第10話(綾編 前編)
……ダメだ。
眠れないと観念してパチッと目を開ける。
二度寝を目指すこと30分。うつ伏せ横向き仰向けと体勢を変えてみても眠気へ向くよりも覚醒へと傾くだけだった。
予定していた起床時刻はまだ大分遠いけどムクリと起き上がる。このままダラダラするのは体が嫌った。
ボンヤリ感のない頭。しっかりした足取り。起き上がった体は今までにない爽快感を持って真っ直ぐな足取りで洗面所へ進んでいく。
顔を洗った後鏡の中の私と向かい合う。目がギラギラと輝いているのを見て、これで二度寝を試みるのは無謀だと思った。
シーンとした暗い台所へ行ってもお父さんはいるわけもない。今日はおやすみなだけにいつもより遅めの朝になるはずだ。
グーッとお腹が鳴る。
「……」
とりあえず朝ごはんを作ることにした。
「ふう……」
早すぎる朝ごはんの後、カフェオレを飲んで一息。
一人だけのリビング。静かな時間。それに加えてこの暖房の温かさ。とても居心地がいい。
――のはずなんだけど。
いつもならボンヤリしてしまう時間が今朝だけ違っている。
「……」
体がボンヤリをしようとしない。テーブルの脇に置いたスマホを何度もチラ見しているせいだろう。
真っ暗な画面はまだ何も映さずに完全な沈黙を守っている。
昨日の夜に設定した目覚ましアラームですらまだその役目を迎える時刻ではないから当然だ。
寝坊しないように二つもかけていたというのに必要なかった。
さあどうしようと頭を抱えたくなる。
愛海との待ち合わせ時間までは大分時間がある。
とりあえずベランダに出てお花を見てくる。でも日頃から手入れはしているのでやることなんてないからすぐに終わってしまった。家のお掃除も念入りにやった昨日の記憶は忘れるはずもない。
部屋に戻る。お父さんもまだ寝ているのだから大人しくしていよう。
――もっと趣味を作った方がいいかも。
暇だし何かないかと考えてみる。散歩に行ったりお花を育てたりはしているものの、どこでもできる趣味もあった方がいい。
愛海が最近レトロゲームにハマったのを思い出す。携帯ゲームなら家でも外でもできるから挑戦するのもありかもしれないとArujan《アルジャン》を開く。
……高い。
色々と見て回っておそろしいことに気づく。ゲーム機ってこんなに高いんだ。しかも人気のゲーム機は定価以上の値段が付いてる。こんなもの誰が買うのかと尋ねたくなるぐらいとても手が出せる金額じゃあない。
これが郁美の言っていた転売ヤーの闇……。
スマホを閉じる。ゲーム機は陽菜か郁美に頼んで借してもらおう。
そのタイミングでようやく一つ目のアラームが鳴る。
でもまだ早い。ゲームは無理でもせめて本でも買っておくべきだった。
やることもなく、なんとなく化粧台に座る。鏡の中の自分と向かい合っては上を向いたり下を向いたり横を向いたりしてみる。
洗面所でも確認したけど顔色はすごく良い。体調だって良い。むしろ良すぎるくらいで昨日の夜10時に寝た結果は体全体に表れている。
――ただ、寝た感覚がしない。
なにしろ目を瞑って5秒くらいで目を開けたらもう朝だったのだ。
これが本当の熟睡というやつなのか。昨日はすごく疲れていたわけでもなかったのに不思議な睡眠だった。
……寝坊して慌てるよりはいいか。
もう早目に行ってしまおうと思った。
もしかしたら支度に色々と手間がかかるかもしれない。電車の遅延とかもあるかもしれないし余裕を持って出ようとクローゼットの中を開ける。
予想は早くも当たる。服装に困った。
年明けのセールで買った服があるから前日はこれでいいかと思っていたのに、なぜか鏡の前で何度も着替えてしまう。あれやこれやと着替えること5回。結局最初に着たやつで落ち着いた。
――自信を持とう。
一緒に服を買いに行った際、陽菜がカワイイって言ってくれたのだ。だから自信を持って行く。大丈夫。いける(何が?)
