第33話(陽菜編)前編

 通された部屋へ入ると、昼にも感じたあの洗剤の匂いだけが鼻を通ってくる。強い植物系の香りで少しキツイかもしれないが、耐えられないほどではない。

 綾が用意してくれたスリッパの音を鳴らしながら中を見渡す。彼女の言う洗剤の香以外の匂いはしないし、汚れなんてものもどこにも見当たらない。

 前と同じだ……。

 最後にこの部屋に入ったのは、中学を卒業する前。

 匂いも汚れもないこの空っぽな空間の中、綾は今と同じ洗剤を使って掃除をしていた。

 元々あった家具等の置物は全部当時の彼女が処分した。茶色のフローリングの上にも部屋を囲む白い壁にも物は何ひとつない。何もない部屋というものが、ただここに存在しているだけだった。


『何度やっても落ちなくて……』


 そう言っていた綾の手を、あのときのアタシはすぐに止めさせた。

 おじさんに言わないことを条件にもうやめると言っていたけれど、それは守られることはなかった。約束を破ってしまうほど、彼女のコレは止められなくなっていた。

 そのことに――今日になって気づいた……。

「……」

 鏡のように綺麗なフローリングを見下ろす。まるで業者が清掃したかのようなこの部屋は、おそらく家の中で一番綺麗な場所だろう。

 ここまでやっても汚れは完全に落ちないと言う。

 ……無理もなかった。

 ここで――おばさんは浮気相手といたのだ……。

 それを綾が目にした。

 娘や夫のいない時間に男を連れ込んだ女の本性をここで見てしまったのだ。本人は家に呼んだのは初めてだと言っていたらしいけど、実際どうかはわからない。

 アタシは嘘だと思ってる。おそらく綾もそう思っているだろう。そうでなければ、彼女がここまでの執着を見せたりはしない。

 ここで綾は呪いをかけられたのだ。

 目にしたもの、耳にしたもの、匂ったものは今でもふとしたキッカケで姿を現し、彼女に不必要な掃除を強要する。

 数年経った今も、彼女はそれにとらわれている。

 先ほど、アタシが外で見上げていた窓を見る。カーテンすらない窓にも曇りや汚れが一つもない。まるで鏡のようだ。

 窓ガラスに映る綾は左腕の肘に右手を添え、俯いていた。まるで親にイタズラが見つかってしまったときの子供のように見える。

 両端は網戸もせずに全開にしている。開けた窓から見えるのが薄い闇だけなのは、向かいの家の明かりがひとつも点いていないせいだろう。住人は不在にしているようだ。

 部屋にはもうひとつ窓がある。静かな風を送ってくる両開きのそこも全開にしていた。隣は空き地なので隣家は見えない。こちらも同じような薄闇を覗かせている。

 この窓の下にリビングの窓がある。昼はここから出た匂いが風に乗って下の窓に送られたようだ。

「――いつから、気づいてたの?」

 視線を下げたままで、綾は尋ねた。

「……今日の昼リビングの窓に近づいたとき。そのときに洗剤の匂いがしたんだ」

 顔を上げた綾は窓の方を見る。

「それまでは少しも気づかなかった」

「……どうして、そのときに言わなかったの?」

「匂いがしたのはほんの一瞬だったから、気のせいだと思ったんだ。だからあまり考えないようにしてたんだけど。時間が経てば経つほど気のせいじゃないって思うようになって……。喫茶店にいたときも、家に帰った後もずっと綾のこと考えてた……。そうしたら、こんな時間でも掃除してるんじゃないかっていう予感がして、それが頭から離れなくて……それで居ても立っても居られなくなってここへ来たらおばさんの部屋の明かりがついてたから……」

