第29話(真帆編 後編)


 私達の無反応に怒った愛海は、先にテントで寝てしまった。

 残った私と志穂はしばらくの間、焚き火を囲っていた。特に話すこともなく、火を眺めながらボンヤリとした時間を過ごす。

 志穂がずっと火を見つめている間、私は志穂の顔を何度も盗み見た。

「……」

 赤色に照らされている彼女の顔。

 それを見て、さきほどの彼女の横顔を思い返す。

 うーん……。

 どうしようかしばらく迷った。



 よし。聞こう。

 ようやく決断できたその瞬間、パチンと大きく爆ぜた音が響く。

 それが合図となったのか「そろそろ寝よっか」と志穂は提案。出鼻を挫かれたと思った。

「――そうだね」と、二人で焚き火の後始末を始める。

 火を消し、残った灰をスコップを使ってバケツに入れる。底ヶ浜キャンプ場では灰は管理棟にある灰捨て専用のゴミ箱に捨てることができる。

「ちょっと悪乗りし過ぎちゃった」とスコップを動かしながら反省する私に志穂は微笑む。

「大丈夫。愛海が本気で怒ってたらあんな怒り方じゃないよ」

「それでも明日謝る」

「そうだね。私も一緒に謝ろう。じゃないとしばらく愛海がウチに来てくれなくなるかもしれないし」

 愛海シェフの手料理が食べられなくなるのは痛いと、志穂は心配そうな顔をする。以前から噂は聞いていたが、そんなに凄いのだろうか?(ちなみに今日は焼肉だったせいか、愛海の実力は発揮されていない)

