「レイカ、具合はどう? どこか苦しくない? 気持ちが悪いとかそういう事もないわね?」
その言葉で麗佳が倒れたのがヨヴァンカの目の前だった事を思い出す。
「うん。今は座ってるからしっかり治ったかどうかは分からないけど、少なくとも吐き気やめまいはしないかな」
「そう……」
心底ほっとした顔をするので余計に罪悪感が沸いてくる。
「心配かけてごめんなさい」
だからしっかりと謝った。
「それで、ここは……?」
「私が泊まっている宿だ」
ヨヴァンカの代わりにオイヴァが答えてくれる。
という事はやはりオイヴァが助けてくれたらしい。助けを求めなければいけない相手なのに直前に借りを作ってしまったと内心で慌てる。
「やはりさすがのお前も敵の潜伏場所にいるのは怖いか、勇者殿」
オイヴァが何を誤解したのか脅してきた。
「えっと、た、助けて下さってありがとうございました」
とりあえずお礼を言う。オイヴァはぽかんと口を開けた。
「あと、ご迷惑をかけてしまったみたいで申し訳ありません」
そしてきちんと謝る。なのに部屋の中の麗佳以外の四人は唖然とした顔をしている。麗佳は何か変な事を言ったのだろうか。
「レイカ! 何で魔族相手にお礼や謝罪を言っているんですか!」
ハンニが何故か文句を言ってくる。
「え? 駄目なの?」
「駄目に決まっているじゃないですか! 相手は魔族ですよ」
麗佳は首を傾げた。魔族だから礼儀を無視していいわけがない。むしろ、相手が敵である魔族だからこそ、きちんと接する必要がある。
というか他にもいろいろ理由があるのだが、本人の前で喋ってしまっていいのだろうかと不安になる。麗佳はちらりとオイヴァを見上げた。出来れば少しだけ席を外して欲しいとメッセージを視線に込める。
途端にオイヴァの空気が冷たくなった。
「まさか私の潜伏場所で内緒話が出来るとは思っていないよな?」
「……ごめんなさい」
今のはものすごく失礼だった。麗佳は素直に謝る。でも『潜伏場所』という表現はどうなのだろう、と考えてしまう。
「それに私も知りたいしな。どうしてお前は私を警戒しない?」
麗佳はこれでも結構警戒しているが、今の自分の態度は能天気なものに見えるらしい。
どうやらきちんと話さなければいけないらしい。とはいえ、皆に相談もなしにオイヴァにあの本の話はしたくない。麗佳もそこまではオイヴァを信用していないのだ。
「……いろいろ理由はあるけど、一番の理由は、私が今『生きてる』から、かな?」
「え? どういう事ですの?」
ヨヴァンカが聞き返してくる。よくわからなかったらしい。確かにこれではまだ説明が足りないと思う。
「私は気絶してたんでしょ? 私を殺したい相手にとってはまたとないチャンスだと思うの。……暗殺するのに」
「でもあの場にはヨヴァンカがいたんだろ? ヨヴァンカに攻撃される事を恐れて手出しをしなかった可能性がある!」
エルッキは何を言ってるのだろうと麗佳は呆れた。まあ、彼も本気で言っているわけではないだろう。
「どうでしょう。わたくしに口止めの魔術をかけた方ですわ。脅威にはならない事をご存知のはずです」
ヨヴァンカが悔しそうに言う。エルッキは不満そうにしながらも反論を引っ込める。やはり分かっていたのだろう。
とりあえず話を続ける事にする。
「もしオイヴァがこの場で私を殺すつもりがあるならこんな風に助けないと思う」
「どうして」
「だって無駄でしょ? 私がオイヴァの立場だったらそんな非効率なことは頼まれたってしたくないもん」
きっぱりと言い切る。何故かオイヴァが呆れたようにため息をついた。
大体何に呆れられているのかはよくわかる。でも麗佳はオイヴァ達が思うほど能天気なわけではない。
それでも油断すれば足下をすくわれる。そうして最悪の場合殺される。
オイヴァが図書館で接触して来たのは、油断をさせて麗佳を誘い出し殺すためだったのだろう。その計画を止めたのは、思いがけず得た『魔族のヴィシュ侵略の噂』についての詳しい事が聞きたいから。だから恩を売られている。
それに気づいているからこそ、麗佳は『オイヴァは今は麗佳を殺さないと信じている』という情報を少しだけ出した。逆に言えば『まだ殺さないで』とお願いしているのだ。
麗佳はまだ生きていたい。生きて元の世界に帰りたいのだ。
とはいえ、交渉など初めてだ。うまく出来ているのだろうかと不安になる。
