第31話(綾編 前編)


 帰り道の途中で陽菜と別れ、真っ直ぐに家を目指して歩く。

 見上げた空に眩しさはもうない。日はとっくに沈み、夜が全体を覆い始めている。遠くの山の上で微かなオレンジが滲み出ているのを目にした。


『――金本と別れたんだ』


 今日、喫茶店で苦笑しながら陽菜は話した。

 悲しんでいるようなところは少しもなかった。彼女の中で、恋人だった彼はもうどうでもいい人になっていたことがわかる。

 今後、陽菜が金本君を想うことは二度とない。

 陽菜とは逆に金本君は謝ってやり直しをしようと提案してきたという。陽菜から別れを切り出されてから、ようやく彼は行動を起こしていた。

 不思議に思う。

 どうして、彼はもっと早く行動できなかったのだろうか。

 傍から見ても、二人の関係はどうにかしなければならない状態だった。両想いで恋人となったはずなのに、彼は陽菜のことをちゃんと見ていなかった。むしろその必要がないと言わんばかりに、見ようとしなかったような気がしてならない。陽菜が自分から離れることはないという自信でもあったのだろうか?

 彼が酷く――滑稽に見えてならない。

 陽菜には後悔しているようなところは少しもない。

 だから別れて正解だったのだ。

 ホッとした。良かったと、そう思ったと同時に彼女の恋が本当に終わったことを実感する。

 ……。

 気が付くと、視線の先にあったオレンジは全て闇にのみ込まれていた。

 残さず食い尽くした闇が世界を完全に覆っているのを見ながら、私は胸の奥からゆっくりと浮かんで来るものを感じている。

 …………。

 それは寂寥感といったものではなく、あるひとつの疑問だった。


 ねえ――陽菜?


 喫茶店で、目の前に座っていた陽菜の顔を思い出す。

 あのとき口に出せなかった疑問は、心の中でここにいない彼女に向けられる。 


 恋をして――何が良かったのかな?


 辿り着いた家の門の把手に手を掛けたと同時に心の奥底から浮かび上がった疑問が体中に響く。

 その疑問に、足首を掴まれたかのように体が止まった。フーッと、この時期に合わない冷たい風を首から感じる。

 静かに髪が流されるのを意識しながら、把手に掛けた自分の手を見つめる。

 そこに答えがあるかのようにジッと……。


 陽菜の恋が始まった一年前。

 恋をしている彼女の顔を目にしたとき、我が目を疑った。

 恋した相手のことだけを追い求める……あの曇った瞳に赤い頬。

 似ていた。母だったあの女の顔と……。

 とても醜いと感じていたものと重なってしまった……。

 親友をそんな風に見ていた自分を恐ろしく思った。

 勝手な思い込みは頭を振っても消えることはなく、自分の奥底へと張り付いて声を出す。

 陽菜も、あの女と同じだと思いかけてあの頃の私は違うと否定した。

 陽菜の恋はあんな汚いものではない。

 私が見たものとは違う……絶対に違うんだと声を上げて耳を塞いだ。

 そう思ったから。だから、一年前の私は迷っていた陽菜の背中を押して恋を選ばせた。

 それは私の心配ばかりしている陽菜に自分のしたいことをしてほしいという気持ちもあった。

 けど本当は……実らせた恋が見せてくれるものを知りたかった。

 どんな輝きか陽菜に見せてほしかった。

 ずっと醜いと感じていたものが、そうではないと否定できるものがあることを教えてほしかった。

 それなのに……実ったはずの陽菜の恋はすぐに終わってしまった。

 お互い通じ合っているように見えた二人は少しも通じ合えていなかった。

 陽菜の恋からは何も見えなかった。

 陽菜の恋は彼女を幸せにはしなかった。

 辛いことだけ、嫌な思い出を与えられただけ。

 それだけだった……。

 陽菜は……。


「――恋に、傷つけられただけだ……」


 望んでいたものを目にできないまま、別のものが出て来る。

 口から出て行ったそれは、脇をすり抜け静かな夜へと溶けていった。

「……」

 頭の中で、ぐるぐると何かが回り始める。

 形も色も見せないそれが回るのを感じ、慌てて手を動かす。ガチャリと静かな世界の中で響く門の音。ギィーッと、開いた門の音が心を縛っているように聞こえる。

 いけないと、門を閉めた後に動かした足はどこか他人のもののように一歩、二歩と不安定に動く。視界もフラフラとしてきた。

 油断すれば倒れそうな二本の足はなんとか玄関のドアまで辿り着かせてくれた。

 ポケットから取り出した鍵を鍵穴に差し込もうとした際、自分の手が震えていることに気づく。

 大丈夫。大丈夫だからと言い聞かせながらなんとか鍵穴に通した鍵。

 回してガチャリと音を立てさせる。


「恋……」


 鍵から手を離すと、そう呟いていた。

 口から出たそれは外に吐き出したものなのに風に流されるでもなく体内へと戻り、奥底へと進んで行く。

 水の中を落ちていくようにゆっくりと深く沈んでいったそれは底へと辿り着くと、音を立てずに横に倒れた。

 そうして自分の体の中にその意味を沁み込ませるようにして、その言葉は溶けていく。


 恋。

 人を、欺いてきたもの。

 夢と理想をたくさん混ぜただけの、空っぽなもの。

 綺麗にみせて、とても汚いもの。


 どうしてこれが人を幸せにすると大人は嘘を吐くのだろうか?

 幸せにするよりも傷つけたり、壊したりすることのほうが多いのに……それなのに、どうして嘘だらけの絵本やドラマを作って、私達に夢と幻想を見せるのだろうか?

