第15話(陽菜編)
ジャーッと、音を立てて水が流れている。
「――映画はどうだった?」
洗面所にいる綾に向かって部屋の外から声を掛ける。渦を巻きながら穴に吸い込まれる水音の中へ加わるようにしてポンプ音が二回鳴る。
「――おもしろかったよ」
返事はその後で来た。やけに鳴り響く水音の中でもアタシの声はちゃんと届いている。
「そっか……」
綾は今日も一人で街を歩いていた。
以前と同じように予め決めておいた場所を歩き、最後に映画を観て帰るという計画だった。街を歩くときには何も問題はなかったそれは映画館で思わぬ事態に遭遇してしまう。
映画館で知らない男から声を掛けられた。
男は大学生くらい。見覚えのない紙切れを落としたと言って綾に近づいて来たという。あからさまな手口だった。
偶々そこにいた真帆が助けてくれたおかげで何事もなかったけど、もし真帆がいなかったらどうなっていたか。
やっぱり……一人で街を歩かせるのは危険だ。
もしまた綾が一人で街へ行くというのなら隠れて跡をつける。もうなにかあってからでは遅い。
「……」
またポンプ音。
水はまだ流れている。アタシがもたれかかった壁の裏側から聴こえてくるそれは少しうるさく感じる。
止めるべきか迷う。
「――引っ越しのことはみんなに話したの?」
ごまかすようにそんな話題を振っていた。
「正確な日付は決まってないから、まだ言ってない」
「そっか」
「うん。でも修学旅行の後になるのは間違いないと思う」
「じゃあ来月は準備とかでバタバタすることになるね」
「どうだろう。私もお父さんもあまり物がないから、準備事態はあっさり終わるんじゃないかな」
予想ではと、付け足す綾。
綾から引っ越しの話を聞かされたのはつい先日のことだった。
おじさんからの提案で二人はこの家を出ることとなった。当初は引っ越しと聞いて驚いたけど、綾とおじさんは県外へ出るわけではない。卒業するまではこの町にいる。家を売り払ってアタシの家の近くにあるマンションへと引っ越すことになったのだ。
『もうこの家にいるのはやめよう』
おじさんはおばさんと別れてからのこれまでのことを綾に話した。情けないことだと、前置きした上で話したことは全ておじさんの本心だった。
おじさんはつい最近までおばさんが帰って来てくれることを本気で信じていたのだという。現実を受け入れられず、何かの間違いであることを望んでいたそうだ。だからそのいつかを期待し、夜遅くまで仕事に打ち込んでは自分を誤魔化し続けていた。
その結果、実の娘を見ないままに数年を経過させていた。
自分が家を留守にしている間、綾がおばさんの物を全て処分していたことにも気づかなかったというのだから、おじさんも深刻なほどに心を痛めていたのが窺える。
皮肉なことに、おじさんは綾も自分と同じ気持ちなのだと思い込んでいた。
親子なのに。同じ家に住んでいて毎日顔を合わせているのに。会話はできても少しも心は通じ合っていなかった。
おじさんが間違いに気づけたのは数年振りにおばさんの部屋へ入ったことがキッカケだったという。
家族を崩壊させたその場所はおじさんの記憶にある部屋と違って何も残っていなかった。そして綾が不必要なほどに綺麗にしているその空間へと足を踏み入れた瞬間、その異常性に気づいたという。
それからすぐに家の中におばさんの物が何一つないことに気づき、綾が購入していた洗剤を見つけた。綾が自分と同じ気持ちでないことを知ったおじさんはすぐにおばさんを忘れる決意を固め、綾に家を出ることを提案したのだ。
その結果、綾のあの部屋に対する執着は少し落ち着いた。
匂いもあまり感じなくなったと言っていた彼女。
おじさんが目を覚ましてくれたことで、彼女は少しだけ救われたようだ。
……でもまだ、完全な解決には至っていない。
彼女にしか視えない影はまだ存在している。
そしてそれは――。
そこでまたポンプ音が鳴ってアタシはハッとする。
「綾――」
堪えられなくなった。綾のいる洗面所へと入って彼女の背中に呼び掛ける。
「――もう4回目だよ」
鏡の中にいる綾を見つめる。俯いた顔の下、両手を泡まみれにしている。動かしていた手が止まって、水が排水溝へと吸い込まれる音が響く。
「……」
「やめられる?」
頷く綾は黙ったまま泡を水で流し落とすと、ようやく水を止めてくれた。
「ごめん――なかなか止められなくて」と自嘲するように言う。
水の音がなくなると、居心地の悪い無音がアタシ達を包んだ。
「気持ち悪いの……」
その静寂でひと際彼女の声が響く。映画館のトイレでも同じことをした綾は指先だけをタオルで丹念に拭いている。
何もなかった。
真帆がいたから大丈夫だった。
無理矢理触れられるようなことなんてなくて、起こったことはただ……男から好意を向けられただけのことだった。
でもそれはただの好意ではなかったのだろう。
持ち出してきたその中に悪意があったようだ。
それを感じ取ってしまい、異常な嫌悪感に苛まれた。
そして思い出してしまったのだろう。
家族を捨て、おばさんが選んだ男が……元々は街でおばさんをナンパしてきた男だったことを。
「……」
家に帰った今でも、不快感から逃れられずに苦しんでいる綾を見ていると……やりきれない不安に襲われる。
彼女は……。
彼女は――人を好きになることができるのだろうか?
『――向き合いたい人がいる』
間違いなくそれは愛海のことだ。
綾はやっぱり気づいてた。
そして確実に自分へと近づいてくる彼女の距離を感じ取っていた。
それを受け入れるようになる為に綾は前へ進もうと動いてた。
おじさんもやっと綾のことを見るようになった。
家を出ることになった。
不必要な掃除もしなくなって、匂いも感じなくなってきた。
いい方向に動いている……そのはずなのに。
アタシの中には不安しか生まれてこない。
向き合いたい人の為に必死で前に進もうとしている綾は、あの決意から進むどころか遠ざかっているように思えた。
「綾――」
声を掛けたのにぼんやりとしている。またアタシの目には映らない誰かの影を視ているのだろうか?
「綾――」
もう一度呼ぶ。ようやくこっちを向いてくれた。
彼女を支える為にアタシはここにいる。
目の前でずっと彼女を支えようと動いている。
それなのになんで……。
「……」
……愛海は向かって来れるのだろうか?
綾を見て恐怖に襲われやしないだろうか?
そうしていつかのあの子のように逃げてしまうのではないだろうか。
そして綾は……愛海の恋を受け入れられるようになるのだろうか?
どうすればいい?
二人の為にどう動いたらいい?
どうすれば……綾を救えるんだ?
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