第7話 寛保二年の大水で

 夏希はハァとため息をついた。

 絶対に読み解いてやるとはりきったのに、ながめればながめるほど文字が紙から浮き上がってダンスを踊り出して見えるしまつだ。

「あとの二人は出て行っちゃったのに、あなたはまだ勉強してるの。熱心ねえ」

 どうしようと、とほうにくれている夏希に、カウンターのおばさんが冷たい水を紙コップに入れて持ってきてくれた。

「大事な資料をぬらしたら大変だから気をつけてね。お友だちはあきらめちゃったのかな?」

 あきらめたんじゃなくて地図持っての現地調査に行ったんだし、こっちはあたしがまかされたんですと言おうとしたのに、のどになにか引っかかったようで言葉が出なかった。

 しかたなく小さく首をふって、紙コップの水を一気に飲み干す。

 わからないことをおばさんに聞くなら今しかないと思った。

 今、聞かないでいつ聞くチャンスがあるんだって。

 勇気を出せ、ナツ!

「あ、あのっ! これ、ここの文章、ちょっと読みにくくて。読んでもらえませんか? 寬保二年におきた水害を調べたいんです!」

 少しひっくり返っちゃったけど、自分でもびっくりするような大きな声が出た。

 カウンターに戻りかけていたおばさんは、どれどれと胸のポケットからメガネを取り出して夏希の指したページをしげしげとながめ、ああとうなずく。

「このノートね。ほら、最初のページに昔の年号と一緒に西暦、つまり二〇一八年みたいに直した数字が書いてあるでしょ。だから寬保二年なら……ええっと西暦何年かしらね……江戸時代の年号はよくわからないな」

「一七四二年です」

 ウミの残したメモを見て、勢いよく答えた。サンキュー、ウミ!

「あら、すごい。ちゃんと調べてる」

 おばさんは目を丸くしてから何冊もあるノートの表紙を調べ始めた。

「最近の夏休みの自由研究ってずいぶん難しいことやるのねえ。あら、ノートを順番にしまってなかったのはこちらが悪かったね。はい、あったわよ。このノートの中にあるんじゃない?」

 何十年も前のノートだ。鉛筆の文字はかすれているし、やっぱり印刷物とはちがって読みにくい。それでも【一七〇〇年代】とあるのは読める。

 司書のおばさんと一緒だと、探していた【寬保二年】もすぐに見つかった。

 さっそく読んでみると、『大洪水によってこの年以前の青見神社の文書は流出して少ない』と注意書きがある。

 やっぱり、このときの水害は青見神社にも大きな被害があったのだ。

「お目当てのものが見つかったかな?」

 おばさんがとなりにすわってくれているのが心強い。

「はい、この年の大洪水について知りたかったんです」

 ふむふむとおばさんはノートを取り上げ、声にだしてゆっくり読み上げてくれる。夏希はあわててメモを走らせた。

『七月下旬から降り始めた雨は、八月七日未明から大風をともなって激しくなり、天青川はたちまち黄いろくにごって満水状態となった』

『まず上流でいくつかの小規模な土石流がおき、明け方には流れ出した土砂で天青川が一時せきとめられた』

『なんとか天青川の流れを取り戻そうと、宮司以下の氏子たち総出で上流までおもむいて木や石を取り除いていたが、その日の夕方、再び降り始めた雨で一気に川のかさが増し』

『深夜、青見神社の神木に落雷があり、倒れた木とともに拝殿裏の崖がくずれ、天青川に流れ落ちる』

『土石を伴った川の流れは少しずつ青見堤を乗り越えはじめ、翌日の明け方には堤を破壊し、被害は下原地区全域に及ぶ』

 あっ、と思う。

 やっぱりこのときの雨で青見神社の崖はくずれたんだ!

