第9話 コンピューター将棋の脅威

先日、コンピューター将棋の「ボンクラーズ」が元プロ棋士米長永世棋聖に勝った。今世紀中にプロ棋士に勝てるコンピューター将棋は開発されないであろうというのが多くの見方であったため、これには正直驚いた。

将棋もゲームの一種である以上、コンピューターの計算速度を上げれば人間に勝てるものができるのは当然と思う人もいるかもしれないが、これが意外と難しい。将棋は一局面において平均80手ぐらい指す手があり、一局の将棋は大体100手前後の指し手がかかる。つまりすべての手を読み切るには80の100乗(80を100回掛け算する)通りの計算が必要となる。これは天文学的数字をもはるかに超えるけた数で、日本最高速のスパコン「京」でも計算は不可能である。ではボンクラーズはどうやってプロ棋士に勝ったのか。筆者はコンピューターの専門家でないので詳細な演算方法は分からないが、将棋はアマ初段くらいのレベルなので、おおよその経緯は何となく推測できる。コンピューターへの将棋の教え方も基本的には人間の子供に教えるのと同じである。コンピューターがAI(人工知能)と呼ばれる所以でもある。

まずは、将棋の基本ルールを教え込む。相手と交互に指すこと、駒の動かし方、相手の駒を取れること、取った駒は使えること、等々である。これくらいまでは、ゲームのプログラマーなら朝飯前であろう。ただ、これだけでは子供将棋と同じで、到底将棋を指すというレベルにはない。正直、初期の将棋ソフトはアマ初段レベルでも使い物にならなかった。

一局の将棋には、大きく分けて3つの局面がある。互いに駒を組み上げ陣形を整える序盤、互いの駒がぶつかり陣形が崩れ始める中盤、そして相手の王様を追いつめてゆく終盤である。

序盤のうちは、定跡という大よそ決まりきった指し方がある。これは長い将棋の歴史の中でプロ棋士たちが試行錯誤した結果、こう指した方が有利になるという結論を導き出した手順である。まあ辞書みたいものである。実際、プロ棋士でも序盤のうちはほとんど持ち時間も使わず駒組みを進める人も多い。コンピューターにとっては記憶するのは得意分野なので、序盤はこの定跡によってある程度指し進めることができる。

次に教えなくてはならないのが、駒の損得勘定である。将棋には8種類の駒があり、それぞれの役割は違うが、その機能によって駒の価値(あるいは序列)がある。例えば飛車は空を飛ぶ車ヘリコプター、香車は槍といったたぐいである。どちらの価値が高いかは将棋を知らない人でもすぐにわかるであろう。よって、初歩のうちは、価値の高い駒は大切に、価値の低い駒は軽く扱うよう指導する。実際、プロの将棋においても駒の損得計算は重要な要素とされる。なぜなら、価値の高い駒を多く持っている方が総合戦力が高くなり、有利に勝負を進めることができるからである。こうした計算もコンピューターの得意分野だ。初期のコンピューター将棋でも駒の損得計算は重要なプログラムであった。

さて、いよいよ中盤になり、駒がぶつかり合うようになってくると、定跡は使えなくなってくる。プロ棋士でも、しばしば「この先は未知の領域だ」という言い方をする。つまり誰も知らないし、どう変化するか分からないということである。一手指すごとに優劣が変わるほど緊迫した局面となる。こうなると、コンピューターも自身で考え、自身で決断していくというロジックが必要となる。これを局面評価という。つまり今の局面の形勢が優勢かどうか、あるいは次にどの手を指せば優勢になるかという計算をしなくてはならないのである。これがすこぶる難しい。だいたい将棋を中途でやめてしまう人は、ここで壁にぶつかるからである。

コンピューター将棋の開発者は、ここで知恵を絞ってそのロジックを考え、コンピューターをプログラムしてゆくわけだが、残念ながらここから先は企業秘密で筆者も詳しくは知らない。ただ、推測で一例をあげるなら、陣形の乱れを使う方法がある。例えば極端な例を上げると、王様の周囲に守り駒がなくまさに裸の王様である時は低い評価点をつけるといったようなやり方になろう。あるいは遊び駒の多い少ないを使う方法も考えられる。遊び駒とは、盤上で戦線から離脱していて役に立っていない駒のことである。これが多いと一般的に言って、戦力不足になるので形勢不利と判断される。このように、局面評価をするにはいろいろな方法が考えられるが、これを数値化してコンピューターでも判断できるようにプログラムするのである。

