第8話 ケヤキの根元でリーンリン

 カラになったランチボックスに水をかけ、ケンタさんの鈴を、プールバックからウサギプリントのポシェットにうつすと、夏希は玄関のドアを勢いよく開けた。

 思ったとおり、ツバサはもう廊下の手すりによりかかって待っていた。

 ピンポン鳴らすって言ってたくせにと思ったけれど、ドアが開くと同時にスタスタと階段に向かっていってしまったので、夏希もあわててついて行く。

 さっきあやまってくれたのはウソだったみたい。まるっきりいつも通りのちょっと不機嫌そうな横顔だった。

 またあやまられちゃったらどうしようと考えていたからホッとした。 

 それに午前中よりもちょっぴりゆっくり歩いているような気がする。

 朝と同じようにだらだらと坂を下り、住宅の間をぬけて川ぞいの道に出る。

 かんかん照りのお日さまの下、もうぬかるみはほとんどなくなっていたけれど、デコボコしたままかわいた道はやっぱり歩きにくい。

 それでもツバサの横に並ぼうと、夏希は足を速めた。

「そういえばケンタさん、さっきしゃべったよ」

 なにを言おうかと考えて、小さく話しかける。

「なんて言ってたの?」

「仲間のところに連れて行ってって」

「それは最初から変わんないじゃん」

 ツバサは鼻を鳴らした。

「他に情報はないの?」

「ええっと……」

 夏希は図書館で取ったメモを思い出そうと視線を宙にさまよわせた。

 メモも持ってきたけど、見ながら歩いたら転びそうだ。

「あっ、そうだ! なんか夢の話。ケンタさんに聞こうと思ってたんだった」

「夢? だれの?」

「崖くずれが起きる前に、カラフルな神様のお使いが夢に現れて、ごめんなさいって言ったんだって」

「それ、まるでこいつが崖くずれをおこしたみたいだな」

 ツバサが疑わしい顔で聞き返したところで、またケンタさんの鈴がリーンと鳴った。

 夏希が止まって手さげから鈴を出すと、ツバサも足を止める。

「ケンタさん、なあに?」

『早く行きましょう』

 鈴の中からケンタさんが答えた。

 ケンタさん、あせっているのかな。エネルギーがあんまりないんだっけ?

「早く行こうって。ケンタさん、あせってるのかな」

 そう言うと、ツバサがメガネの奥の目をすっと細めた。

「……まあいいや。行くか」

 けわしい雰囲気のまま歩き出すツバサのとなりを夏希も歩く。橋までは十分くらいだ。長くはないけどだまって歩くのはちょっと気まずい。

 ツバサのほうは、そんな気づまりは感じていないのか口をきかない。

 しかたないので歩くことに集中した。せっかくツバサが認めてくれたのに、ここで転んだり遅れたりはしたくないものね。



 橋のたもとまで着くと、ウミがもうヒマそうな顔で立っていた。

「おそいーっ!」

「ぴったり一時半だぞ」

 腕の時計を見せてツバサが言う。そういえば夏希もウミも腕時計なんて持っていない。小学生のくせにと思いかけて、夏希は小さく首をふった。

 ツバサはお父さんを助けて家の中のことも自分でやっている。ただの小学生よりはずっと大人なんだ。

「で、慰霊碑の場所は聞いてきたのか?」

「聞いたよ。父ちゃん、最初はそんなの知らないって言ってたけど、おばあちゃんが笹谷なら三丁目あたりだって教えてくれて。それで父ちゃんが下原のお客さんに電話で聞いてくれた」

 ウミはツバサに地図を出せとせっついた。

 ここと指を指したのは、青見神社から見たら川をはさんだ対岸の少し下流、田んぼの真ん中だ。

「立野家観音堂って書いてあるじゃないか」

 ツバサが素早く文字を読み取って文句を言う。

「うん。あのね、立野さんちって昔は下原地区の大地主だったんだって。ショッピングセンターだって立野さんちの土地で、すっごくもうけたって父ちゃん言ってたよ。で、お墓も満願寺じゃなくて自前の観音堂作ってそこにお参りに行くんだって。だから昔の水害で亡くなった人の慰霊碑もきっとそこだよ。住所も下原三丁目だし」

 ウミの指の先にはお寺を示す卍のマークがあった。

 夏希が生まれたころ、田んぼのずっと奥の山すそにバイパスが通って、ショッピングセンターもできた。車で十五分くらい。

 昔は駅前の商店街に買い物に来ていた人も、いまはみんなそのショッピングセンターに行くから、ウミの家の坂田酒店は配達に力を入れてるって聞いた。だから店番はおばあちゃんと子どもたちで十分なんだって。

