第34話(陽菜編)後編


「陽菜。匂い大丈夫?」

「平気―」

 部屋の外。暗い二階廊下で体育座りをしながら、綾の掃除が終わるのを待っている。

 声が聴こえるように部屋のドアは僅かに開けてある。ドアの隙間から漏れる僅かな光が、アタシがいる暗い空間に小さな線を引いている。

 ドア一枚隔て、互いに顔を見合わせていない状態でも普通に会話ができた。途中で話すことがなくなっても、無理して会話を続けようとするところはどちらもない。

「………………」

「………………」

 言葉がなければ綾は掃除に集中し、アタシはぼんやりとする。話すことがないのなら、好きなように過ごせばいいと、互いに了解していた。

 綾がやっていることを止めようとは思わない。無理にやめさせても、彼女はアタシがいなくなった後で必ずやる。それならやり終えるまで傍にいてあげたほうがいいと思った。彼女が納得するまで待つことにした。

「そういえばさ、猫のキーホルダーって本当に買おうと思ってたの?」

「……ううん。可愛いとは思ったけど、買う気はなかったよ。……そこも気づいてたんだ?」

 やっぱり、あれはフェイクだった。

 アタシに何を見ているか聞かれたときの対策だったのだ。

「気づいたの今日だけどね。あのとき本当は掃除用具か何か見てたの?」

「この洗剤の購入を考えてた。もうひとつ候補があって、どっちにしようかなーって性能見ながら悩んでた」

「わざわざ通販アプリまで開いてたなんて、準備がいいね」

 綾から洗剤の匂いがしなかった理由といい、バレないように徹底していたことに驚く。

「陽菜に怒られたくなかったからさ。……でも意味なかったね。見破られちゃったし」

「いや、上手く隠せてたよ。今日まであまり気に留めてなかったし。昼にその匂いを嗅いでなかったら、絶対気づかなかったと思う……」

「――この匂いもよく覚えてたよね。結構前のことなのに」

「それは結構印象に残るよ。――そういえばそれ、お隣さんから苦情とかないの?」

「今のところは大丈夫かな。右隣は空き地だし、左隣はこの部屋から家まで結構離れてるから、匂いは届いてないと思う」

「なら大丈夫か……」

 そこでハッとする。

 なんか、いつも通りな感じになってるな……。

 互いに緊張もなく、いつも通りの自然な会話ができている。

 電話をかけたときは、あんなに緊張していたというのに……。

「綾。学校ではさ――おばさんの影とかは視えたりしないんだよね?」

 高校入学してから今までにそんな様子は見たことはないが、念のために尋ねる。

「学校ではないよ。偶にちょっとしたキッカケで思い出すことはあるんだけど、眩暈を起こすほどじゃないから、普通にはしていられるかな」

 家の中とその周辺でしか影は出ないんだと、綾は話す。

「そっか……」

 じゃあ……綾が家を出たら、全ては解決するのだろうか?

 いや、どうだろう。そんな簡単なものではないような気がする。

「ねえ、陽菜?」

「んー?」

「――どうして怒らないの?」

「……約束破ったこと?」

「……うん」

「怒らないよ」

「……どうして?」

 怒れないよと、心の中でつぶやく。

 廊下に差し込む光の線が、ゆらゆらと揺れているのを目にする。綾がいる部屋に入った外からの風が、微かにドアを揺らしているのだろう。

 その不安定な光に向かって言う。

「――綾のこと、ちゃんと見てなかったから」

 この一年彼女を見ていなかったことに今さら気づいた。


『――少しも気づかなかった』


 さっき言った自分の言葉。

 自然に出た言い訳。

 ……ちゃんと見ていたら、気づけたはず。

 大事な人を見ようとしなかった。

 気づこうとしなかった。


 そんなアタシが綾に――何を言える?


「……」

 綾は何も言わなかった。

 多分、黙ってモップを動かしてる。アタシは光の線ではなく、暗い廊下の隅にある闇を見ていた。周囲の黒をかき集め、隅っこで大人しくしているそれをぼんやりと見ていると、そこから何かが浮かんでくるように思えてくる。

 視えてくるものがあるとしたら、なんだろうか。

 考えてみる。

 幽霊、おばさんの影、それとも――自分の後悔か。

「……」

 どんな嫌なものでもいいと思った。

 何が出て来ても、今のアタシは目を逸らさずに向かい合う。

 来るなら来いと、闇を見つめた。

 逃げることだけは絶対にしない。



 綾の掃除が終わり、一緒に夕飯を食べてから綾の家を出た。

 自転車には乗らずに押して帰り道を歩く。静かな夜が覆った住宅街の中で回る車輪の音だけが流れていた。明かりを点ける家が多いはずなのに、不思議とどの家からも音は聴こえてこない。

 そんな静かな夜は自分に過去の再生を行わせた。


『――もう、大丈夫だから』


 浮かんでくるのは綾の声。

 彼の所へ行ってあげてと背中を押してくれた一年前の……あの声。

 それが頭の中で響くのは自分への戒めだ。


 大丈夫じゃなかった。

 綾は……ずっと進めていなかった。


 どうしてそれに気づかなかった?

 なんでちゃんと彼女を見ようとしなかった?

 足を止め、俯いて目を閉じる。

 答えはもう……とっくにわかっている。


「恋なんて、選んだからだ……」


 開いた口から出た答え。

 口に出したのは、心の中だけでなく体全体にその言葉を沁み込ませるため。

 自分のことばかりで少しも綾を見ようとしなかった。

 小さな溜息が漏れた後、抑えていた後悔が体中を震わす。

 そして開いた目から落ちた水滴に思わずハッとした。

 夜道の中でも確かに見えたそれ。

 彼氏と別れたときには一滴もでなかったものが親友を想うだけで簡単に落ちて、本当に大事なものをアタシの瞳に示す。

 ああ……ちくしょう。

 本当に自分に腹が立つ。

 アタシは……アタシはなんで……。


 なんでアタシはあのとき……恋なんてしてしまったのだろうか。

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