 それを聞いた綾は口を閉ざし、何かを考えている表情をする。

「――綾。今、次は気をつけないととか思ってない?」

 ピタッと少しだけ動きを止めた後、正直に答えた。

「うん。思ってた」

 無意識にそんなことを考えていたようだ。

 それを見て今日限りで完全にやめさせることはできないことがわかる。

「あと――そういうときの陽菜の予感が当たっちゃうのがコワイなって思った。こんな時間に掃除してるかもなんて、普通思わないよね」

「うん……そうだね。それは言えてる」

 自分でも不思議に思う。

 確信があったわけではない。でも今、綾があの部屋で掃除しているんじゃないかという予感は少しも頭から離れなかった。どうしても行かなきゃという気持ちに駆り立てられた。

「なんでだろうね……付き合い長いからかな?」

「そうじゃないと思う……」

 そう答えて綾は部屋の隅の方を見る。

「……同じ家で一緒に暮らしてた家族のことだって少しもわかんなかったんだから。一緒に過ごした時間の長さなんか関係ないよ」

「……」

 同じ方を見ながら、おばさんの顔が脳裏によぎる。

 あの人の浮気は発覚する一年以上も前から始まっていた。


『――大きくなったのね』


 アタシの身長がおばさんを超えたときに見せた、あの優しい顔。

 恥ずかしくなって照れたアタシの目に彼女は歪んで映っていなかった。

 今思い返すと、あの笑顔は恐ろしく感じる。

 あんな笑顔を出す人が隠れて男と会っているなんて……当時のアタシは少しも思わなかった。

 あのときはアタシも大人の汚さを知ったのだ。


「――同じ血を分けた家族でもね、本当に知ってることなんて半分もないんだよ。だから一緒に過ごした時間なんかじゃなくて、私が悪いことをしたから、陽菜との約束を破ったからだと思う。……悪いことってね、続かないんだよ。いつかはいろんな偶然が重なってわかっちゃうの。……陽菜にはいつか絶対バレるって思ってたんだ……」

「……」

 ……心底、自分にウンザリする。

 偶然の要素だけでここに来れたわけじゃなかったと綾に言ってやりたかった。ここに来れたのは、アタシがちゃんと綾を見るようになったからだと。

 金本と別れてからそうするようになった。

 別れなければ、きっと今も綾のことに気づかなかった……。

 そう言いたい気持ちを抑える。

「――おじさんは気づいてるの?」

 言いたい言葉をのみ込んで、別のものを出す。

 出してしまえば、自分が崩れてしまいそうな気がした。今は自分の後悔を話す場なんかじゃないと、自分自身に必死で言い聞かせる。

 ほんとに自分にはウンザリする……。

「……気づいてないと思う。お父さん、この部屋には絶対近づかないから」

 おじさんは娘とは逆にここを避けている。それに加えて仕事の忙しさで綾の行動に気づいていないのかもしれない。

 ……おじさんは大丈夫なのだろうか?

 離婚した後、おじさんの表情は綾とアタシに心配かけまいと平静を装っていたけれど、酷く落ち込んだ背中は誰の目にもわかるものだった。

 もしかしたらおじさんにも、おばさんの影が視えているんじゃないだろうかと、そんな予想が浮かんでしまう。

「――自分の思い込みだってことはわかってるの」

 綾はさっきからずっと部屋の隅の方を見つめている。そこに彼女にしか視えない誰かがいるかのように。

 一瞬、脳裏にこっちを見て微笑むおばさんの姿が浮かび、少しだけ身震いする。

「感じているものが全て幻覚だってこともわかってる。わかってるんだけど……でも、どんなに頑張っても、何度やっても必ず蘇ってくるの。ずっと続くんだろうなって、最近だと諦めの方が大きくなっちゃった。家を出ない限り、大人になってもずっとコレは続くんだろうね……」

 淡々と語る彼女の横顔が、僅かな影を作る。それが窓の向こうにある闇を連想させた。

「今日も――最後までやらないとダメなの?」

「うん。できれば邪魔しないでほしい。やりきらないと……眠れなくなっちゃうから」

「じゃあアタシも手伝う」

「いい。私にしかできないことだから」

 陽菜はもう帰ってと、アタシの手伝いはいらないことをハッキリと示す。

 そう言うだろうとは思っていた。

「じゃあさ。何も手伝わないし邪魔もしないから終わるまで待ってていい?」

 そこで、と部屋の外の暗い廊下を指さす。

 指さした先を見ながら、綾は理由がわからないといった顔をする。

「綾が終わるのを見届けないと、アタシも眠れない」

 そう言うと綾は少し驚いた顔でアタシを見る。

 そして「――ありがとう。じゃあ、ちょっとだけ待っててね」と、少しだけ微笑んでくれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る