「そんなにおいしいの?」

「一度は食べた方がいいよ。こだわり女子だから一味違う」

「何作らせても?」

「いや、極めたやつだけ。それ以外は普通だよ。でもなぜかソーメンは固くて超マズイ」

 時間を決めて茹でるだけのものなのに、なぜか失敗してしまうという。不思議な話だ。

「作ってもらうとしたら、何がおススメ?」

「オムライスと言いたい気分なんだけど、真帆は辛いのが好きだから麻婆豆腐がいいと思う。あれもヤバイんだよねー」

「まーぼーどうふぅ?」

 愛海が麻婆豆腐を作る姿が想像できない。

「一応聞くけど『クックダァー!』とか使ってるわけじゃないんだよね?」

『クックダァー!』とは合わせ調味料のことである。全国の主婦の頼れる味方でスーパーでもコンビニでも売っている。

「実はそうでしたとかだったらおもしろいんだけどね。でもウチはクックダァーかなり極めてるから、もし使ってたとしたら一口でわかる」

 鈴木家ご用達だというクックダァーは、麻婆豆腐なら甘辛から激辛まで何度も作ったことがあるから味を覚えているらしい。

「――ということは最初から最後まで全部愛海がやってるんだ?」

「実際調理してるところを隣で見たことあるし、一口食べたらわかるよ。あの味はクックダァーじゃ絶対出せない」

「どんな味だったの?」

「わかりやすく言えばそうだな……辛さと痺れと香りが超絶気持ちイイって感じ」

 全くよくわからない感想だった。



「――よし、こんなもんでいいか」

 灰をバケツに入れ終え、二人で管理事務所へと向かった。そこまでの道はLEDのランタンがなければとても歩けない暗さだ。

「真帆。怖くない?」

「隣に誰かいれば私は平気」

「そっか」

「愛海はすごい怖がりそうだね。夜トイレとか大丈夫なのかな?」

「昔はよく起こされてたけど、もう高校生だし大丈夫でしょ」

「小さい頃に愛海とここへ来たって言ってたね」

「うん。なぜかまなママを起こさずに私を起こしてたんだよ、あのおチビちゃん」

「アハハ。志穂ママだね」

「まなママは私の苦労も知らずにグースカ寝てたのを今でも憶えてる」

「憶えてるんじゃなくて、恨んでるんでしょ?」

「あたりー」

 昔から志穂は愛海に愛されてたのか。

「真帆は家族でここにきたことあるの?」

「ううん。家族キャンプはいつも隣県まで行く。県内は二つぐらいしか行ったことないよ」

「真帆のおじさんがソロキャンするときも県外まで行ってるの?」

「お父さん一人のときは県内だよ。ソロ用のキャンプ場があるんだ」

「え? ソロ用とかあるの?」

「年に2回くらい行ってるよ。キャンプ場の名前は忘れちゃったなー。スマホで検索してみたら? 有名な所らしいからすぐ出ると思う」

「よし、じゃあ次の候補として考えるか」

「女子一人で行くの怖くない?」

「熊とか幽霊はそりゃあ怖いけど、周囲にキャンパーがいれば平気かな」

「いや、そういう意味じゃなくて……」

 志穂の足元から顔までをザッと一瞥する。彼女の中では襲われるという心配は微塵もないのだろうか?

