最終話(陽菜と綾編)


 ――来た。

 マンションのエントランスホールから綾が出てくる。アタシに気づくとパーにした右手をひょいっと上げた。

「よっ」

「よっ」と、アタシも同じように返す。

 綾の新居生活がスタートしてから一週間が経った。世間はクリスマスの装いがあちこちに出ているけれど、感じる気温や見上げた今日みたいな空の青さにはまだまだ秋の色が強い。

「乗りなよ」

 ポンポンと自転車の荷台を叩く。二人乗りをする為に今日はマウンテンバイクではなくて家にあるママチャリを(勝手に)借りてきた。

「お願いします」

 そう言った綾を後ろに乗せ、さあ行くぞと自転車を軽快に走らせる。

 ――目的地はあの家だ。



 昨日の夜。綾を遊びに誘おうと連絡したらあの家に用事があると言われた。

 残念! と、ガッカリテンションに一瞬落ちかけたものの、それが終わってからなら喜んでと返信がきたのでテンションは一気に跳ね上がる。

 そして『一緒に来る?』とも言われ、ついていくと即レスしてアタシはこうして自転車を漕いでいるのであった。

 あの家に行くから綾を心配してついていく。というわけではない。

 というかもうその必要がない。

「――すぐに終わる感じ?」

 前を向きながら話し掛ける。

「10分くらいかな」と話す彼女。

「そう――」と言って、しばらくは無言で自転車を漕ぐ。そして信号もなく、車通りの少ない静かな住宅街へ入ってから尋ねてみる。


「――心残りはないの?」


 今日必ず聞こうと思っていたことだった。


「この後なくなるよ」


 軽快な、早い返事にそっかと納得して終わる。

 嘘だと思わなかったのは、彼女の変化を見てきたから。

 引っ越してからの綾は新居の周りを一人で散歩しながら、コンビニやスーパーの位置を確認しに行ったり、引っ越しの挨拶へ行ったりと積極的な行動を起こしている。

 この前は一緒に新しい生活用品を買いに行った帰りに、偶々見かけた花屋に寄って花の苗を買っていた。


『ベランダで育ててみる』


 そうやって新居での新しい生活を楽しもうとしている。

 何かに怯えたり。アタシ達にわからないようにそれを隠そうとしているようなところは少しも見えてこなかった。

 だから彼女はもう大丈夫なんだってことがわかった。

 愛海が泊まったあの晩。二人の間にどんなやりとりがあったかはわからない。

 でもそのときにきっと、綾は前を向く決意をしたんだと思う。

 そしてこれから、それを実行しに行くのだ。


「――そういえばさ」


 その前にちょっとした事件が起こる。

 もう少しで彼女の家へ着くというところだった。

 突然綾が口を開き、なんの防御策も練っていないアタシは「んー?」と前を見ながら気の抜けたような返事をする。


「陽菜ってお姫様抱っこされたことある?」


 グサッと、いきなり背後から心臓をつまようじで突き刺したかのような威力だった。聞いた瞬間体全体へ警戒アラームが響き渡ったのは言うまでもない。

「ふぇっ?」と、思わず変な声が出る。

「……えっと……ないけど?」

 自分でもわかるくらいの明らかな動揺に綾は「ふーん。そうなんだ」と普通に返す。


 どして急に?

 ……もしかしてあのときのこと憶えてるのか?


 急にハンドルを握る手が熱くなってくる。

 いや、あのときは気を失ってたから絶対憶えてないはず。

 え、もしかして誰かゲロった?

 欲羽山で一緒だったメンバーを一人ずつ思い出す。口止めしたはずだから大丈夫な――。

 大欠伸をしてにゃむにゃむする志穂のまぬけヅラが脳裏をよぎった瞬間。アタシの大丈夫は一瞬で崩れ去る。

 あわわわと口が震える。いい忘れていたことを今更思い出した脳みそはこの前志穂と綾が一緒に帰った話も思い出させる。


 ――そのときバレたか?


