第32話(綾編 後編)
自室のベッドで横になっている。
眠っていたわけではなく、何も考えずに目を開けたり瞑ったりを繰り返していただけだった。
アレを引き起こしてしまったときは、収まるまで待つしかない。
だいぶ落ち着いてきた……。
どれぐらい時間が経っただろうかと、スマホに手を伸ばそうとするとスマホが光を発した。
多分、お父さんだ。
今日は家に帰らない日だから心配して送ってきたのだろう。
一言だけ返事を送る。返事さえ送ればお父さんは安心する。
起きよう……。
上体を起こし、部屋を見渡して眩暈がないことを確認する。
大丈夫。もう動ける。
深夜かと思ったけど、まだそこまでの時間帯ではなかった。
夕飯の時刻はとっくに過ぎている。でも食欲はない。食べないといけないけど、先にやらなければならないことがある。それが終わるまでは何も口にする気にはなれない。
昼にやっていた掃除の続きをしようと服を着替える。
今日は陽菜がいきなり家に来たから途中までしかできなかった。
準備を済ませ、あの部屋へと向かう。
ドアを目前にした際少しだけ躊躇ったものの、ドアノブに手を掛け一気に開けた。
うわ……。
入った瞬間、マスク越しからでも感じる匂いで顔が引きつる。
また匂いが……。
予想よりも酷い。昼に使った洗剤の量が足りなかったせいだろう。
急いで窓を開け、電気を点ける。
……イライラする。
窓の傍に置いてあったペール缶とモップに手を伸ばす。昼に陽菜が家に来てから、そのままにしていたものだ。
ペーパーモップと掃除機は昼にかけたけど次が途中のままだった。
缶の中にある液体をモップに付け、匂いの発生源である部屋の隅の方からフローリングの床を洗浄していく作業。
半分やったけど、またいちからやりなおした方がいいと思った。思った以上に匂いが強い。
部屋の隅から隅まで丁寧に磨いていく。部屋はあまり広くはないけれど、入念にしなければ匂いはとれない。
二時間くらいかな……。
本当はやりたくないけど、やらないとこの匂いは消えない。この部屋だけで済むならいいけど私の部屋まで来そうな気がしてならない。
それが一番怖い。
考えただけでも吐きそうになる。
そうならないよう、意識して手を動かし続けた。
洗剤の匂いが部屋に充満するようになってきた。
あともう少しだ。
この匂いも苦手だけど、部屋の匂いに比べたらこっちの方がましだ。
スマホで時刻を確認する。予想よりもペースが早い。やっぱりこの洗剤に買い直しておいて良かった。
二年前にも使っていたこれは業務用洗剤なので通販でしか手に入らない。汚れは落ちやすいし希釈倍率も高くて万能だけど、独特な匂いがキツい。
そのせいで中学の頃、陽菜に気づかれてしまった。
もうやめることを条件にお父さんには言わないでおいてくれたけど、やめることはできなかった。バレないようにと匂いのない別の洗剤を今まで使っていた。
約束を破ってしまったことに罪悪感はあった。
けど止められずにこの一年はいろんな洗剤に手を出していた。ネットの評価を参考にして、市販業務用問わず住居用洗剤を色々と使ってはみたけれど、効果は期待したほどのものではなかった。
台所用洗剤もダメだったので迷ったけどこれに戻した。
これで良かったと思う。家に誰もいないときでないと使えないけど、洗浄力が高いから今までよりも早く終わらせられる。匂いの問題はあるけれど、昔と違って家には誰もいない日の方が多い。だからあまり心配はない。
これからもこれにしようと思ったとき、モップを動かしていた手が止まる。
「……」
今日、陽菜が突然来たことを思い出したからだ。
あれは驚いた。この洗剤をまた使い始めてからいきなり陽菜が家を訪ねてきたのだ。偶然とは思えなかった。
本人はスマホを家に置いてきたから直接来たと言っていたけど、全部バレているのではないかと内心ヒヤヒヤしていた。
宅配かと思って確認もせずにドアを開けて陽菜の顔を見た際は、一気に心臓がドクドクと動き出した。頭の中も真っ白になりそうだった。
気づかれてないとは思うけど……。
あのときは自分の体から洗剤の匂いはしなかったはず。偶々部屋から出ていたし、いつもこの部屋を掃除する際に羽織っている服も脱いだ。玄関から出る前は消臭スプレーも使っていたし、大丈夫なはず……。
陽菜はずっとリビングにいた。この部屋の窓も全部閉めた。
喫茶店でも……彼女からは何も言われなかった。
多分、気づかれてない……だからあまり考えない方がいい。
これ以上気にすると余計に気づかれる。次に陽菜と会ったときは、彼女の顔をあまり見ないようにしよう。
そして次からは、家に誰が来たかちゃんと確認してからドアを開けないと――。
そう思っていたそのとき、突然スマホが着信を鳴らす。
やけに大きく響いた音のせいでびっくりした。静かな室内で鳴ったせいか、大音量で鳴ったように聴こえた。
お父さんかなと、ポケットからやけにうるさいスマホを取り出す。そして覗いた画面に表示された名前を見て更に驚かされる。
「――陽菜?」
画面を凝視する。
室内が着信音だけでいっぱいになる。塞ぎたくなるほどの耳障りなそれが、嫌な予感を想起させる。
どうしようか迷っていると、着信が切れた。
ホッとした。
……後で電話しよう。
そう思ったのも束の間だった。また陽菜からの着信が来る。
「……」
もしかして、何かあったのだろうか?
一瞬そうは思ったものの、違うような気はする。
鳴り続けるコール音が、私を逃がさないと言っているように聴こえる。おそらく、これを無視しても三回、四回と続けてかけてくる。
それも応じなかったら……陽菜はここまで来るかもしれない。
電話に出よう……。
ゆっくりと指を画面に近づける。受話器を取るボタンを指でタップし、スマホを耳に当てておそるおそる声を出した。
「……はい」
「綾――今何してる?」
唐突な質問。
「……」
問い詰めるような声に、言葉が詰まる。
ああ……これはもう気づかれてる。
嘘はつかない方がいいと思った。
「……掃除してる」
「どこを?」
「……あの女の、部屋」
少しの沈黙を挟み「――そっか」と、陽菜は穏やかな声を出す。
もし……少しでも嘘を吐いていたら、陽菜は何て言っただろうか。想像するだけでもこわい。
「――今、家の前にいるんだ」
そう言われ、マスクと被っていたフードを外した私は、スマホを耳にあてながらゆっくりと部屋の窓の方へ近づく。カーテンのない開いた窓から見下ろした先、門の前で陽菜が自転車の横で私を見上げていた。
「――入ってもいい?」
こっちを見上げながら、スマホを耳に当てて話す陽菜。私も同じようにして話す。
「……汚れちゃうよ?」
匂いは大分とれたと思うけど、それでもいいの? と尋ねる。返答は早かった。
「綾、大丈夫だよ。汚れも匂いも、もうとっくに消えてるから」
彼女はそれ以上何も言わず、黙って私の方を見て待つ。
「……うん」
頷く。反論なんて何もない。
「……そうだね……」
目を閉じて、今度は小さく頷く。
情けなくて、涙が出そうになる。
「そうなんだろうね……」
陽菜の言う通りだった。
そんなもの……もうあるわけがないんだ……。
電話を切ると、彼女をこの部屋に招く為に玄関へと向かった。
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