 これは愛海が心配するわけだ。

「大丈夫だよ。ネット見ると結構ソロキャンプやってる女子いるし」

「うん、まあそうなんだけど……」

 実際、ソロキャン女子は何度か見たことはある。

「動画上げてるとあるソロキャン女子なんて、もっと凄いキャンプ場に行ってたよ」

「どんなところ?」

「熊が出没しやすくて、しかも夜は心霊スポットにもなるっていうヤバイところ」

「最恐だね。そしてそこがキャンプ場として経営しているところが凄い」

 そんな話をしたせいか、何か出てきそうな気がして怖くなってしまう。歩道のすぐ隣にある林の中の闇を見ると、何かと顔を合わせてしまいそうで怖い。

「――大分寒くなってきたね」

 意識を別な方向に向けようとそう呟いたわけだが、寒くなってきたのは確かだ。家から車で一時間以内で来れる場所とはいえ、ここまで気温に差があるとは思わなかった。

 予備の上着があるから私は平気だけど、愛海は大丈夫だろうか。戻ったら愛海が寒がっていないか確認しよう。

「そういえば真帆って冷え症だったね」

「うん。末端冷え性。冬はこたつないと生きられないタイプ」

「そのせいか冬はあんまり一緒に遊ばなかったね。初詣も行かなかったし」

「あれは家の用事で行けなかっただけ。雪合戦はちゃんと参加したでしょ?」

「あーあのときは大変だったなー。郁美と真帆がすっごい厄介だった」

 グッパーで二手に別れ、相手が降参するまで雪玉を投げ合うという遊びをしたのだが、開幕から10分もしない内に雪塗れの志穂と愛海が白旗を揚げた。

「もしかしてまだ根に持ってる?」

「私はちょっとで愛海はかなり」

 愛海の提案で始めたことだというのに、そこまで恨まれているとは思わなかった。

「――ということは年明けにリベンジ来そうだね」

「やる予定らしいよ。負けず嫌いだからね。あの惨敗の後、来年に向けて対策を練ろうとか言い出してきて怒りを鎮めるのが大変だった」

「アハハ。可愛い」

 管理棟に到着したので灰を処分し、ついでにトイレにも行っておく。夜中に一人でここまで行くのは避けたい。

 トイレから出ると、志穂が管理棟の前で空を見上げていた。

「どしたの?」彼女の隣に立って尋ねる。

「失敗したなーと思ってさ。満月に来ればよかったよ」

 残念そうに空に向かって呟く。今すぐに月を出せと横顔が文句を垂れていた。

「あーなるほど」と同じように空を見上げる。

 しかし月はなくとも僅かだが星が見える。不満を呟く空ではないと思った。風もなく静かな夜でこれくらいの星が見えるのなら、十分だ。

「――満月求めるなんて贅沢だなぁ」

「えーだってさー。満月の下でキャンプとかの方が絶対カッコイイじゃん」

「うーん……別になくても十分カッコイイと思うけど」

「いや、絶対あった方がいい。だから今度は満月の日を狙う」

「じゃあ、そのときはみんなで行こうよ」

「いいね。花火大会のメンバーで行こう。でもさすがにテント足りないか」

「うちの大型テント持ってくから大丈夫だよ。シュラフもあるし、4人までなら入れる」

「じゃあ私のテントに二人入れれば行けるね。足りないキャンプ道具は真帆から借りればいいし、実現可能だ」

「志穂。バイト代入ったらちゃんとキャンプ用に貯めといてね」

「愛海みたいなこと言うな」

「アハハ」



「愛海、寝てるかな?」

 管理棟から戻ってテントの中を覗くと、シュラフに包まれた愛海が寝息を立てて静かに寝ていた。いい夢を見ているのか少しだけ顔がニヤついている。

 うーん、不気味。

 これから彼女の隣で自分のシュラフを取り出さなければならない。あまり物音を立てないようにしなければと、テントに入ろうとすると、

「愛海もう寝てるし、こっち来れば?」と小さな声で志穂が誘ってくれた。

「え? でもシュラフこの中にあるし」

「私のシュラフ二人用だよ」

「二人用? 随分大きめなの持ってるね」

「昔母さんと使ってたやつだからさ」

 そう言われ、志穂のお母さんが彼女が小学生の頃に死んだという話を思い出す。

「……いいの? 思い出の品じゃないの?」

「全然いいよ。本当に大事な思い出の品は家で保管してるし。破れても全然オッケー」と彼女は微笑む。

「――なら、お言葉に甘えようかな」

 志穂のテントの中に入り、寝る準備を済ませた私と志穂は一緒のシュラフに入る。

「結構広いね」

「愛海入れてギリギリ三人までいけるよ」

 じゃあ寝ようかと、志穂は腕を伸ばしてランタンの明かりを消す。

「おやすみー」

「おやすみ」

 それから五分ほど、流れる暗い沈黙の中で私はずっと目を開けていた。

 目はもうとっくに暗さに慣れている。

 向かい合って寝るのが恥ずかしいせいか、互いに背中を向けた状態だった。広いシュラフなので体がくっつくようなことはないけれど、志穂の体温はシュラフ越しに伝わってくる。

 寒くはないし窮屈さもない。居心地は良かった。

「――ねえ、志穂」と愛海に聴こえないように声を出して、志穂の方を向いた。いつの間にかポニーテールをほどいている彼女の背中が「んー?」と返す。良かった。まだ起きてる。

