第9話(戸田自転車商会編)
「また急だな。おい」
たった今助手席に座らせた砂羽からそんな愚痴を飛ばされながらも、俺は気にせず車を走らせる。向かっているのは後ろで寝ている泉の家だ。
「仕方ねーだろ。鈴木と別れてから泉の家に同居人いるって思い出したんだからよ」
「あたしだって忙しいんだけどなー」
よく言うぜと、誰もいないバッティングセンターで一人笑いながらテレビ観ていた姿を思い出す。連れ出したところで何も問題はなかったはずだ。
「泉の家憶えてるか?」と前を見ながら後部座席に寝転ぶ泉を親指で差す。
「そりゃあ学生ん頃何度も行ったからな。まさかお前忘れたのか?」
「正確な住所がわかんねーんだよ」
トントンとナビの画面を左手の人差し指で打つ。長いこと
「さや香のバッグから免許証か保険証取り出せばいーだろ」と言いながら砂羽が代わりにナビを操作する。
――いや、友達でも勝手にそれをやるのはダメだろ。
砂羽の提案に呆れるが何も言わずに車を走らせる。ついてきてくれて正直ホッとしているので何も言わずにおいた。俺一人で泉の同居人と顔を合わせることを考えれば砂羽の存在はとても頼もしい。
泉に恋人がいるとは聞いてはいたが一度も会ったことはない。
知り合いならまだしも俺みたいな見知らぬ男がいきなり酔いつぶれた自分の彼女を家まで運ぶのを見れば、相手はいい気分はしないはずだ。
「ほい完了」と砂羽の入力が終わりルートの案内が始まる。住所入力をする指が止まることがなかったことから、記憶は少しも欠けていなかったようだ。
そしてさっき鈴木と一緒に入った焼き肉屋の看板を目にする。砂羽のバッティングセンターから近い方ではある。
「そういえばあそこ。相変わらずうまかったぞ」と『ありえんなぁー』の灯りのついた看板に指を差す。
それがまずかった。
砂羽の首が勢いよくこちらへ向くと声を荒げた。
「そういえばお前! なんであたしも誘ってくんねーんだよ! すげー行きたかったのに!」
「え、いや、誘おうとは思ったんだが鈴木来たから」
「そこでなんだあたしはいいやってことになるんだよ! BLかお前は!」
砂羽がキレだす。意味がわからん。
「よくわからんがそういうわけじゃ――」
「そういうわけだろ!? お前40オーバーの独身女が一人バッティングセンターの事務所でメシ食うのがどんだけ寂しいか散々言っただろーが!」
そういえばそんなこと聞いたなと、うっかり巨大地雷を踏んでしまいギャーギャーと非難される。うるせーめんどくせーとうんざりしているところで後ろから「うるせーなー」と声がした。
「――お? 起きたかさや香」と怒りを忘れた砂羽が後ろを向く。釣られるようにバックミラーを覗くと「あぁー」とか言いながら泉が起き上がった。
「……やっぱり砂羽か」
「そうだよあたしだよ」
「あれお前……夜なのにお水じゃねーじゃん」
「いつの話してんだよ。今は月一か二ぐらいしか出ないって」
「おばさんだから出番なし?」
「あぁ?」とキレそうになる砂羽をなだめる。泉は砂羽の怒りに全く気づかないまま「あ、そうだ。テレビ観たぞー」と呑気に話す。
それで思い出した。つい最近砂羽のスナックがテレビで紹介されたのだ。
昭和の古き良きスナックということで全国区の夕方ニュースで取り上げられたのである(俺も観たし録画もしてある)。
取り上げられたと言っても
「お前相変わらずダメなんだな」と泉に笑われ「うるせーな」と砂羽が返す。ちなみに雄二達は過去にも地元のテレビに出たことがあったせいか二人供緊張なく話せていた。
「それで――そこにいるのは大吾か?」
「ああ」と言うと泉が俺達の座席の間に顔を出してくる。運転席の座席に肘を置いたのか重くなった。
「久しぶりだな」
凛とした声に懐かしさを感じる。
「そうだな――」
本当に久しぶりだった。
鈴木と同じくらい泉とは会っていなかった。そして酒臭ぇ。
「――その久しぶりがお前の送迎とは思わなかったよ」
「やっちまったよ。久々に酔った」と泉は頭を抑える。
「頼むから吐くときは早めに言ってくれよ」
「それよりなんか背中痛い。頭も殴られたみたいに痛い。蹴って押されたような感覚もする。なんでだろ?」
さっき仰向けに倒れたのは少しも記憶にないのか。
