第27話(陽菜編 後編 修学旅行編 二日目)


 庭園を出て、小道を下って行った先にある教会堂へと入る。愛海と志穂は先に観光しているので中でまた会うなんてことはない。国木の生徒はもうホテルへ帰り始める時間帯だし、二人も今頃路面電車に乗ってホテルへ戻っている頃だろう。

 アタシ達もここを見たらすぐに戻ろうと思っていた。けど室内が思いの外狭いことと、日が沈む時間帯であまり人がいなかったせいか予想以上に早く見終えてしまう。

「――ここでゆっくりしていかない?」

 時間に余裕もあるので綾の提案に頷く。

 中央に整列する長椅子をひとつ適当に選び、並んで腰掛ける。周囲には祭壇に向かってお祈りをする女性が一人いるだけだった。

「……」

「……」

 すぐ隣にいるのに、会話は一言もない状態が続く。教会内で流れる音声ガイダンスもアタシ達から逸れるように流れていた。

 視界の片隅で光を感じる。

 見上げた先にキリストのステンドグラスがある。それに向かって落ちた日差しが侵入して突き抜けると、ガラスと同じ色を持って祭壇前の床を彩色した。


『――待っててね』


 ボンヤリと見つめていたそれに何も関連はないはずなのに。

 なぜか愛海の声が頭の中で再生された。


 明日、愛海が来る。

 綾に想いを伝えに――。


 ずっと前から愛海は明日にすると決めていたようだ。

 しかも場所は旅行先じゃなくて邪魔の入らなそうな欲羽山。告白の場所としては最適ではある。

「陽菜――」

 呼ばれたけど、綾の方を振り向かない。

「――愛海のこと、いつから気づいてた?」

 彼女も同じようにこちらを見なかった。

「……確信したのは花火大会のときかな」

「結構前からわかってたんだね」

「あのときは、顔に出まくってたからね」

 互いに顔を見合わせない会話は、向ける視線の先はバラバラなのに不思議と声がよく通る。耳が拾う彼女の声は小さいのに、それよりも大きい音声ガイダンスは少しも耳に入ってこない。それは今もアタシ達に無視されながら、ずっと教会内を彷徨っている。

「……そうだったね。気づかないっていう方がおかしいか」

「さっきの愛海みたいな感じだったら、きっと今日まで気づかなかったと思うよ」

 それくらい今の愛海は全然違う。

 まるで別人だと言えるほど、愛海は変わった。

 自分に負けたくない。

 もう後悔したくない。

 そんな気持ちを原動力にいろんなことをやって自信をつけたんだ。踏み出すことの怖さなんてものはもう、彼女にはないんだと思う。

「陽菜――」

 また呼ばれて、今度は視線を向ける。綾はさっきと変わらずこちらを見ない。膝の上で重ねた自分の手を見下ろしている。

「……」

 儚げに見えるその横顔。

 小さい頃からずっとそれを見てきた。

 いつだってどの角度からだって綺麗だと思わせる。身長もアタシみたいに大きすぎるでもなく愛海みたいに小柄なわけでもない。丁度いいと言えるほどの高さで手足も細くて、肌も白い。

 同じ女の子なのに、ずっと傍で見ていたアタシの目が慣れることなんてなかった。何度も同じ感想を抱かせる。

 これに何人も惹かれて、何人も求めようとした。

 けどいまだに、誰一人として彼女に触れたことなんてない。

 全てが彼女のことを恐れ、背中を向けて去って行った弱虫ばかりだった。

 でも明日、初めて最後までぶつかろうとする女の子がいる。

「――もしも、もしもだよ?」

 それに対する答えを……綾はもう決めているのだろうか?