 じんわりと、手の内に汗がにじみだす。

「……な、なんでまた?」

 記憶の再生はあっという間でも判断力はものすごく悪い。そのまま黙って自転車を漕いでいればいいものを、冷静さを欠くアタシは自ら罠に向かうような選択肢を選んでしまう。


「いや、そうされるのってどんな気分なのかなーって思って」


 こっちの気も知らず綾はいつも通りの自然ナチュラルな返事。

 あのときの記憶はないから、人づてに聞いてそれが気になって尋ねたということか?

 ……やった本人であるアタシに?

 いや、まて……もしかしたら違うかも。

 たまたま漫画かなんか読んでそれで気になったとか?

 それならなぜアタシに? このデカイ体でされるわけないだろ。

 てかそれ、別に今はどうでもよくない?

「まあ、どーでもいーじゃん。そんなこと――」

 まだまだ混乱が続いている頭はまたもや地雷を踏んでしまう。

 言った後になって、そこは「ふーん」だけで締めて後は無言でチャリ漕いで綾の家に着いて「はい着いたよ」の終わりで良かったじゃんかと、心の中で自分につっこんだがもう遅い。

 落ち着けアタシと冷静さを求めれば求めるほど冷静ではいられなくなるところまできていた。その証拠に手汗が半端なくなってる。ビチョビチョだー。

「いや、どうでもよくなんかないよ」

 ちょっとお怒り気味に声を上げる綾にアタシの背中はビクッと反応する。

 そして平然とトドメを刺してきた。

「だって私生まれて初めてのお姫様抱っこが陽菜だったんだから。記憶はないけど大事にしないといけないでしょ?」

 やっぱりバレてらぁ! と、頭の中で何かがガラガラと崩れ去る。

「――ち、違っ! あ、あれは!」

 綾の記憶からそれだけを消去する方法をネット検索したいという無茶苦茶な思考を働かせながら、バッと後ろを振り返る。

 そして彼女と目を合わせた途端。いきなり頭の中に熱いスープでも入れられたかのように一気にカーッと頭が熱くなって、オーバーヒートで思考が停止した。

 ――その結果。

「前前!」

「え!?」と、綾が指差した先を見る。ゴミ置き場にある『ごみはキチンと分別しましょう』の看板の文字が目に飛び込んだ。

「あ! ちょっ! ムリ――ゲブシ!」

 慌ててブレーキを掛けたが、手汗で滑ってかけられず。ズガーン! と、グレーのポリバケツとゴミ袋の山へぶつかりアタシ達はバラバラに倒れた。

 チチチチと車輪の回る音。

 辺りに散らばったゴミ袋。

 そして目をグルグル巻きにしたアタシと綾は青空を見上げるような形で二人仰向けに倒れていた。

 そして最初に「アハハハハ」と綾の笑い声を聞く。それに釣られてこっちもおかしくなってきて「クハハハハハ」と笑ってしまう。

 とはいえノーダメージ回避なわけがなく「アイタタタ」と腰をさすりながらアタシは立ち上がった。おかしすぎて笑ってしまうけど結構痛ぇ。しかもなんかよくわかんない涙出てきた。

「アハハハハ。陽菜……ハハハ……ゲブシって何?」

 上体を起こして道路に座る綾が泣き笑いながら尋ねる。

「アタシが知りたいよ……いててて」

 こんなところ誰かに見られたらと周囲に目を光らせるとぶち猫と目が合った。こっちをボー然とした顔で見ている

 ――お前なら許す。

 よし行けと手を振る。猫がそそくさと去って行くのを見送ってから綾に手を差し出した。

「あーいてー。綾が変なこと言うから事故ったじゃん。ゴミ捨て場だったから良かったけど、これ一歩間違ってたらアタシら死んでたって」

 アタシの手を掴んで立ち上がる彼女はまだ笑っている。

「あーお腹いたい」

 そしてまたアタシも思い出してしまい二人でハハハハと笑い合う。

「――って笑ってる場合じゃない。ほら、片付けるよ」

「はい」

 幸いなことに一袋も中身が破けなかったとはいえ、二人で服を汚しながらゴミ袋を片付ける。こんなことしてる令和のJKなんて全国でアタシらぐらいだろう。

 パッパと片付け、ようやくアタシ達は綾の家に辿り着いたのだった。



「――待っててね」

「ごゆっくり」

 玄関を開け、中へ入って行く綾の背中を見送る。アタシは門の外で待つことにした。

 待っている間、この後二人で行こうと考えている喫茶店のメニューをスマホで調べることにした。愛海から聞いた『三時に夢中』という店は噂で聞いた通りの豊富なスイーツメニューにリーズナブルな値段設定だ。