お化粧も念入りになりそうなので簡単に済ませ、忘れ物がないかと何度も確認してようやく準備を終える。
あとはお父さんに見つからないように家を出るだけ。
何も悪いことはしていない。でもなぜか見られるのが嫌というか恥ずかしいのでコソコソ移動する。まるで盗みに入った泥棒のようだ。
「――おはよう」
おしい。玄関まであと少しというところだった。挙動不審だと思われないようにクルッと振り返って返事する。平常心平常心と心に言い聞かせながら。
「おはよう」
珍しく早起きのお父さん。少し寝癖がついてる。
「遊びに行くの?」
「うん。ちょっとね」
「……」
「……」
何がちょっとなんだろうと思って時が止まった。
「――朝ごはん冷蔵庫の中にあるから」と慌てる。
「……ありがとう」
絶対おかしいと思ったはずだけど、お父さんはスルーしてくれた。ありがとうと心の中で感謝しながら「それじゃあ行ってきます」と玄関へ向かう。
「気をつけて」
背中に言われる。振り返らないまま「うん」と言って靴箱から靴を取り出す。
「――あ」
そこで気がつく。
この服にこの靴って合うのかな……。
どうやら行ってきますを言うのはまだ早かったようだ。
「……着いちゃった」
驚くほどスムーズに。
今までにない快適な道のりだった。
歩行者信号は全て青。電車は駅のホームに辿り着いたと同時に滑り込んで扉を開けてくれるし、車内に人は全くと言っていいほどいない。遅延も発生しなかった。
……初詣に引いたおみくじが効いたのかな。
陽菜、郁美、真帆の四人で初詣に行った際、私以外の三人は凶で私だけが中吉だった。
その効果が今出ているとなると出過ぎていると思う。おそらく明日はランクダウンして凶になる。明日以降は気をつけて外出しよう。
――さて。
スマホの時計を確認し周囲を見渡す。まだ九時にもなっていない休日の駅は人気が少ない。ここであと一時間半も待つわけか。
……なんだろこれ。
すごいソワソワしてしまったせいでこんな時間になってしまった。
無事に着いたというのに今もどこか落ち着かない。変なところはないかなともう一度服装をチェックする。
いつからこうなってしまったのか。前日の夜、いやその前からカレンダーを何度も確認していた。
明らかに陽菜と待ち合わせるときと違う。違い過ぎている。
目の前を歩く人百人にアンケートを取ったらなんて答えられるだろうか?
よしやってみようなんてことはないけれど、きっと百人近くの人がこう答えるのではないかと予想する。
その子のこと大好きなんだね。
……それは。
それはどっちの好き?
結論を出していいのだろうか。
ハッキリとしているように見える……。
でも迷ってしまうのは、あの光を手にしている感覚がないから。
だからまだ、わからない。
「……」
少しの間、悶々としていた。
駅の改札口前の壁に立つこと30分。ようやく九時になった。あと一時間。
――いやいやいやいや!!
ようやくあることに気づき慌ててその場を離れる。
普通に考えたら待ち合わせ場所に一時間半も前からいるっておかしい。万が一誰かに見られて愛海に知られたら引かれそうだ。
この場から一刻も早く逃げ出そうと適当な方角へ歩く。でもまだ九時だから近くの本屋もハナコ電機も開いていない。
とりあえず駅の周囲を散策しようと決める。
そのときだった。
「え?」
見覚えのある人影を発見し、思わず声が出て体が止まる。視線の先には改札口近くにある待合室のベンチ。
そこにまさかの愛海がいた。
幻か他人の空似かと思ってガン見する。
……間違いなく本物だ。
ガラス窓に囲まれた中。並ぶベンチのひとつに座った彼女はスケッチブックに鉛筆を走らせている。絵を描いているようだ。
慌ててスマホを確認する。いつの間にか10時になってたなんてことはない。待ち合わせ時間まではまだ一時間もある。
……位置的に改札口の絵を描いてるのかな。
愛海はここからでもわかるほどの真剣な顔つきをしている。こういうときの愛海は周囲のことには一切気づかない。ジッと見ている私の視線なんて微塵も感じていないようだ。
なんでこんな時間から?
……いや、それよりもいつからここに?
位置的に私がさっきまでいた場所は死角になっているから愛海に見られてはいないはず。気づいていたとしたら声を掛けるだろうし……。
――行こう。
こうしているのもなんだし近づくことにした。抱いた疑問は全て彼女に聞いた方が早いと真っ直ぐ歩いて待合室へと入る。
「――んお?」
愛海は私が目の前に立つことでようやく気づいてくれた。
「え? 綾?」
「おはよう」
意外な人を見るその顔。こんな時間に私がいるなんて思っていない顔だと確信を持つ。さっきからずっとここにいたことはバレてない!