「あと志穂がいないぞ。そして今更だけどなんでお前らに送ってもらってるんだ?」
「ほんと今更だな」と砂羽が呆れる。相変わらず酒に弱いのは変わってない。
「鈴木の娘なら鈴木と一緒に帰ったよ。帰り道にお前が倒れてたところを偶々俺と鈴木が見つけたんだ」
「それで送ってくれてるってわけか……」
「お前一人じゃ絶対帰れないだろ?」
「なるほどねー」と頷く泉に「なあお前――」と砂羽が呼ぶ。
「――志穂と二人きりのときは飲まないって言ってなかったか?」
そう言われ、「あー……言ったな」と泉はバツが悪そうに頭を掻く。
「お前弱いんだから二人だけのときは飲むなよ。帰り道未成年に介護させるのはかわいそうだろ?」
スッと泉が離れる。バックミラー越しに見てみるとまた仰向けに寝転びだした。
「いや弱くないし」
「いや弱いだろお前。昔っから真っ先に潰れてたじゃん」
砂羽の言う通りだ。酒の強さを順で表すなら鈴木、砂羽と俺、富岡、泉の順となる。
ちなみに鈴木は滅多なことで酔いつぶれることはない酒豪だ。
「……飲まずにいられなくてさ」
そう静かに吐き出され、少し引っ掛かった。
「――なにかあったのか?」
聞いてみる。鈴木の娘とは確か進路の話をするとかいってたはずだ。
「んー……」とハッキリしない声。その後は黙る。
赤信号で停止してから少し後ろを振り返ってみる。天井を見上げながら前髪をいじる泉の姿が見えた。
さっき車の中へ運んだときにも思ったが、知らない間に泉は髪を伸ばしていた。
以前会ったときも学生時代もいつも短かったのに今は大分違っている。
服装といい今の泉には……違和感を持つ。
青信号になったので前を向く。その後に「あの子さ――」と泉の重い口が開いた。
そしてそこから出たものは進路とは関係ない話だった。
「――好きな人できたんだって」
フッと、冷たい息を吹きかけられたような感覚がした。
ナビの案内も車の走行音もしなくなる。音がさらわれたかのように車内が静まり返った。
「最初は進路の話をしようと思ってたんだ。でも玄関で一年振りに顔みたらさ。すぐに気づいちゃった」
そこで少しの間を置いてから「――どんどん綺麗になってくんだあの子」と話す。
「……」
「――それで?」
尋ねた砂羽だけがいつものペース。動揺したのは俺だけか。
「なんて言ったんだ?」
……違うと思った。
砂羽の声には少しばかり怒りがある。
「……簡単に手は出させるなよって注意した。それだけだよ」
「本当にそれだけか?」
「うん……」
車内の空気が一瞬で張り詰めた。
返事した泉の口が先ほど軽口を叩いていたとは思えないほどに弱々しくなる。
「さや香――」
「言うな」
砂羽のうんざりしているようでいて鋭利な声を「わかってるよ」と泉が防ぐ。
「わかってない」
「わかってるって」
「あの子に美穂を重ねるのはやめなよ」
声の鋭さは少しも衰えなかった。
「……」
やめろと言えなかった。
泉に向かったはずのその声が俺にも通ったせいだろうか。
「わかったふりしてるだけで、わかってないよさや香は」
「……」
砂羽の言葉に何も答えない泉が気になった。また赤信号になって後ろを見ると泉は寝返りをうってこちらに背中を向けていた。
それからずっと黙った。しばらくしてから何か言うかと思ったがそれきりでしまいには寝息が聞こえてくるようになった。
「寝やがったこのバカ」と砂羽。
ため息をつく砂羽の隣で俺は何も言わなかった。
そんな自分が卑怯だなと思った。
――変わってねーな。
暗くて久し振りでも泉の家だとわかる。
頭の中へこびりついている家の形は学生時代から変わっていない。その懐かしい景観は周囲の家と共に明かりを灯して佇んでいた。
砂羽がインターホンを鳴らし、隣で俺はグースカ寝ている泉を背負う。泉はあれから深い眠りに入ってしまった。そうなるとこいつはちょっとやそっとのことでは起きない。
インターホンに出てくれた同居人は事情を説明するとすぐに出てきてくれた。
「すみませんと」と謝るのはメガネを掛けた女性だった。
「……」
長い黒髪と落ち着いた静かな声。
利発そうな顔立ちなども含めて清楚な印象を与える。
――雰囲気が富岡に似ていると思った。
「今日は飲まないって言ってたのに……」