 ――おかげで迷う。

 さてどうするかと考えていると、閑静な住宅街にバイク音が響いてくる。

 ――ん?

 音のする方を向くと見覚えのあるバイクを発見。顔がヘルメットで覆われているとはいえ、一発で志穂だとわかった。そして後ろに愛海が乗ってる。

 志穂がこちらに気づいたのでバイクが減速する。そしてアタシの前で停止してエンジンを切った。

「おいっす」と、ヘルメットを脱いで志穂が挨拶。

「よっす。二人供」

「ここに陽菜がいるってことは――」とゴーグル付きのヘルメットを被る愛海が家の方を見上げた。

「綾もいるよ。家の中」

「なにか忘れ物?」

「そう。二人はなんでここに?」

「スイーツ食べにいくところ。その前にいろいろ寄り道してたからこのルートになった」

「スイーツ? どこの店?」

「この前話したところだよ。新しくできた三時に夢中ってところ」

「お、偶然。アタシ達もこれからそこに行くんだよ」

「なに?」と、愛海がバイクから降りる。

「この前話したときは冷たい反応だったじゃん」

「え? そうだったっけ?」

 さっぱり憶えてない。

「そうだったよ。ふーんって言ってその後はノーコメントだった。それで私達を差し置いて今日綾と二人で抜け駆けしよ――ってあれ?」

 そこで愛海が何かに気づいたいのかアタシの体を見て首を傾げる。

「なんか汚れてない?」

「う……」

 しまったと、今更さっきのことを思い出す。

「ホントだ。よくみるといろんなところがボロボロ」と、いつの間にかバイクから降りた志穂もジロジロとアタシの後ろまで見回す。

 ああー! 言いたくねぇ!