 綾の言葉が途切れる。

「……」

 それを待つために視線を大祭壇の方へと向ける。

 ステンドグラスから伸びる光が少し薄くなっていた。日に薄い雲でも掛かったのだろうか。外を歩いた際に見上げた空に雲はひとつも浮かんでいなかった気がする。

「……もしも――」

 通った声。今にも崩れてしまいそうなそれに――。


「――待っててなんて言ったら、ずっと待っててくれるかな?」


 ――胸の奥がうずく。

 ステンドグラスの向こう側にある光が僅かな明滅を起こしている。その後、消えてしまうんではないかとそんな不安が湧いた。

「――愛海なら、ずっと待っててくれるよ」

 幸いなことに光は消えなかった。

 ハッキリとその存在を示し、前よりも床の色を濃く彩って伸ばしていく。

「そうだよね」

 そう言って綾が立ちあがる。行こうと言ってアタシの手を引く。

 その声と冷たい手の感触に何かを諦めたような色を感じる。名前の知らない、ステンドグラスの中にある鮮やかな彩りからはかけ離れた色が頭の中で歪な丸を描いてきた。

 不安になって、繋がった手を見つめながら尋ねたくなった。

「……」

 でも何も口に出せないまま彼女の手に引かれていく。

 入れ替わるようにして、ほとんど客のいなかった教会内にまた人が入り始めた。もう閉館間際の時間だというのに……。



 教会堂を出て、無言のまま坂を下った。

 辿り着いた路面電車を待つ停留所に人は一人もいない。日の暮れる時間帯なので混み合うかと思っただけに意外だ。

 ホームにあるベンチへ二人肩を並べて座る。一緒に同じ方を見ているけど、アタシの視線の先はずっとレールの上で止まっていた。すぐに来るはずの電車はなかなかやってこない。

「――お願いしていい?」

 唐突に彼女がこちらに顔を向けたのでアタシも合わせる。

 タイミングが悪い。

 見計らったかのように視界の隅へと路面電車が入ってくる。

「うん」

 どんな願いかも聞かずに頷く。

 やってくる電車に会話が遮られてしまいそうな気がして焦る。空気の読めないそれは橙の光に彩られながらこちらへ向かって来る。速度を緩めるようなことは少しもしてくれない。

