第42話(綾編)


 水滴が青い海に向かって落ちていく。

 落ちて、弾けて――飲み込まれる。

 そうして海の一部となる。

 水滴はその跡を示すように波紋を生み出した。

 ふっくらと青を囲む小さな輪っか。それが時間の経過と共に視えない糸で引っ張られるように大きく広がっていく。

 そうして広がる輪の中へ、

 青だけの世界へ――赤が織り交ざった。



 そこで目が覚めた。

 ――熱い。

 目を開けた瞬間から、体の中心に熱を感じていた。

 でも瞳は海ではなく、暗い天井を映し出す。

 霞んでいない視界。頭の中のボンヤリもなく、ハッキリとした現実を持っているのにそれでも熱は収まらない。

 ゆっくりと上半身を起こし左手を胸の中心に添える。

 ドクドクと熱を流す音。

 気分を悪くさせるような不快感ではなく、夢の中で起こった胸を焦がす感覚。それがこの現実までずっと続いている。

 ――でもそれだけだった。

 胸に添えた左手も。見下ろした右手も。髪と服にも、夢の中にあった水の感触が一切ない。

 確かめるように右手を前に伸ばしてみる。

 視線の先の手の甲と、裏返えした手のひらは完全に乾き切っていた。

 濡れていたのは夢の中。

 だからその乾きを手にしているのは当たり前のことで……。

 でもそれが……体から抜け切らなくて。

 そこでふと隣を見たことでようやく気づく。

 ――え?

 愛海がいなかった。目を覚ます前からいなくなっていたようだ。

 しばらく待ってみるけど、彼女が部屋のドアを開ける気配がしない。すぐ傍で寝ていた跡だけを残し、どこかへ行ってしまったのだろうか。

「愛海……」

 小さく彼女の名を呼んでいた。

「……」

 でもドアの奥からそれに答える声はない。

 熱がようやく収まると今度は不安が生まれてくる。

 ――なにかあったのかも。

 起き上がって部屋のドアへ近づく。

 ふと足が止まった。

 窓の方を振り返って、カーテンの引かれた窓を見る。

 暗いけれど夜の気配を感じなかった。

 そこを開けても月はもう視えてこない。光も、何もかもを隠し太陽と入れ替わっている頃なのだと思った。暗さはあっても日の出は近い。



 部屋を出ると、寝る前に点けたはずの足元の光が消えていた。

 愛海が消したのだろうかと、暗がりでスイッチに向かって手を伸ばす。

 ――そうしてなぜかあの部屋のことが脳裏に過る。

 スイッチに触れる寸前でやめて、じっとその部屋のドアを見つめた。 

 ……愛海?

 中から物音がしたわけでもなく、ドアが僅かに開いているわけでもない。

 それなのに……わかってしまった。

 どうして?

 そう心の中で問いかける。

 でもそれを口に出さず、おそるおそるドアへ近づく。

 ……連れ出さないと。

 そう思ったから、さっきみたいに見て見ぬふりをしようとは思わない。

 ドアの前に立つとノックもせずにドアノブに手を掛けた。この音だけでもう彼女は気づいただろう。ドアノブを下げ、僅かに押した後に手を離す。ゆっくりと僅かにドアが開いていき、そのドアの中心へ手を添えるようにそっと押す。