「どうしてそんなにその魔族を信用するんですか! レイカはその魔族に洗脳でもされたんですか!?」
ハンニが悲痛な声でオイヴァに喧嘩を売る。やめてと言いたい。麗佳達の命は首の皮一枚で繋がっている状態なのだ。その皮もオイヴァの意思一つで簡単に破られる。今までの麗佳の努力をふいにしないでほしい。
「洗脳、ねえ」
オイヴァが馬鹿にしたように笑う。
麗佳も洗脳については全く疑っていない。あの図書館では勇者リストで脅す以外の行為はしていないと思っている。洗脳するつもりなら脅しなどしない。
唯一麗佳を洗脳出来るのならあの本だが、あれはオイヴァが用意した物ではないだろう。そんな時間はなかったはずだ。
大体、もし本を設置したのがオイヴァなら、あれは間違いなくヴィシュ語か日本語で書かれていたはずだ。少なくともあんな分かりにくい崩し文字にはしない。
嫌な事を思い出してしまった。麗佳はみんなに見えないように唇を噛んで恐怖を追いやる。
エルッキ達はこの事を知っているのだろうか。
「レイカ?」
ヨヴァンカが不安そうに顔を覗き込んでくる。
「あ、何?」
麗佳は安心させるように笑って見せる。
「何かあったら言って頂戴ね」
「うん。ありがとう」
ほっとする。このまま何事もなかったらいいと思う。
そこで麗佳は大事な事を聞いていない事を思い出した。自分の体調の事を聞かなければこれから動いていいのかも分からない。
「あ、あの……オイヴァさ……、あ、その、オイヴァ」
つい、『様』をつけそうになって慌てて止める。だが、オイヴァは気づいたようで苦笑いを返してくる。
「どうしましたか? 『勇者殿』」
そしてからかい混じりに言い返される。麗佳は唇を尖らせた。
「私、どうして倒れたの?」
「魔力枯渇と精神疲労だ」
即答される。
魔力枯渇は間違いなく翻訳魔術を使って喜助の本を読んだせいだろう。中途半端に翻訳されないように、自分が使える最大のものを使ったからだ。
魔術を覚えたての頃、魔術式を興味本位で翻訳し、漢字の羅列が出て来て面食らった事があった。理解出来なくはないが、読むのに苦労したのを良く覚えている。ヨヴァンカによると魔術に使う文字は象形文字らしい。式と呼ばれているが、あれは文章なのだ。だからと言って漢字の羅列になってしまうのはあんまりだと思う。
でも、だからこそ、翻訳魔術ははやめにレベルが高いものを学んでおいたのだ。
それでも、国名や人名がひらがなで表されたりして少しだけ分かりにくかった。きっと元は漢字の当て字だったのだろう。一つ上のレベルの魔術を使えば解消されるのだろうか。とはいえ、翻訳して大事な文書を読むたびに魔力が枯渇してはどうしようもない。
そういえばあの部屋に行く前に、オイヴァがヨヴァンカにかけた魔術を解く対策をしていた。おまけに部屋から出た後、ヨヴァンカと会った時も防音魔術を使った。
こうやって羅列するとかなり無理をしていた事が分かる。明らかにキャパオーバー状態だ。
精神疲労の事は考えない事にした。
「応急処置として私の魔力を注いでおいた。それと、魔力回復促進の魔術もかけておいたから」
「あ、ありがとうございます」
反射的にお礼の言葉とお辞儀が出てくる。
「気にしなくていい。私は知り合いを助けただけだ」
そのセリフがさらりと出てくるのがニクい。
「治っているか確認しようか」
そう言うがはやいかさっさと呪文を唱える。どこかいつも魔術で使う呪文とは違う気がする。魔族特有の魔術なのだろうか。
出てくる魔法陣に書かれている文字も、いつも麗佳が知っているのとは違う文字だ。
麗佳が興味深く文字を観察している間に診察は終わったようだ。オイヴァは一つうなずき、陣を消す。
「魔力枯渇は良くなっているようだな。精神疲労については自分でなんとかしろ」
「……はい」
あっさりと精神疲労についてはさじを投げられた。そんなに酷いのだろうか。
まあ、体調が回復したのならいつまでもオイヴァの寝台を借りているわけにはいかない。
「どこに行くんだ?」
だから寝台を返そうとしたのに、厳しい声で止められる。これに関しては理由を隠す必要もないので素直に答えた。
「まさかお前達、このまま帰れるとか思ってないよな?」
だが、次のオイヴァの言葉に四人の動きが止まった。
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