「早いね」と私の胸中など知らない愛海はいつも通りだ。
対する「うん」と頷く私はどう映っているだろうか。
心臓が少し早歩き気味。
でも表情はいつも通りを貫けているはず!
「まままま愛海こそ早いね」
「なんで噛んだ?」
「……寒いから」
「……ここ座って温まりなよ」
そう言われ彼女の隣に座る。待合室の中暖房効いてるからあったかーい。
そしてもう一度トライ。
「愛海こそ早いね」
「お父さんが朝早くから出掛けるからってことでついでに送ってもらったんだよ。待ち合わせ時間まで一時間早いけど。絵の続きでも描いてりゃいいかーって思って」
以前からここで絵を描いてたなんて初耳だ。
「見てもいい?」
「いいよ。まだ途中だけどね。でも結構な自信作だから。余りの出来栄えに腰抜かしても知らないよー」
自信満々に笑う彼女から少し小さめのスケッチブックを借りて覗く。
中にあるのは世界遺産の厳島神社だった。
……しかもものすごいクオリティ。
「……駅の改札口を描いてたんじゃないの?」
「え? なんで?」
「だって改札の方向いてるから」
「いや、そういうわけじゃない。ここに座ってたのも
「……なるほど」
「ところで綾はなんでこんなに早いの?」
しまった! と思わず叫びそうになる。
何も考えずに彼女の隣に座ってしまったことを今更後悔する。もうどうしようと思っている時点でかなり遅い。
とはいえ、正直に一時間半前から楽しみで来ちゃったなんて言えば……ドン引きされそうだ。
「あっ、わかったぞ――」
そう追い打ちをかけられる。ドキッと心臓が跳ねた。
「――楽しみで早めに来ちゃった感じだな?」
こっちを見て、ニカッと笑う。
「……」
小さないたずらっ子のような微笑み。
それに今度は……違った意味でドキッとしてしまう。
そのせいかコクリと頷いていた。
「そんな……感じ」
口から出たものはごまかしの欠片もない。
こっちを見て愛海が笑った。
ただそれだけ。
ただ……それだけで。
焦りも。ごまかそうとする気持ちも。綺麗になくなっていく。
いろんなものを吹き飛ばすような笑顔。
前に出されてしまえば、もうそう答えることしかできなくなった。
……もう一回。笑ってくれないかな。
心の奥底でそう願っている。
決して彼女に届かない声を自分でも気づかない内に奥底で鳴らしている。
「誰かさんと違って素直だね」
当然そんなものが届く訳もなく、愛海は満足そうによろしいと頷くだけだった。
「……志穂のこと?」
「そ」
「志穂って素直じゃない?」
「妙なところで素直じゃないんだよこれが」
「意外」
いつもハッキリと自分の意見を言っているように見えた彼女にそんなところがあるとは思わなかった。
「まあ
スケッチブックをリュックに入れた愛海が立ち上がる。座ったままの私の前へ立つと手を差し出す。
「――私も楽しみにしてたよ」
同じ素直で答える。
「少し早いけど行こうか」
うんと頷いてその手を取る。
立ち上がって彼女を見下ろし、私を見上げる彼女の瞳と繋がる。
それがスイッチになったのか、繋がる手が違和感を持つ。
それが胸の奥を揺らしてくるのか、ドキドキと揺れる音を感じる。
どこへ行くんだろう?
でも、その疑問は一瞬で消える。
どこだっていいんだ。
「そこらへん散歩しよう」
だから自分からそう提案する。
以前とは逆に彼女の手を引っ張って歩いていく。愛海とならどこだって楽しめる自信があった。
まだまだ揺れる胸の奥で音が鳴っている。
そのせいか歩く足が安定していない。大丈夫かなと別の意味で不安になる。
でもそれでもいいかと笑っていられる。
嬉しい不安ってものがあることを今になって知る。
「こんなことならさ――」
愛海が足を伸ばし、前を歩く私の隣に並ぶ。
「――待ち合わせ時間九時にすれば良かったかもね」
手は繋がったままで、アハハと笑いながら言われた。
「ほんとだね」
合わせて私も笑う。
――でも本当のところは笑えないのである。
……だってそうすると、今度は八時になっちゃうから……。
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