「でもこの観音堂って勝手に入れるのかな」

 しぶしぶ納得したらしいツバサはつけつけと言った。

「普段はだれもいないみたいだよ」

 ウミは自信満々に笑って地図を折りたたんだ。



 立野家観音堂って地図には書いてあったのに、行ってみるとそこは垣根に囲まれただけの墓地だった。門も看板もない。

 おそるおそる中をのぞいてみる。思ったよりも小さなお堂の横にお墓が並んでいて、ひときわ大きなケヤキがその上に影を落としている。ここもセミが盛んに鳴いていた。

「こんにちはーっ! ごめんください!」

 ウミが大声を張り上げたけど、確かに人のいる気配はない。

 田んぼを持っている農家はみな、昨日の台風の後片づけに追われているのだろう。

 だれも出てこないことを確認すると、三人はさっそく囲いの中に入り込んだ。

 図書館でも感じたけど、悪いことをしているつもりはないのにビクビクしてしまう。もしだれかに、知らない人の家の墓場でなにをやっているのかと聞かれたらどうしよう。夏希には答えられる自信はない。

 そこはツバサに任せるけどね。

「古いお墓ばっかりだね」

 ウミの感想に夏希もうなずく。

 墓石は苔の生えたものが多くて、四角い墓石の角も欠けている。

 いまが昼間で良かった。夜だったらこわがりの夏希はとてもこの中には入れなかったにちがいない。

 でもツバサはそんな感覚なんて砂粒ほどもないらしく、スタスタと墓石の周りをめぐって、ケヤキの根元で足を止めた。

「慰霊碑あったぞ。ケンタさんよびだせよ」

「え? うん」

 夏希はポシェットからケンタさんの鈴を出して、ツバサの元にかけよった。観音堂の裏手を見に行ったウミもあわててやってくる。

 慰霊碑は満願寺にあったような立派なものではなかった。夏希の身長より高くて細長い石の柱みたいなものだ。

 墓石と同じように苔むしてしたけど、『寬保二年大水』と刻まれているのは見て取れた。そして、夏希のちょうど首の高さに刻まれた横線。

「この線まで水が来たってことだろ」

 ツバサはしげしげと見てから言った。

「わお、泳げない人は大変だ、こりゃ。ナツ、プールがんばらないとおぼれちゃうねえ」

「プールで泳ぐのとはちがうよ。流れもあるし、水と一緒に壊れた家なんかも押し寄せるから無理だろ」

 ツバサはとがめるようにウミを見てから、夏希に視線を投げた。

「ねえ、ケンタさん。ここにあなたの仲間、いるかな?」

 ツバサの無言のさいそくを飲み込んだ夏希の声に、鈴がパカッと割れてケンタさんがはい出してくる。

 小さな小さな狛犬は、手の平から下を見下ろし、それから首をあげてケヤキのこずえを見上げた。

 三人は輪になってケンタさんを見つめた。

 確か近くまで行けば信号をキャッチできるって言ってたよね?

 ケヤキの木のしげった葉っぱの間から、キラキラと光がさしこんでいた。

 不意に、リーンリーンと鈴の音が響く。

 ――リーン、リリリリリーンリンリン。

 ケンタさんだった。仲間によびかけているんだ!