「明日、愛海の話を聞いた後ね――」

「うん」

「――もしかしたら私、おかしくなるかもしれない」

 綾の目の奥が揺れたのを見た瞬間、横を電車が滑り込んで停止する。綾は誤魔化すように視線を電車の方に向けて逸らすと、何も言わずに立ち上がった。

「……」

 遅れて彼女に倣うようにしてアタシも立つ。戸の窓ガラスが薄くアタシ達を映した後、サッと中を開けて車内の客を降ろしていく。

 スマホを操作したまま不機嫌そうな顔で歩く女性。

 笑顔でつっつき合いながら歩く中学生らしき三人組の男の子達。

 疲れを顔に残したまま帰宅するスーツ姿の男性。

 人なのに、人のように感じない彼らがいなくなると、綾は開きっぱなしの戸の中へ先に入って行った。

「……」

 彼女の足跡をなぞるようにアタシも続く。



 夕日の差し込む車内は誰もいない。席は空いていたけど、座らずに綾はつり革へと手を伸ばす。アタシもその隣に並んで立った。

「――最後まで聞けるの?」

 ガタンと音を立て、電車が揺れ動いたタイミングで言った。

「……必ず聞くよ」

 互いに真っ直ぐ前を向いたまま話す。

 目の前の窓から赤い光が差し込んできた。建物の一部に遮られていたそれは目の奥へ容赦なく侵入してくる。

 でも不思議と瞳は拒もうとせず、伸ばされた赤い光を吸い込む。侵入されたのではなく、こちらから吸い込んでいると言った方が正しいのかもしれない。

「でも、その後が怖い」

「……」

「だからお願い――」

 そう言って綾の右手が、アタシの左手に触れる。

「――もしなにかったら……そのときは愛海を助けて」

 つり革を掴んでいなかった彼女の空っぽの手が、窓から入った赤い日差しを宿しながら助けを求めている。

「……愛海を?」

 その手は教会の中で繋いだときと同じく、触れられた瞬間から冷たい。

 赤くなってアタシと繋がっていても、温もりとは程遠い。

「うん――」

 アタシの体温が少しずつなくなっていく。


 奪っている。


 そう感じたのだろうか。

 彼女の力が段々と弱くなっていくのがわかる。

「――愛海だけは傷つけたくない……」

 温もりがないことよりも、そっちの方が胸を締め付ける。

「……」

 そしてスルリと、滑るようにアタシの手から離れていこうとする。

 このままコトリと床に音を鳴らして彼女の手が落ちしまうような気がして、怖くなった。

「わかった――」

 アタシの手を伝うように落ちていく彼女の指先。

 離れたら、永遠になってしまう。

 恋をして、綾を見失ってしまったときの……あの喪失感。

 あれは……もうあれだけは――。

 二度と嫌だと、綾の指先が離れた瞬間に彼女の手を拾う。

 グッと握った手。

 まだ冷たいここに、この中に……さっきアタシから奪った熱は少しでもあるのだろうか?

 もしないのなら――。

「――約束する。絶対叶えるから」

 全部奪えと、ギュッと握り締める。

 ビクッと肩を震わせ綾が戸惑ったけど、でもすぐに肩のこわばりは溶けていく。

「ありがとう」

 落ち着いた声でそう言った綾の手から力を感じてくる。

 きっと――手の奥に小さい熱が宿っている。

「うん」

 この約束は、互いに顔を見合わせることなく交わされた。

 気づけば電車は駅へと停まって、賑やかな声と共に新しい乗客が入ってくる。

「……」

「……」

 それから目的地へ到着するまで会話はなかった。

 電車に揺られる中繋がった手は降りるまでずっとそのままで、視線の先も互いにずっと窓の外だった。

 降りる駅までの道のりの中、目の奥に吸い込まれる光が弱くなってきたのを感じた。追い求めるように視線を赤い日に向けるものの、それはすぐに遠くの山の中へと吸い込まれてしまった。

 それでもまだ抵抗して、日は消える前の世界に赤い残滓をばらまいていく。

 それを契機に夜が覆う。日のない世界を征服するように赤い残滓をひとつずつ喰らっていく。その証拠を残すようにして、食べられた赤は紫へと変貌していった。

 世界は見た目の印象と違い丁寧な行程を踏んで、闇へと塗り替えられていく。



 ホテル前まで辿り着くとシュワちゃんと寺田さんがどこからともなく突然現れた。

「待ちくたびれたぜ二人共」

「ちょっとのんびりし過ぎちゃった」と綾はいつも通りに返す。

「いいよいいよ」とシュワちゃんは上機嫌。どうやら楽しく過ごせたようだ。

「――ところであの二人はどこ行った?」と寺田さん。どうやらあの二人も何も連絡していなかったようだ。

「ごめん言い忘れた。途中から二手に別れたんだよ。てっきり愛海たちが先にホテルに向かってるもんだと思ってたけど、まだ帰ってなかったか」

「なぬ、どっかで寄り道してるのかよ。連絡もせずにあのアホンダラ共はどこをほっつき歩いてんだ。もう時間ギリギリなのに」と寺田さんはスマホを取り出して耳に当てる。

「――あ、私のことはいいから先に点呼済ませなよ」

 三人で顔を見合わせると「じゃあお先に――」「バイバイ寺ちゃん」と、エントランスで待つ先生の所へと向かった。綾が三人の名前を書いている間、アタシとシュワちゃんはエントランスから外の様子を窺っていた。

 ――もう真っ暗だけど、間に合うのか?