 けど咄嗟とっさの打開策など思いつくわけもなく、観念して「実はさっきさ――」とため息を吐きながら正直に話す。もちろん綾の所為だと強調して。

 当然二人は大笑い。ギャグ漫画かと言われて恥ずかしくなった。


 そこで、ガラッと窓の開く音を聞く。


「おーい」

 綾の声を聞いて、その方を向く。

 おばさんの部屋がある窓だった。

 綾はそこからアタシ達を見下ろしている。

「お、綾だ」と愛海が手を振るのに続いて「終わったのー?」と尋ねる。

「うん。もう終わったよ」

 そう明るい声が返ってくる。本当に10分くらいだった。

「じゃあこいつらも入れて街へ行こうか」と、これからのことを勝手に決める。

「名案だそれは」と志穂。

「ってなわけで早くおりておいでー」と愛海。二人供大賛成。

「今行くー」

 そう答えて、窓を閉めると彼女の姿が消えていく。


 ――何て言ったのかな。


 閉じられた窓の向こう。あの部屋で彼女は最期にどんな言葉を投げたのだろうかと、少しだけ気になった。

 ――けど、すぐにそれを取り払う。

 そして戻って来た綾を何て言って迎えようかと考える。

「……」

 玄関のドアをジッと見つめる。

 あそこから出てきた彼女がお待たせと言いながら軽い足取りで戻ってくるのを想像した。


 そして笑顔を見せてくれるに違いない。


 ずっと手にしていた執着を捨て、別れを済ませた彼女。

 これから先はみんなと一緒にこの青空の下を歩いていく。

 だから戻ってきた彼女に、いい笑顔を向けて出迎えようと思った。


 ――きた。


 ドアが開いて、彼女が出てくる。

 鍵を閉め、こちらへ振り返る彼女は想像通りの「お待たせ―」を言ってこちらへやってくる。

 でも微笑む彼女の顔は想像以上だった。


 ――綺麗だな。


 心からそう思う。

 そんな彼女と笑顔対決なら絶対に完敗だ。それほどの光が今の綾の中にはある。

 それでも微笑んで出迎えたい。

 だからニカっと笑ってこう言ってやった。

「――おかえり」と。




 ***




 陽菜を外へ残して一人家の中へ入る。靴を脱いで持参したスリッパへと履き替えた。


『ごゆっくり』


 そう言った陽菜が外で待つことを選んだのは、もう私が一人で大丈夫だとわかっているからだ。


 ――わかっちゃうところがすごいな。


 あまり彼女を待たせるのも悪いので、できるだけ早めに済ませようと思った。

 今日がこの家に入れる最後の日。だからここへはお別れを言いに来た。


 まずは一階のリビングから。

 もう何もないリビングは家族三人が一番長く居た場所だった。一緒にテレビを観たり、話をしたり、ゲームをして遊んだりした家の中で一番温かかった場所。

 今はもう何もない。

 そうなってしまった今を寂しいとも、悲しいとも思わなかった。


 次はキッチン。

 そこで蘇ってくる記憶は肩を並べてあの人のお手伝いをしたこと。夕方になればいつもいい匂いがしていたこと。シンク前にある窓からはいつも花が見えていたこと。

 思えば、あの人がいなくなってからはずっとここは静まり返っていた。引っ越し前も後も見た感じは何も変わらない。

 キッチンにある裏口から裏庭へ回ってみる。何もないここで昔の記憶を探ってみると花の手入れを一緒にしたことを思い出した。

 あのときはお手伝いでやっていたけれど、今は違う理由で花を育てている。育てる楽しさというものを知りたいと思ったから始めることにした。


 再び中へ戻って、次は洗面所とお風呂場を覗いてみる。

 今見れば小さく感じる浴槽に、昔はあの人と一緒に入っていた。二人で湯船に浸かりながら交わした会話はどんな内容かはもう思い出せない。

 ――でも、よく笑っていたのは憶えている。


 次にお父さんの部屋を覗いて階段下の物置も見て、二階を見に階段を上がる。

 自分の部屋を覗いてみる。

 何もない部屋はつい最近まで使っていたというのに、もう自分の部屋ではないように感じてしまう。愛海や陽菜と一緒に遊んで会話をして、ここで一緒に寝た最近の出来事が、夢や幻のようだった。

 それから部屋を出て、ずっと使われていない客間を覗いて、二階廊下にある小さな物置もちょっとだけ覗く。


 そうして最後の部屋へと向かった。


 家に来る前から、最後にすると決めていた。

 少しだけドキドキする。

 でも怖い気持ちはない。だからドアの前にサッと立てた。

「……」

 ドアノブに手を掛けることも躊躇せず、音を立ててドアを開ける。

 一週間ぶりのあの人の部屋は引っ越し前も後も変わらない。違うところがあるとすれば、ほこりが少し溜まっているくらいだ。

 そしてあることに気づいて、足元を見下ろす。


 ――あれ?