 開いていくその向こう側。

 部屋の中に――愛海はいた。

 毛布を肩掛けのように羽織って窓辺に立っている。

 こっちを見る彼女の表情は暗さのせいで微かにしか視えてこない。電灯はもう処分してしまったから明るくすることもできなかった。

「――ごめん。勝手に入ったりして」

 謝る声が視線の先から届く。

 暗くとも、彼女と目が合ったのがわかった。

「いいの」と首を横に振る。勝手に入ったことは気にしていない。

 そうじゃなくて――

 進めようとした足が動かなかった。

 自分の足元を見下ろして、スリッパを履き忘れていたことに今更気づく。

 まだ私は廊下にいる。

 素足のままでは中へ入れない。

「……」

 どうやって彼女を連れ出そう。

 それだけを考えて、その末に顔を上げ部屋の外から尋ねる。


「――ここ、汚くない?」


 汚いから。

 匂うから。

 早くここから出よう。

 そう伝えて彼女を連れ出そうとした。

 でも愛海は「ううん――」と否定する。


「――キレイな部屋だよ」


 そう言って床、天井、左右の壁と順に見ていく。


「匂いも汚れも全然ないよ」


 陽菜にも同じことを言われた。

 そのときも、そう言われて何も言い返せなかった。

 ……だってわかっているから。

 ずっと前から、わかっているから。


「ずっとキレイにしてきたんだね」


 それでも消えてくれない。

 私の中にいつまで残っている。

 だから止まらなくて、ずっとキレイにしてきた。


「綾――」


 そう私を呼ぶ愛海を見て気づく。

 彼女の背後にある空が、いつの間にか薄くなっていた。

 遠くで日が顔を出し始めたのか、闇が白に近づこうとしている。


「――どうしてそこまでキレイにしてきたの?」


 その薄い空を背負った愛海が問い掛ける。

 そうしたことが糸をプツリと切ったように静寂を呼んだ。

「……」

 音を失った部屋の中、ひどくぼんやりとする。

 何も返せないまま、頭の中を彼女の声が回り続ける。


 どうしてって……だってまだ汚いから。

 まだ匂うから。

 まだあの女の影を感じるから。


 そう浮かばせても、それが口から出て行かない。

 だって違っているから。

 違ったものを出そうとしているから。

 違う違う。全部違うとひとつずつ消していく。

 そうして出すものがなくなってしまった。

「……」

 頭の中がからっぽになる。

 そしてじっと、愛海のを見つめたときだった。


「――許せなかった」


 そのからっぽからぽつりと出る。

 不意にとか唐突とかでも……その逆でもない。

 何もなくなったはずの体から水滴が落ちたかのように出て行く。

 それが止まった時を動かすように静寂を切っていた。


「――どうして許せなかったの?」


 また投げられる。

 そしてまた考えてしまう。

 家を壊したからとか。私達家族を裏切ったからとか。

 大嫌いだからとか。

 そうだ。大嫌いだから。

 教えてくれたことも。微笑んだ顔も。あの長い髪も。綺麗な手も。全部――全部! 大嫌いだから!