俺の背中にいる泉を見てため息を吐く。俺の視線にも気づかないほど泉のことを心配するその眼差しには真剣さが窺える。
「どこに寝かせればいいかな?」
砂羽が尋ねると泉の寝室まで通してくれた。
過去に何度か行ったことがあるとはいえ、
「……」
家の中へ足を踏み入れた瞬間から違和感を持った。泉の部屋の場所は憶えてはいるものの、なにか違うような気がしてならない。
まるで初めての家に入ったかのようだった。感じた匂いだけでなく目に入るものには懐かしさを感じられない。まるで家の中だけが別ものになっているように思えて、室内のどこを見ても泉の家と思えなかった。
「――ご迷惑をお掛けして本当にすいません」
泉を無事に運び終えた後、玄関で深々と頭を下げられる。少し困惑した。
「慣れてるし大丈夫だよ」
砂羽はいつも通りな感じでそう言うが、それでも彼女の暗い顔は拭えない。フォローするように「気にしないでくれ」と言うが効き目はなさそうだ。
頭を下げて見送る彼女と泉の家を後にし、車を走らせてバッティングセンターまで向かう。
「久々に会ったな」
大通りに出てから砂羽は話し出す。何度か面識があるとは言っていたけれど、頻繁に会うような仲ではないようだ。
「若かったな」
「まだ20代だからな」
「そんなに若いのか?」
驚いた。落ち着いた雰囲気のせいかもう少し上に見えてしまった。
「落ち着いてるからな。初めてあったときからあんな感じだったんだよ。そのせいかあたしよりも年上に見えちまう」
そりゃお前と比べたらみんなそう思うだろうなと思ったが、それは言わないでおく。言えばはしゃいで調子に乗るのは間違いない。
「なあ――」
そして赤信号で停まったタイミングだった。
「ん?」
「さや香のやつ。いつまで美穂のこと追うつもりなんだろうな」
「……」
言葉に詰まった。
ハンドルを握る手がクッと少しだけ強くなる。
「……美穂が死んで志穂の母親代わりになるって決めて、それでやめたはずなのに。いつの間にかまた復活してやがった」
ひとり言のように話す砂羽の声が車内に残る。
言葉に詰まったとはいえ、それをまた聞いているだけで流そうとする。
そんな自分に嫌気が差した。
「……鈴木の娘を見てそうなっちまったんだろ」
泉がそうなってしまう理由はそれしかない。
「そっくりだもんな」
無理もねーかと、砂羽は窓の外に顔を向ける。
「泉も――」
そう言いながら、頭の中でこれは余計なことだと思った。
それでも……それでも傍観者を装いたくなくて口に出す。
「――俺と同じなんだよ」
ハンドルを握る手に力を込めながら、真っ直ぐ前を見て言う。
「……」
砂羽がこちらを見たが、すぐにその視線は窓の外へ向けていた。
それから砂羽は到着するまでずっと黙っていた。
「――ほら、着いたぞ」
バッティングセンター前で車を停めると「ああ」と言って砂羽は何事もなかったかのように車を降りていく。
「じゃあな」
「ああ」
「――今日はありがとな」
ドアを閉めて去って行く砂羽の背中に、やや遅れて礼を言う
「……今度はあたしも誘えよ」
振り返った砂羽の顔は暗くてよく見えない。
「ああ、わかってる」
「絶対だぞ?」
それに約束して砂羽と別れる。
そして家に帰り着いた頃、玄関の戸に手をかける寸前でスマホが鳴った。
なんとなく砂羽だと思った。
『もう気にすることないんだぞ』
既読と表示されたその文をじっと見つめる。
別れる前の砂羽の顔。
暗くても、何かを言いたそうにしていたのはわかった。
「……携帯って、ほんと便利だよな」
皮肉った声が静かな空気の中へ入り込む。
バカ息子は早い時間帯に寝てしまったのだろうか。玄関前にいるとはいえ、自分の家がとても静かに感じる。
返事に迷って、何も送らない既読スルーってやつを選ぶ。
そうしてなにもしないからスマホの画面が消える。黒くなって画面に真っ黒な自分の顔が映り出す。
――それは無理なんだよ。
心の声を砂羽には送らないまま黒いスマホをポケットに入れて家の中へと入る。
ポケットの中にあるスマホはまるで服の上から体に張り付くかのように、俺を締め付けていた。
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