 するとどこからか同じような鈴の音が小さく聞こえてくる。

「どこ?」

 キョロキョロとあたりを見回したウミの肩を、ツバサが押さえる。

「しっ、静かに。土の中だ」

「ええっ!」

「だからその口閉じて」

 ウミがパッと口に手を当てた。

 夏希はしゃがみ込んで、ケヤキの根元にケンタさんを乗せた左手を置く。

 ケンタさんは、ゆっくりと地面におりて、また鈴の音を響かせた。

 ――リーン、リリリリーンリーン。

 ――リリリ、リリ、リリ、リーン。

 なにか話し合っているのかな。ロボット同士だから電波みたいなので話すのかと思ったら、鈴の音なんだ。

 なにを言っているのか、もちろんわからない。人の耳には鈴のような音としか聞こえないんだもの。同調している夏希ですら。

 だから、三人はだまってその音に耳をかたむけた。

 五分、いや、十分くらいたったころだろうか。

 突然、首の後ろがカッと熱くなったような気がして手を当てた。

 虫にさされたのかと思ったけどちがうみたい。

『すみません。後ろにさがってください。早く』

 不意にケンタさんの声が頭に響く。

 なにかにせかされたように、夏希はウミとツバサの腕を引っぱった。

「ねえ、後ろに下がってって言ってるよ!」

「なんで?」

「わかんない。でも……」

 言いかけたとたんに、今度は頭の中でスパークがはじけて、夏希はしりもちをついたようにしゃがみ込んだ。

「なにがおきたんだっ」

 ツバサの怒鳴り声がした。

 しゃがんだまま薄目を開けると、ツバサの背中のむこうでケヤキの大木が光って見えた。まるで時期外れのクリスマスツリーみたいに。

「ナツ、どうしたん? 気分悪いの?」

 ウミの手が背中をとんとんたたく。

 そのリズムが良かったのか、首の後ろの熱も、ぐるぐるかき回されたみたいだった頭の中も、少しずつおさまっていった。

「うん、だいじょうぶ。朝から走り回ったからかな。ちょっと目まいがしただけ」

「そんならいいけど。でもさっきケヤキの木がぴかーって光ったんよ。ナツは見た? びっくりした」

 うなずいてからウミの手にすがるように立った。

 ケヤキはいつものように緑のこずえを風にゆらしているばかりで、どこも光ってなんかいなかった。

 木もれ日がそう見えたのかな。

「ねえ、ツバサ。さっきなにがあったの?」

「ぼくが知るわけないだろう。そいつに聞いてみろよ、なにがあったのかっていうより、なにをやったんだ?」

 指さした先には、ケンタさんがさっきと同じようにケヤキを見上げていた。

 ケンタさんとよびかけようとして、代わりのように声を上げたのはウミだった。

「あっ」

 額にぽつんと雨粒が落ちてきた。ほおにも。あごにも。

「あの雲だとまた大雨だな」

 ツバサが空をにらむように言う。

 低く地をはうように灰色の大きな雲が西から流れてきていた。

「どうしよう。ケンタさんの仲間って地面に埋まってるんだよね。掘り出せるかな」

 なにがあったのかわからないけど、せっかくここまで来たのだ。仲間も一緒に連れて帰りたい。

 ケヤキの根元のどこに埋まっているんだろう。

 どうしてシャベルを持ってくるって思いつかなかったんだろう。

『いいえ。アレはかなり深いところにいるようです。ワタシをここに残して、ナツさんたちはお帰りください』

 ケンタさんは伸び上がってケヤキの幹に前足をかけながら言った。

「えっ、そんな……」

 夏希はとまどってツバサをふり返った。しかしツバサの目は夏希を素通りしてケンタさんに向けられている。

「あのさ、さっきのはなんだったんだ? 木が光っただろ。あれはおまえがやったの? それとも仲間がやったの?」

『ワタシではありません』

「じゃあ、おまえの仲間のしわざか」

『それははっきりとは言えません』

「木からはなれろって、おまえが言ったんだろ? ナツになにかしたんじゃないのか?」

『このまわりで急激なエネルギーの上昇を感知したからです。ワタシはナツさんやあなたたちを傷つけるつもりはまったくありません』

「おまえじゃないなら、おまえの仲間しかないじゃないか! ふざけるな!」

『ワタシの仲間はこの木の下にいます。そしてここから先はワタシの本来の仕事です』

 ケンタさんはどう説明しようかというように間を置いてから続けた。

『ワタシたちのコミュニケーションによっては、周囲の環境に影響をおよぼすことも考えられます。ですから、あなたはナツさんとともに帰ってください』 

「また危ないことが起きるのか? 崖がくずれたり大雨で洪水がおきたりするとでも? どうなんだよ!」

『それは……』

 ケンタさんの体がボワッと光った。でもそれはどこかやさしい光ののように夏希には感じられた。

『ワタシは雨にぬれても平気ですが、ナツさんはちがうでしょう? ワタシのエネルギーチャージは、もうそれほど多くはありません。必要なことを早くしてしまいたいだけです。だからどうか……』

「必要なことってなに? 明日じゃだめなのか。出直して道具を持ってきて、地面を掘ってやってもいいんだぞ。そうしなきゃいけないんなら、ちゃんと大人の許可も取るし。その方がおまえも楽なんじゃないのか?」