そして、いよいよ終盤であるが、終盤になると駒の損得よりスピードが優先されるようになる。将棋というゲームの最終目的は相手の王様を取る(これを詰ますという)ことであるから、最後はどんなにたくさん駒を取っていても、王様を取られると負けになる。この辺りのロジックをコンピューターに教え込むのも大変である。時として、王様以外で一番値打ちのある飛車をタダで捨てるという指し方もあるからである。ただ、最近のコンピューターは、詰め将棋はほぼ完ぺきに、しかも瞬時に判断できるほどの実力だという。終盤になって、王様が詰むかどうかは、まさに計算の世界、コンピューターが最も得意とする分野だからである。もし、詰みがある状態に至ってしまうと、100%勝ち目はなくなる。相手が人間ならうっかり詰みを見落とす可能性もあるが、コンピューターではまずそうした計算ミスは起こり得ないからである。

さて、このコンピューター将棋の発達で心配されるのは、プロ棋士の対局でのカンニング防止である。通常、プロの対局は一人当たり5時間から8時間の持ち時間を使い、タイトル戦ともなると2日掛かりで行なわれる。当然、棋士たちはその間自由にトイレに行ったり、食事をしたり、あるいは休息を取ることもある。その際、コンピューターを使って次に指すべき一手をカンニングすることも可能となる。もちろん、それはプロとしてあるまじき行為と言われるであろうし、何よりプロのプライドがそれを許さないと言うかもしれない。ただ、持ち時間が少なくなっていて切迫しているときは、例えば詰みのあるなしをコンピューター将棋に判別させるといった補助的使用は十分に考える。そうなると、将棋のゲームとしての価値が損なわれ、プロ棋界がひっくり返ることにもなりかねない。将棋連盟はそろそろ真剣に対策を考え始めるべきと考える。


(追記)

このお話を書いた後、最近「電王戦」でプロ棋士がコンピューターに敗れるという衝撃的ニュースがありました。このままコンピューター将棋がさらに進化を続けると、将来「完全将棋」が実現してしまうかもしれません。大昔、神と神が将棋を指された時、先手の神様が第一手を指した瞬間、後手の神様は何も見ずに投了したという笑い話がありました。完全将棋とは、必勝の手順であり、相手がああ指せば、こっちはこう指すというように、もう結論が見えてしまった手順のことです。

サイコロ振りやトランプのように確率に依存するゲームの場合は、完全という結論はありませんが、隠し事なしの将棋盤の上では「完全」もありえます。もし完全将棋が実現すると、将棋のゲームとしての価値は完全に損なわれ、プロ棋界がなくなることになります。

完全将棋が実現するかどうかは筆者にも分かりません。先手必勝という言葉がありますが、将棋の場合は囲碁と違って、今のところ先手絶対有利という結論は出ていません。何千局というプロの対局でも、先手・後手の勝率はほぼ拮抗していると言われています。そのため、将棋では先手と後手とでハンディはつけません。

先手必勝ではないというのは、「真似将棋」を考えると簡単に理解できます。真似将棋とは、相手が指したのと全く同じ手を指し続けるという方法ですが、いつかは駒がぶつかり合って真似ができなくなる時が来ます。その際、先手側から駒の取られる場所に駒を進めなくてはならないという先手不利な局面が生じる可能性もあるためです。

プロ棋士に勝利したコンピューター将棋が次に目指すのはこの「完全将棋」ということになるかもしれません。そのヒントはあります。もしコンピューターが後手ならば、先程の真似将棋により途中局面までは完全に互角で駒組みを進めることができます。よって、駒がぶつかり合う中盤以降において、試行錯誤による消去法で不利になる手順をどんどん消してゆけば、残った手順が完全将棋への道筋ということになります。

このまま、コンピューター将棋が進化を続けると、特に自己学習機能が強化されてゆくと、必勝手順が解明されてしまう日が来るかもしれません。

将棋ファンとしては、楽しみでもあり、残念でもありますが

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