第26話(愛海編)


 家に着く頃には半分くらいは大丈夫になっていた。

 陽菜のおばさんにちゃんとお礼を言って、二人にも心配掛けさせたことを謝る。それぐらいのことはできるようになるまで回復していた。

 でもまだいつも通りにはなれていない。

 頭が酷くぼんやりとしている。

 そのせいで自分の部屋の中に入ってから玄関の鍵を閉め忘れたことに気づいた。

 ――そして志穂のことも思い出す。

「……」

 無心でスマホを開いて連絡していた。さっきまであんなに会いづらい状態だったというのに、今は全くそれがない。

 返事はすぐに帰ってくる。もしかしたら今日一日ずっとスマホに注意を払っていたのかもしれない。ずっと私の返事を待っていたのだとしたら本当に悪いことをした……。

 あと一時間くらいしたら来ると聞いて、わかったとすぐに返事する。そのときまでにこの状態が治るかどうかなんてことは少しも考えなかった。

 スマホをその辺に放り投げた。ゴンという音がしたけど、いつもは気にする傷や画面のひび割れの心配は少しもしない。

 どうでもよくなっていた。頭をからっぽにしたかった。

 ……だから他の一切を考えずに横になる。

「……」

 うつ伏せになって顔だけ横に向ける。しばらくそのままにしていた。

 そうして何も考えずにいるとからっぽの頭の中が真っ暗になっていく。部屋のカーテンを閉め切っても比べ物にならないほどの濃い闇が頭の中に広がっていった。

 その感覚に浸って、ぼんやりしているとシーンと耳が鳴る。

 その後で――


『初めまして』と声を聴く。


 さっきも唐突に鳴ったその声が映像と共に頭の中に浮かび上がる。

 それが頭の中で膨らんだ闇を追い払う。

 それ一色だけとなる。

 そうしてまた私を停止させる。さっきもそうやって私の体を固めたのだ。


 足がただの棒きれのようになって。

 頭の中がふわふわとして。

 視界に入っているはずの世界が霞んで。

 胸の奥をギューッと締め付けた。


 全然大丈夫じゃなかった。

 綾と陽菜が送ってくれなかったら。もしあのまま一人で帰っていたら事故に遭っていたかもしれない。


『初めまして』


 また声がする。またあの顔が浮かんでくる。

 仰向けになると今度はそれを塞ぐように目を閉じて、そっと両手で耳を塞いだ。



 ドンドンと部屋の戸を叩く音を聞いて目を開ける。

 譲の声だ。志穂が来てるって言ってる。

「んー」と言いながら起き上がる。少しだるい。

 寝ていたわけではないのに志穂から『着いた』ってライン着たのに気づかなかった。もしかしたらインターホンを鳴らしたかもしれないけれど、それにも気づかない。

 これじゃあまずいかもと思いながらも、このまま一階へ降りて行く。気分の悪さはないけれど彼女と顔を合わせるのは少し怖い。

 一階へ降りて玄関を見る。日が落ちているせいかやけに暗い。

 ドアノブに手を掛けた途端、手の甲がピクッとした。

 開けることに少し……戸惑っている。

「……」

 でも――思い切って外へ出る。

 そうしなければ。確かめねばと自分の足を無理矢理にでも動かす。

「遅い」

 扉を開いた先の夕暮れの眩しさに少しだけ目を細める。

 志穂は門の前にいた。声が少し怒っていたので歩きながら謝る。

 門を間に挟んだところで足を止めて彼女を見上げる。私の様子から察したのか心配そうな顔をしている。


 やっぱり……重なる。


 思い出したせいだ。

 もう彼女を見ているだけでそうなってしまう。

 これはもう解けないかもしれない。

 ごめん志穂と今度は心の中で謝っていると彼女は何かを差し出してきた。

「……なにこれ」と尋ねる。横型の封筒?

「梅の宿の招待状」

 差し出されたそれを静かに受け取って「ああ、そっか」と呆けた声が出る。

「……ワザワザありがとう」

 これで梅の宿に入れるわけか。なるほど。

 そして後は私が当日行くだけってわけだ。

 行って。志穂の声を聞いて――私が答えを出す。

「あのさ――」

 言われて封筒を眺めていた顔を上げる。

「――来てくれる?」

 少し怯えたような顔。

 押せば崩れてしまいそうなぐらい。いつもの大きな彼女がとてもか弱く見えた。

 こんな彼女でも、当日になれば言えるって言っていた。

 自信が持てるとかなんとか。

 私に想いを告げる為に私の前に立つと。


 ――ねぇ志穂。


 そう言おうとしたけれど、寸前で声が出なくなった。

 彼女の顔を見ることでまたあの映像が脳裏を過ったのもある。

 でもそれ以上に……彼女の決意を崩すようなことは絶対に言ってはいけないと思った。


「絶対行くよ」


 代わりに彼女の目を見てそう言った。映像を振り払うかのように少し強めに。

 それから酷い脱力感を得る。今日はもうダメだ。

 それから背中を向けて志穂にさよならを告げていた。志穂は何か言いたそうな顔をしていたけれど何も言わずに済ませてくれた。

 正直助かる。そうしてくれないとダメになりそうだった。

「……」

 彼女に背を向け家の中へ入ると閉めたドアに背中を預ける。

 閉じたドアは玄関をやたらと暗くさせた。

 どういった経緯で外から入ってきたのかわからない日の光はほんの僅かにある。けれど気休め程度の存在で玄関内をはっきりと綺麗に照らしてはくれない。

 そんなわずかな光をぼんやりとみながら耳をすませる。

 外から聞こえてくる志穂のバイク音が段々と小さくなって、完全に消えてなくなる。

 そのタイミングで今度は目を閉じてみる。

 この薄闇の。雑音のない空間で再生させてみようと思ったのだ。

 初めて会ったときのの声と表情を。



 ***



『こら。ちゃんと挨拶しなさい』


 小学校の入学式。初めてその人に会った。

 その人はの後ろに立っていた。

 出会って最初に私の方から挨拶したのに志穂が無反応だったから、その人は志穂を叱っていたのだ。

 まだ小さかった志穂はきっと緊張していたんだと思う。

 それでその人から背中を押されたことでようやく私に挨拶することができた。きっと私に向かって、初めましてって緊張しながら言ったんだと思う。

 でも当時の私は目の前にいる志穂なんて少しも目に入らなかった。

 私の視界も耳も。全てがその人に向けられていたのだから……。


『初めまして』


 私を見下ろすが微笑む。

 長い黒髪と柔らかな笑顔。

 春の青い空と日差しの中、光を纏うそれは私から三秒という時間を奪っていた。


 越えられなかった憧憬。

 ずっと忘れなかった入学式の記憶。

 そして忘れようとしていた……私の初恋。


 忘れることなんて無理だった。

 成長した志穂を見る度にその片鱗が出てきた。

 志穂の横顔が。その仕草が。その綺麗な黒髪が。

 志穂の存在全てが消した初恋を思い出させようとしてきた。

 何度もそれに目を背けてきたのに。それでも完全に消すことはできなかった。

 そして今日――全てを思い出した。

 クラスにいた男の子なんかじゃなかった。

 初めて私の時間を止めて、

 初めて目を奪って、

 初めて心を奪ったのは、


 ――美穂さんだったんだ。

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