『いいえ。掘り出すことは必要ではありません』

 夏希はケンタさんの言葉をそのまま口にしたが、ツバサは納得できないという顔で、あごの下に親指を当てた。

 ツバサはなにをおこっているんだろう。さっきあたしがしりもちついたのがダメだったのかな。もうなんでもないのにな。

 それともケンタさんがウソをついてるって思ったのかな。

 ケンタさんはウソは言ってないと思う。同調しているからあたしにはわかる。

 話していることが全部わかったわけじゃないけど。むしろわからないことだらけだけど。ツバサとの会話はどこかぎくしゃくしていた。クツの上からかゆいところをかいているような。

 ウソはついてないけど、うまく説明できないみたいな、そんな感じ。

 夏希は土の上にひざをついてケンタさんの背中を人さし指でそっとなでた。ふわふわとやわらかい毛に指が埋まる。

 小さな狛犬はくるっと回って、夏希を見上げた。

『ワタシをここまで連れてきてくださって、ありがとうございます。あとは、お願いですから、ワタシをここに置いて帰ってください』

 ケンタさんの真剣さに胸がギュッとつかまれたみたい。

 どうしようと思う間にも、雨はぽつぽつと夏希のほおや腕をぬらした。

「わかった、帰るぞ」

 ふいに、ツバサが背を向けた。

「えっ? いいの? 本当に置いて帰っちゃうの?」

「土砂降りになったら、おまえ連れて帰るのめんどうじゃん。さっきだって座りこんでいたしさ」

「連れて……って、あたし、そんなちっちゃい子じゃないから! 一人でだって帰れるし!」

「まあまあ。昨日の台風みたいな雨降ったら、ナツ、そのへんで動けなくなりそうだもんね。しょうがないよ。帰ろ。そんで明日またくればいいじゃん」

 ウミは少しこまった顔で笑いながら、ぽんぽんと夏希の頭をたたいた。

 ウミにも小さい子あつかいされたみたいで、なにも言い返せない。

 本当にその方がいいのかな。

 ケンタさん、仲間となにを話したのかな。

 なにかヘンだよ。だって、ようやく仲間を見つけたはずなのにケンタさん、あんまりうれしそうじゃないよ。宇宙ロボットのケンタさんはあたしたちとはちがう考え方をするのかもしれないけど。

 それにツバサだってヘンだよ。あんなにケンタさんにおこって突っかかっていたのに、急に物わかり良く言うことをきいて帰るだなんて。

 どうして? って聞きたいのに言葉になって出てこない。

 空はどんどん真っ暗になっていく。五分もしないうちに大降りになりそうだった。

「ケンタさん、本当に大丈夫なの? ねえ、やっぱりいっしょに帰ろうよ。今日はうちに泊まって、あしたまた来ようよ」

『ワタシは仲間のところに残るのです。ナツさんは帰ってください』

 頭に響く言葉はウソをつかない。ケンタさんは本当にそう思って言っているのがわかる。

 でも、でも、なんで? どうして?

「おい、帰るぞ」

「ナツ、帰ろ?」

 右と左からそれぞれ言われて、ようやく夏希は立ち上がった。

「雨がひどかくなったら、せめて鈴の中に入ってね」

 そっとケンタさんの横に開いたままの鈴を置いた。

『はい、ありがとうございます』

 ケンタさんは、夏希を見上げて小さな頭をちょこんと下げる。

「うん……あのね。明日の朝、迎えに来るね。絶対に。シャベルも持ってくるから」

 そう言ったのに返事はなかった。

 どうしようもなくて手をふって、ぞろぞろと墓地の敷地から出る。

 気になってしかたないけど、一人でここに残るのはやっぱりこわい。薄暗い中、知らない人たちのお墓に囲まれてるのは、こわい。


 最初はぽつぽつだった雨は、いくらも行かないうちにたたきつけるような大雨になった。風が吹いて、あれほど暑かったのにぬれた体がどんどん冷えていく。

 せっかく起こされた稲がまた風と雨で倒れてしまっている。

 夏希は、目の上に手でひさしを作って、前を行く二人を追っていたが、大きな水たまりをビシャとふんだところで立ち止まった。

「なにやってるんだよ」

 ツバサがイライラした声でふりむいた。

 すごい雨で、しゃべろうとすると口の中まで入ってくる。うつむいていないと目を開けるのも大変だ。

 神社の崖がくずれた夜もこんな風だったのかな。

 石や木や泥が流れてきて、川をせき止めて土手を壊した、寛保二年の大水の日も。

 そう考えたら、もう自分でもどうしていいのかわからないほどこわくなる。

 もし、またそんなことが起きたら、ケンタさんはどうなるの?