 片足だけ、いつの間にか部屋の中へ入っていた。

 少しだけ驚いた。スリッパを履いているとはいえ、なんの意識もなく踏み入れている。

 踏み入れた足から不快感が沸き起こってくることなんてなかった。

 汚れた感覚もしない。

 気にしていたことは、全てなくなっている。

 大丈夫だと一人頷いて、そこからスリッパを脱いで部屋の真ん中まで歩いていった。


 目指したのは愛海と一緒に手を繋いで立った場所。


 そこに立って、すぅーっと鼻から息を吸い込んでみる。

 うん。匂いはない。

 周囲を見てみるけど、汚れなんてどこに見当たらない。

 それらを感じなくなったのは愛海とここへ立ったあの朝からだった。

 怖かったものが薄れていき、今はもう消えてなくなった。


 ――でも唯一、微かに残っているものがある。


 それに向かって視線を送る。

 どこから湧いてきたのか、あの黒い影が私の視界の中だけに出てくる。

 新居にも偶に姿を現すけど、それを目にしても怖くなることもなく、すぐに忘れてしまうことの方が多くなった。

 ――でも、それだけで済ませてはいけないことはわかっている。

 それは私が招いたものであり、私が作り出したものだから。

 自分の手で完全に消さなければならない。

 ちゃんとするって愛海と約束した。


 だから、その影と向かい合う。


 じっと見つめた先の影が膨らみ、人の形となっていく。

 髪の長い、私に似た顔をした女性の姿を見せると、歪んだ笑顔を添える。

 その瞳と視線を合わせた。

 少しの間じっと見つめ、声を掛けてみる。


――」


 数年振りに母だった人を呼ぶ。

 震えもなく、怖さもない。

 毅然と立ち向かい、そして告げる。


「――さようなら」


 私はあなたのやったことを許さない。

 許すことは――きっとない。

 でもそれだけ。

 それだけで私はもう過去あなたを追うことはない。

 私が追いたいのは私達を捨てたかつてのあなたなんかじゃない。

「――」

 そう伝えた気持ちは影を消していく。ゆっくりとではなくあっという間に。

 そしてしばらくの間、じっと影のいた場所を見つめていた。

 ずっと追い続けていたものがなくなった。

 ホッとした気持ちはない。

 ただ終わったんだっていうことを実感しただけだ。


 ――そこで外から聞き覚えのある声を耳にする。


 それが気になって部屋の窓から外を覗いてみた。

 陽菜と話す二人の顔を見て、自然と頬が緩む。

 窓を開けてみると、音のない静かな風が部屋に入り込んでくる。体に触れる冷たいそれは空を覆う青を含んでいるかのような澄んだものを感じさせる。

 それが気持ち良かったからか、それとも二人の姿を見たからなのか。胸の奥が弾みだす。

「おーい」と声を出す。三人がこっちを見た。

「おーい」と愛海が手を振って「終わったのー?」と陽菜が尋ねる。

「うん。もう終わったよ」

「そっか。じゃあこいつらも入れて街へ行こうか」と陽菜がニシシと笑いながら言う。

「名案だそれは」と志穂。

「ってなわけで早くおりておいでー」と愛海。


 そう青い空の下で彼女達が私を呼んでいた。

 早く行かなければ。

 そう思って「今行くー」と返事する。胸がわくわくして、早く一緒に外を歩きたくて窓を閉め部屋を出ようとする。

 そして、部屋のドアに手を掛けたそのときだった。


『――ありがとう綾』


 その声を聞いて、足が止まる。

 部屋の入り口から振り返って、じっと窓の方を見る。

 その声は外から届いたものではなかった。

 私の記憶が再生させた、私にしか聴こえない声。

 この部屋で彼女と過ごしたあの記憶が不意に蘇っていた。

「……」

 窓を閉める前。彼女の顔を一目見たせいだろうか。


 ――違う。


 そう否定して、あのときの彼女がいた場所を見つめる。


 ――今でも、忘れられないからだ。


 ここで彼女と立ったあの朝。

 愛海の瞳にはもう、私に恋をしていたときにあった光はなくなっていた。

 彼女の恋は終わったからもう消えた。

 私はもう……彼女の想い人ではない。

 それなのに――


『――綾に恋をして、想いを告げて本当に良かった』


 あんなに綺麗に微笑んで、あんなに綺麗な言葉を投げてくれた。


 そしてあのとき……不思議な感覚を得た。


 時を止められ、言葉を失ったように、ぼーっとしていたかのように、じっと彼女のことを見つめていた。

 解けた後も、頭から彼女の顔が離れなかった。

 彼女が家に帰った後も、夜が来ても、日が変わっても、心はずっと彼女を追い続けている。今もこうして、ふとしたキッカケであのときの彼女を思い出してしまう。


 ――あのとき、どれくらいボーっとしてたのかな。


 振り返る度にそんな意味のないことを考える。

 そしてまた、その僅かな間を数えてみる。


 ――うん。やっぱり変わらない。


 何度数えてみても同じで、何度振り返ってみても同じ感想になってしまう。


 本当に、不思議な三秒間だった。

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