「……」

 でもそれも出ていかない。

 また違っているから。答えになってないから。

 そんなものを取り出して、また私は逃げようとしている。

 違う。だからまたひとつずつ消していく。

 そうして全部を消すと、たったひとつが残る。

 そのひとつを彼女に送る。


「大好きだったの」


 それが一瞬だけ、体を震わせた。


「大好きだったから……許せなかった」


 私の自慢だった。

 綺麗だねって言われて、自分のことのように嬉しかった。

 小さい頃の私の目標だった。

 お父さんもあの人が大好きで。あの人はそれをわかっていたはずだった。

 わかっていたはずなのに。それなのに……。

「……」

 体に何かが入ってくる。

 体中を回って握った手を震えさせている。

 俯いた瞳に、いつまでも入れない自分の足が映る。

 悔しさが胸の奥で疼き出す。


「それなら――」


 その疼きを弾くように愛海の声が響く。


「――ずっと許さなきゃいい」


 顔を上げ、こちらへ歩み寄ってくる愛海を見る。

 彼女は続ける。


「そのとき許せなかったことを今でも許せないのなら、ずっと許さなくていいと思う」


 そして手を伸ばせば届く距離で立ち止まる。


「でも過去は追っちゃダメ」


 そこから「綾――」と声を出す。

 暗い海の底へ光を届けるように、私に呼び掛ける。


「――どんなに過去を追ったってね、ここにはもう何もないんだよ」


 その瞬間、遠くの空で赤い光が灯った。


「何もない、キレイな部屋があるだけなんだ」


 赤が、空に拡散していく。

 白くなろうとする闇まで追い払って、空を掴もうとする。


「きて」


 その中で愛海は手を差し出す。

 伸ばされた小さな手。

 目の前にあるそれに一瞬戸惑ってしまった。

 でも――


『――抜け出せないなんて、思い込まないで』


 それを思い出した瞬間にそれは消えていく。

 公園で志穂が言ってくれたこと。

 そうやって私を励まして微笑んでくれたこと。

 私にそうしてくれた彼女。

 彼女は――


『私の母さん病気で死んだんだ』


 私なんかよりも――つらい過去を持っていた。


 ――取らないと。


 意を決して、そっと手を伸ばす。

 冷たい手が彼女の手に触れる。落ち着いてと目を閉じた。

 握った彼女の手から、いつか陽菜と繋いだ時のように少しずつ彼女の体温がこちらへ流れてくる。

 そしてグッと強く私の手が握られる。

 呼応するようにドクリと心臓が一度だけ高鳴った。

 それを合図にしたかのように体が引っ張られる。部屋の中へ私が入っていく。

 驚いて、目を開けたその瞬間。


 視界の中で水が弾けた。


 それは夢の中で目にした水飛沫だった。

 水の中で光に向かって伸ばしていた自分の手。

 それを誰かが掴んで引っ張り上げる。

 そうして私の体は、魚が跳ねたように海水を弾いて海を出た。

 気づけば青い海の上へ立って、ボンヤリと青い空を見上げていた。

 体を飲み込んでいたはずの海は私の足首までしか飲み込まず、海の上へ私の両足を立たせて空を見上げさせている。

 見上げる空の中に、海の中で見た強い光はどこにもなかった。

 あるのは広い静かな紺碧こんぺきだけで、それが空を独占して覆っている。

 体はずぶ濡れだけど、海水を吸い込んだ髪や服は不思議と重くはない。だらりだらりと温かくて、心地良い水が体を伝って落ちていく。


「ほら――」と、その世界で私を呼ぶ声がする。


 海の中にいた私をずっと呼んでいた声。

 見下ろした先。声のする方へ私の手を取る愛海がいる。

 同じ海に立って、私を見上げる彼女も同じくらいずぶ濡れだった。張りついた前髪をいつかのようにわけて、おでこを見せている。


「――綺麗でしょ?」


 そう私に向かってはにかんでいる。

 彼女の背後にある空が赤く染まり出す。

 真上に広がっていた、どこまでも続く青い空へ赤が滲んでいく。

 水滴が海を叩いていた。

 見下ろした先、波も起こさない静かな海面に音を立てながら波紋を描いていく。

 生み出された小さな円は広がりながら空を映し出す。

 紺碧こんぺきと焼けた二つの空。

 混ざり合った空を囲み、揺れ響きながら広がっていく。


 それがさっき見た夢だった。

 ようやくそれが体から離れていく。

 映し出したこの現実に海なんてあるわけもなく、それとは程遠いからっぽの部屋しか映ってこない。

 でも手を引かれた瞬間から私は、無意識にこの部屋の現実と夢を繋げていた。


「ほんとだね――」


 その中で彼女に答える。


「――綺麗だね」


 夢の中の彼女と、現実にいる彼女に向かって。

 あれは夢だった。

 そんなことわかってる。

 でも今、確かに夢の中で手にしたのと同じ熱が体の中心から感じる。


「過去を追いそうになったらさ、私達のことを思い出して」


 彼女の言葉に頷く。


「大好きだった人なんかじゃなくて、今の大好きな人達を思い出して。そうすれば昔のことなんてすぐ忘れられるから」


 そう言ってまたはにかむ愛海にうんと頷く。

 過去を見なければ、汚れなんてどこにも見当たらなくなる。

 過去を追わなければ、匂いなんて感じなくなる。

 過去と決別すれば、あの影と会うこともなくなる。

 ようやくそれがわかって「愛海――」と彼女を呼んだ。


「ありがとう」


 震えた声で、涙を堪えながら差し出してくれた彼女の手を両手で包むように重ねる。


「あなたがいてくれたから――」


 愛海がいてくれたから。

 愛海が恋をしてくれたから。

 私はあんなに綺麗な恋を見ることができた。

 別れなければ、捨てなければならないものがわかった。


「ありがとう……」


 もう一度そう言葉にすると、愛海はもう片方の手を差し出す。


「私にも言わせて――」


 そう言って互いの手が重なり合う。


「――私も綾がいてくれたから恋ができたんだ。綾が受けてくれるってわかったから告白まですることができた。綾が怒ってくれたから。最後まで自信を持って恋をしなきゃって思ったんだ」


 遠くの赤い光が部屋の中へ伸びてくる。

 部屋の中の闇を追い払い、赤く満たしていく。


「私、もう二度とあんな弱音吐かない。次に恋をしたときは最後までちゃんと恋をする。だからありがとう綾。あのとき私の告白を受けてくれて。私を叱ってくれて。私の恋を綺麗だって言ってくれて――」


 そうして赤い光の中で彼女は打ち明ける。

 欲羽山のときと同じように逸らさず、真っ直ぐと。


「――綾に恋をして、想いを告げて本当に良かった」


 じっと彼女の顔を見つめていたら、ふるふると鼻先が震え出した。

 胸がドクドクする。

 目の奥が熱くて、堪え切れなくなって、その熱が瞳からこぼれ落ちていく。


 いつの間にか腕を伸ばして、彼女に縋りついて、子供のように泣き喚いてしまった。

 そのはずみで彼女が肩にかけていた毛布が落ちてしまった。 

 膝が落ちて、愛海に頭を預けるようにもたれかかっている。

 私の為に少しだけ腰を曲げる彼女が私を包むようにしてくれている。


「大丈夫だから。綾は絶対に抜け出せる。綾には私達がいる。だからもう――」

「――大丈夫」

 もうその必要なんてなかった。

 だから遮る。

 そして約束する。

「もう大丈夫だから……あとは、自分で、できるから」

 もうあなたに救われている。

 あなたに助けられている。

 だからもう心配しないでと。

 それが伝わったのか、耳元で「うん」と頷く声がした。私の言葉を信じた彼女が安心した顔をしてくれるのがわかる。

 そうして愛海に約束した。

 だからそれを果たさなければならない。

 自分を救う為にちゃんとしなければ。

 私を信じてくれる愛海の為にも。私の為に動いてくれたみんなの為にも。

 前を向いて歩きたい。みんなと一緒に歩きたい。

 だから私は約束する。

 部屋中を赤く染め上げる、遠い朝焼けからの光の中で。

 ずっと追い続けてしまった過去へ、さよならをしにいくことを。

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