「ねえ……あの……ね、ウミとツバサは先に、行って。あたし、やっぱりケンタさん連れてくる。どうしても一人で置いていけない。もし、また川の土手が切れて洪水になったら、ケンタさん、流されちゃうよ。今度はケンタさんが迷子になっちゃう。三百年かかってやっと仲間に会えそうなのに、そんなのかわいそうだよ!」

「あいつが置いて帰れって言ったんだろ!」

 ツバサがどなり返した。

 これだけ離れてしまうと、もうケンタさんは夏希とつながりを保てないのだろう。頭の中を探ってみたけどなにも聞こえない。なにも感じられない。

 たたきつける雨がほおに痛い。風が周囲の田んぼの稲を再び倒していく。

 こわい、と思った。

 足から力がぬけてしまいそう。

 でも。

 でも、小さなケンタさんにとっては、この雨粒はあたしの何倍も大きく強く感じているはず。

 仲間となにをしようとしているのか知らない。

 あたしがいたらじゃまなのかもしれない。

 そうは思ったけど、どうしてもガマンなんてできない。

「ごめん。あたし、やっぱり連れてくる。ウミとツバサは先に帰って」

 夏希はそうさけんで、もと来たあぜ道を引き返した。

 残された二人は、一瞬だけ顔を見合わせ、すぐに夏希のあとを追ってきた。いくらも行かない間に並ばれてしまう。

「おまえ、のろいから。取ってきてやるよ。先に帰ってろ」

 ツバサはそれだけ言い置いてぐんぐんスピードを増してかけていった。水けむりがたって背中がすぐにかすんでいく。

 ウミは、びっくりして立ち止まった夏希の肩をぽんぽんとたたいた。

「ナーツ。ケンタロボはツバサに連れてきてもらお」

「うん……ごめんね」

 わがままだっておこられるかと思ったのに、ウミは笑っていた。

「しゃあないよ。ナツ、ケンタさんと頭の中同調してるんだもんね。心配なんでしょ。しゃあない、ナツは優しいんだから」

 雨にぬれたウミの底抜けの笑顔に夏希は胸から息をはき出した。


「うち、感じ悪かったね」

 ウミがそう言ったのは黄土色ににごった川を渡ってからだった。

「自分じゃあ、そんなつもりなかったけどさ。うち、ナツを下に見てたわ。だからケンタロボがあんたにしか反応しなかったとき、なんかムカついたかもしれない。ごめん」

 ううん、と夏希は首をふった。

 あのときはあたしだって、自分だけが選ばれたって得意だったもの。

「ケンタさんが選んだのは、きっとあたしが一番ぼんやりだからだよ」

「うん、うちも最初はそうだって思ってたんだけどさ」

 ウミはごめんねと言ってからぺろっと舌を出した。

「ちがうんじゃないかなあ。ナツが一番、人の気持ちに敏感じゃん。だからだよ、きっと。ケンタロボにはそれがわかったんだよ」

 そんなことないよと返して、夏希はいくつもの雨の輪っかが重なり合う川面を見つめた。

 優しいんじゃなくて、ビビりなだけだ。

 だから、人の顔色ばかり見ちゃうんだ。

 だから、思ったことを口にするのもこわいんだ。

 だから、本当はズルい子なんだ。

 それでも、きょうは、思い切って言いたいことを言ってみたら、ウミもツバサもちゃんと答えてくれた。そうできたのはケンタさんのおかげだ。

 だから……。

 ケンタさんを置いていきたくなかったんだ。

 だから、大雨でケンタさんが心配だっただけじゃなくて、ケンタさんを通してもらった勇気がなくなっちゃいそうでイヤだったんだ。

 なんてズルい子なんだろう。

 気がついたらぽろぽろ涙がこぼれ落ちた。

 雨がすごい勢いで降ってきているから、ウミには涙かあまつぶかわからないよね。でも温かさがちがうから自分でははっきりわかった。

 声を上げて泣くのはがまんする。もう五年生だもん。

「おおい、取ってきたぞ」

 全身ずぶぬれのツバサが走ってきた。手に鈴を持っている。

「こんな雨の中、なにやってるのかね、はやく帰りなさい。こんな日に川に近寄っちゃいかん」

 知らないおじさんが大声で怒鳴って、橋を自転車で渡っていく。川は逆巻くように流れていた。

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