 大人はいつだってそうだ。

 いつだって本当に汚い物を後ろで隠して、私達子供には綺麗なものばかりを見せつける。

 そうやって油断して、背中を見せた私達を見てどう思っているのだろうか?

 自分の汚さがバレずに済んだと、ホッとしてる?

 嘲笑ってる? 現実を知って落ち込む私達の姿を見て、愉快だと笑ってる?

 ……何で気づかないのかな?

 そうやって自分を隠して、子供に愛を説いてる姿が一番醜いのに……。

 大人が子供に与えたものなんて、そのほとんどが夢で幻想だった。

 恋はいろんなものを壊す……。

 恋は暴力的で平気で人を傷つける。

 だから陽菜も傷ついたんだ

 そうやって、私の家も壊したんだ……。



「……ただいま」

 微かな眩暈の中、自然と口に出た言葉。

 誰もいない、真っ暗な玄関の中で呟くのはこれで何回目だろうか。

 榎本と表札に書かれた一軒家。

 ここには、幼い頃の私が求めていたものが全て揃っていた。

 自分の部屋。家族が集まるリビング。花を育てられる庭。あの女と一緒に肩を並べられるキッチン。

 それら全てが幼い私の求めていたものだった。

 それがたったひとつのキッカケで不要になってしまうのだということを、あのときの私は少しも考えたことはなかった。

 ずっと、この家で幸せが続くと思っていた。

 三人住まいだったこの家は今、とても広く感じる。

 いらない場所が多かった。

 誰も来ないリビング。何もない庭。広すぎるキッチン。


 そして――母だったあの女の部屋……。


 一番いらない部屋だった。

 それだけで家自体をいらないと思うことが何度もある。

 それだけ捨てることができるのならよかったのに、家の一部になっているせいでそうすることができない。私が家を出る以外に目の前からあの部屋は消えてくれない。

 自然に消えることなどありえない。人の手でどうにかしなければ、あの部屋はいつまでも存在し続ける。

 私が死んでも――あれは残る。

 どうすればいいか、数年前の私は必死で考えた。

 考えて考えて考えた。

 そうして浮かんだ答えは、綺麗にすることだった。

 あの部屋にあるものを全て消せばいい。

 目にした不快な匂いも汚れも、全て消せばいいのだと思った。

 すぐに実行した。すぐに終わらせるつもりだった。

 それなのに……。

 何時間も、何日もかけてやったのに……。

 どんなに消しても、匂いも汚れも完全にとれなかった。

 必ず蘇ってくる。どんなに頑張っても完全に消えてくれない。

 何度も心を折られた。

 一度、目を背けて何かに没頭して逃げることも考えてみた。けどこの家の中でやれることなんて、やりたいことなんて何もなかった。

 昔やっていた習い事は全部やめた。どれもあの女に勧められてやっていたものだった。

 続けていれば、自分があの女になってしまいそうな気がして怖かった。二度とやりたいとは思わない。

 新しく何かを始めてみても、続けることもできない。

 諦めて逃げて、部屋で横になっているだけの日々しか過ごせていない。暗い家の中でじっとしているだけだった。

 あの女が家を出てからずっと、止まっていた。

 今になっても進めなかった。

 母だったあの女の影が、私から離れてくれない。


『――好きな人ができたの』


 生まれて初めて、家族に嫌悪感を抱いた。

 頭の中にこびりつく、母だった女の顔と声。

 なんの罪悪感もなくあの女はそう言った。

 鮮明に蘇る、私と同じ顔。


『わかってほしい』

『私についてきてほしい』

『綾と離れたくない』


「なに……言ってるの?」


 お父さんはあんなにあなたのことを想っていたのに?

 仕事が終われば、いつも真っ直ぐ家に帰ってくるのに?

 私やあなたの誕生日も結婚記念日も大事にしていた。

 仕事で家に帰れないときも、家を空ける日も電話は必ずしてくれた。口数は少ないかもしれないけど、私達家族を大事にしている優しいお父さん。

 そんなお父さんを……どうしてあなたは裏切ったの?


『――恋したの』


 胸に、ヒビが入った。

 ……恋?

 ……ねえ? 何、言ってるの?

 恋って……?


『――あの人に、恋したの……』


 そう言って顔を両手で塞ぎ、ボロボロと涙を落とす。

 彼女が想っていたのは、実の娘でもなければ夫でもなく、家族の誰も知らない男。

 それを聞いて私の胸からもボロボロと何かが落ちていった。

 一枚ずつ、落ちれば落ちるほどに、何かが失っていく感覚がした。


『――綾。お願い……』


 彼女から名前を呼ばれる度に、胸を踏みつけられている気がした。


「――ふざけないで!!」


 現実にも発した声が幻をかき消す。

 それが良かった。

 なんとか幻覚から逃れられた。

 耳に入って来るのはあの女の声ではない。玄関中に響く自分の荒い息。

 片手で頭を押さえながら、慌てて周囲に目をやる。

 私を出迎える影はない。

「……はぁ…………はぁ…………はぁ…………」

 耳に鳴る自分の息。

 あと何回……これを繰り返すのだろうか。

 思い出すだけで今もこんな状態になってしまう。誰もいない玄関で、一人意味のない怒りを投げている。もうここにいない人に何度もそれをやっていた。

 無意味だとわかっているのにそれを繰り返す。

 その度に感じる自分の惨めさ。もうやめろと怒鳴るもう一人の自分。

 目を閉じる。

 わかっているのに、わかっているのにどうしてと……。


『――綾』


 ああ……ダメだと、その場でしゃがむ。

 回ってきた視界。そしてすぐ近くで影が出て来るのを感じる。

 目を塞いでいてもわかってしまう。

 狂った女の顔がこっちを見ていることを。


『おかえりなさい』と声が聴こえる。


 また……引き起こしてしまった。

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