 そう思っていたところで「――お、来たみたい」とシュワちゃんが指を差す。暗いけど三人の近くに街灯があるおかげで二人が寺田さんに怒られているのがわかる。

 そしてこちらへ向かってきた。

「……」

 暗い中、遠くてもなんとなく愛海と目が合ったのがわかる。手を振ると同じように返してくれた。

「――点呼済んだよ。行こ」と綾が催促する。今は愛海とは顔を合わせづらいだろう。余計なことは言わず素直に従って三人で部屋へ向かった。

 廊下を進みながら、手を振り返してくれた愛海のことを考える。暗くて顔がハッキリと視えなくとも彼女は堂々としていた。

「……」

 いよいよ明日だ。



 ***



「――あんなに綺麗なんだね」


 それはずっと綾が追い求めていたものだった。

 ……アタシが彼女に見せてあげられなかったものでもあった。


 小さい頃からずっと綾の傍にいた。

 誰よりも彼女のことを理解している――そんな心がどこかにあった。


 でもそれは理想のアタシであって、現実のアタシではなかった。


 夏に、ようやくそれに気づいた。

 気づいた途端に感じたのは恥ずかしさなんてカワイイものじゃなくて、後悔と自分自身に対する怒りだった。

 ずっと隣にいると思っていた彼女の位置は遠く、慌てて動いてもアタシの手なんて届くわけもなく。

 どんなに必死に走っても、アタシは彼女を救うことができなかった。



 愛海がこちらに向かって来る。

「……そろそろ行くね」

「うん」と言って綾は愛海達のいる方へ背中を向けた。

「……」

 アタシは志穂達のいるとこに向かって歩いて行く。

 視線の先には立ち止まった愛海が深呼吸をしていた。

「陽菜――後はお願い」

 そう聞こえ、背中合わせで「わかった」と返事する。

 愛海がこちらへと向かって歩き出す。当然、アタシ達は目の前を擦れ違う。

「……」

「……」

 歩きながらじっと愛海の方を見る。それに気づいた彼女も目を合わせた。逸らさないままで互いを目の前にする。身長差があり過ぎるせいかアタシが見下ろし、愛海が見上げる形となっているけれど、嫌な空気はない。

 揃って足を止め、言葉を交わした言葉。


「頑張って」のアタシからの応援。

「ありがとう」の愛海の感謝。


 その二つだけで擦れ違った。

「……」

 でも先へ進まなければならないアタシの体は無意識に振り返っていた。

 視線の先にある愛海の小さな背中。

 迷いなんてなくて、少しも下がったりもしない。

 この瞬間も真っ直ぐ突き進んでいる。


 そうした彼女の行動が、綾の求める綺麗を見せた。


 アタシにはそれができなかった。

 情けないなと素直にそう思う。


『その身長羨ましい――』


 いつか彼女からそう羨まれたことがあった。


『――私なんかほら、おチビだからさ』


 ねえ愛海。

 今も……そのときみたいに気づいていないの?

 そんなものどうだっていいって思えるほどに愛海は素敵なものを持っているのに。

 誰にも真似できない。あなたにしかない綾を救えるその強さ。

 アタシなんかじゃ手の届かないものを愛海は持っている。

 綾を救えるあなたが……アタシは羨ましい。

「……」

 泣きそうになるのをグッと堪える。今はそんなことをしている場合じゃない。再び彼女に背を向け、みんなのいるところへ向かって早めに歩き出す。

「――みんなここで待機ってことでいいのかな?」

「そ。終わるまでここで待機だ」

 そう言いながらニカッとする郁美。その前にと近くに車を停められる場所を聞いて三人から一度距離を置いた。


『――もしかしたら私、おかしくなるかもしれない』


 その為の準備をしに急いで親に電話する。

 両親には綾のことをある程度話しておいたのが良かった。母さんは詳しいことは聞かずにすぐに行くと言って電話を切ってくれた。

 ありがとう。そう心の中で母さんに言って戻る。

 そして遠くで二人が向かい合っているのを目にする。後はもう見届けるだけだ。

「……」

「……」

「……」

「……」

 誰一人、何も言わずに遠くの二人を見守っていた。

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