「あのさ――」

 聞きたいことがあった。

「なんじゃい」と志穂がこちらに体を向けて私と向かい合う。

 そうしてまた。予想外のことに出遭ってしまう。

「どしたの?」と優しく微笑む彼女を見た私は本日二回目の不意打ちに遭ってしまった。

「……」

 ――ドキリとした。

 暗くても、しっかりと見える髪を下ろした志穂の姿。

 私よりも10センチほど背が高く、普段の言動から男の子みたいだと思っていた彼女が今までに見たことのない女の顔でこっちを優しく見つめている。

 彼女からしたらなんのことはない普通の仕草。

 でもそれに今、魔法がかかっている。

 自覚のない、彼女を見る私にだけ特別を与えている。

 それが宝石の様だと思った。

 ――大人びているなとは思ってたけど……。

「――ん? どしたの?」

 得したような気分になったのと同時に悔しくも思った。

 私のできるささやかな抵抗は気持ちを悟られないように冷静に努めることだけ。そして噛まないように注意する。

「――さっきさ、愛海の告白を聞いた時のことなんだけど」

 う、と志穂の顔が険しくなる。痛いところを突かれたというような表情かお

「どうして固まってたの?」

「……真帆だって、固まってたじゃん」

 口をすぼめる志穂。全くもってその通りだ。

「うん。同じくらい固まってたね」

 そしてあのとき、俯いた志穂が僅かに見せた表情。

 あの意味が知りたかった。

「あのさ……せーので言わない?」

 あのとき私達が彼女に対してどんな気持ちを抱いたかを――。

「……」

 少しの間、志穂はじっと私を見つめる。

「――笑い無しでマジで言うの?」

「うん、マジで」

 うーんと苦い顔。これは無理かな。

「――いいよ」

 無理、と一蹴されるかと思っていただけに意外だった。

「でも言ったらそれから先はもうなーんも喋んない。絶対寝ること。そして明日には全て忘れること。それが約束できるなら言ってあげる」

 なるほど、と私は理解する。

「わかった。約束する」

「じゃあ真帆が合図して」

「うん。じゃあいくよ? せーのっ――」



 ようやく言い終えた志穂は、慌てて背を向けると宣言通り一言も喋らなくなってしまう。

 長い髪で隠れているけれど、彼女の耳は真っ赤になっていることは間違いない。背中をつついて意地悪をしたい気持ちになってしまったけれど、約束があるからやめた。

 志穂の本音を聞けた。それだけで十分だ。

 我慢して私も背を向け、目を閉じる。私達を包むシュラフはポカポカと暖かくて、いい匂いがした。

 心地良いなぁ。

 全然眠気はなかったはずなのにすぐに眠れると思った。

 そして眠りに落ちる前にもう一度、志穂と私がせーので言ったことを思い返す。



「――すっごく可愛いかった」と私。

「……」

 けど志穂は何も言わない。

 せーので言わずに、じっと私の目を見つめてくる。

 先に言った私は何も言わず、黙って彼女の視線を受け止めた。

 挑発する気も催促しようとする気もない。口に出せるようになるまで待とうと思った。

 そうした形になってしまったことに疑問はなかった。

 気づいた変化に、気持ちがおぼつかないのかもしれない。

 だからそのまま背を向けられても、構わないとさえ思っていた。

「……」

「……」

 寝ころんだまま、会話もなく、見つめ合う。

 気まずさはなく、音のない世界が流れているのを全身で感じ取る。

 指先を伸ばすだけで簡単に破れてしまいそうな静寂の中で互いの瞳が静かにぶつかりあっていた。

 でもそれは手のひらをそっと合わせるかのような。

 ぶつかりあうという言葉に多くの矛盾を孕むほどの密着でありながらも、簡単に離れてしまうほどの脆さでもなく。

 そうしてジッと見ていたことが、その瞳の奥にある小さな赤い光を見つけることと繋がる。一瞬だけしか見えなかったそれにハッとして、それが静寂を破った。


『――っ』


 ギュッと、堪えるように彼女は口を結ぶと、左手でシュラフを軽く握る。

 そこに戸惑いと怖さが見えた。

 知らないジブンを見つけてしまったことで生まれた恐怖。

 それに絡まれて勇気が出せないでいる。

 好きな人に好きと言えないように、その一歩が踏み出せない。

 でもそれを口に出すことで、誰かに聞いてもらうことで自分を確認したいのだということが彼女の瞳から伝わってくる。

 そうしてシュラフを握っていた彼女の左手が、シュラフを離すとほんの僅かに私の方へと伸びてくる。 

 支えを求めている。

 そう感じた彼女の手。でもそれすらも戸惑ったのか、わずかに伸ばしただけで手を止めてしまい私と彼女の間にある、互いを繋ぐシュラフの上で彼女の左手が力なく沈んでしまう。

「……」

 じっと見つめる力を失った彼女の手が、胸をキュッとさせた。

 応えてあげたい。支えてあげたい。

 そう思ったから、自然と私も右手を伸ばしていた。

 小さな子供に勇気を与えるように、静かにそっと彼女の手の上に重ねる。

 

 ――頑張って。

 

 口に出さず瞳で励ます。

 戸惑うことも、怖がる必要もないのだと彼女に訴える。


 それは――絶対に間違ったことなんかじゃない。


 少しだけ彼女の手を強く握る。

 そうした私の微力が彼女の背中を押すことができたのか、彼女の表情が少しだけ和らぐ。

 ありがとう――。

 そう瞳で言っているように見えた。

 そうして彼女は、一度の深い瞬きの後に決意を表す。


『熱くて――』


 小さな勇気を出した彼女の声。

 彼女の手から熱が伝わってくる。

 彼女一人では抑えきれない熱がドクドクとこちらへと流れてくる。


『――ドキドキしてたんだ』


 真っ直ぐにそう言った。

 そして慌てて私の手を払うと背中を見せて黙り込んでしまう。

 いきなりのことにあ然としたけど、少しだけ丸くなってしまう彼女の背中を見ると自然と頬が緩む。

 キュウッと、何かを隠しているかのように見える彼女の背中。

 それはもしかしたら体の中の熱を隠そうとしていたのかもしれない。


 そんな彼女を見た夜だった。

 忘れろなんて、無茶なことを言うなと思った。

 忘れられるわけがない。

 それほどまでに、このとき見せてくれた彼女の表情は胸を締め付けるほどに美しかった。

 たった一瞬しか見えなかった彼女の――赤い綺麗な輝き。

 生涯、忘れたくなんかない。

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