 夏希は必死で書きとめていたメモから目を上げておばさんを見上げた。

「あのっ、青見神社の崖がくずれて、それで、神社そのものにも被害があったんですか?」

「ええっと、待ってね。ああ、そうね、後ろの方に被害の状況がまとめられているわね。あら、死者が一四三名ですって。大きな水害だったのね。それで神社は……宮司さんも亡くなったみたいね」

「た、建物とかは?」

「うーんと、倉と狛犬一体が流されたって書いてあるよ」

「狛犬も?」

「あら、変ねえ」

「なにがですか?」

「ほら、狛犬ってふつうは鳥居をくぐってすぐのところにあるでしょ? でもくずれたのは川に面した方だよね。流されたんだから」

 本当だ。変なの。

「倉にあったのは太鼓や鉦、鈴、祭りの衣装一式。お米やお酒もあったのねえ。あと拝殿にかみなりも落ちて火事になったんだって」

 そんなにいろんなことがいっぺんに起きたんだ。サダツグさんの子どもはどんなにこわかっただろう。

 ケンタさんの仲間が行方不明になったのは、きっとそのとき一緒に流されちゃったんだ。きっとそうだ。

「そのあと、流された狛犬とか倉にあったものはどうなったんですか?」

「さあ、それは……書いてないなあ。あら、狛犬が気になるの?」

「あ、ええっと、その……青見神社の狛犬って一匹は古くて、一匹は新しいみたいなので。どこに行っちゃったのかなって。川に落ちてどんどん流されたんですか?」

 なんとかツバサの言っていたことを思い出しながら答えた。

 本当は狛犬じゃなくて、鈴じゃないけど鈴みたいに見える宇宙人の作ったロボットを探しているんだけど、そんなこと大人に言っても信じてもらえっこない。

 エアコンがきいてる部屋なのに汗がふき出そう。ウソをついてるからだ。別に悪いことしてる訳じゃないんだけど。勝手に心臓もドキドキしてきた。

「あら、そうなの。よく調べたんだねえ」

 おばさんは、夏希のドキドキに気づかずにこやかに言って、ノートの先に目を走らせる。

「その水害の死者のうち、ご遺体が見つかった人は満願寺のお墓にほうむってもらったけど、行方不明のままの人もいて。それで慰霊碑が立てられたって書いてあるよ。狛犬さんやこわれちゃったものはそこにおまつりされたかもしれないねえ。狛犬なんて重いものをまた持ち上げて登るの、大変だしね」

「慰霊碑? ってどこにですか」

「うーんとね、下原村字笹谷。ああ、これは昔の地名ね。いまで言うとどのへんかなあ。私は地元育ちじゃないから、昔の地名まではわからないな。だれかお年寄りに聞いたらわかるんじゃないかな」

「は、はいっ。そうします。あの、ありがとうございます」

 忘れないように『下原村笹谷』とノートに書いた上からぐるぐると丸くかこんだ。

 きっとここなんだ。ケンタさんの仲間は狛犬と一緒にそこに埋められているにちがいない。慰霊碑のところまで行けば、ケンタさんは仲間の信号をキャッチできるかもしれない。

 目の前がぱぁっと明るくなった。

 お礼を言おうと勢いよく立ち上がる。

「あ、待って。面白いことがメモしてあるわ。亡くなる前に宮司さんが息子さんに語った夢の話ですって。読むわね」

 夏希はもう一度えんぴつをにぎり直した。

「鉄砲水の出る少し前。上流から戻った宮司が寝ていた息子さんを起こして言ったんだって。夢に彩り鮮やかな神様が出てきて「すまない」と告げたって。神様でも洪水はとめられなかったのねえ」

 おばさんと一緒に首をひねりながら、夏希はそれも書きとめた。

 彩り鮮やかってカラフルってことだよね。ケンタさんなのかな。同調していたサダツグさんに崖くずれのことを伝えようとしたのかな。あとで聞いてみよう。

 今度こそお礼を言って、紙コップを片づけ、図書館を出る。

 まだ二人は戻ってこないし、どこに行ったのかもわからない。

 でもわかったことを早く伝えたい。


 とにかく商店街を川に向かって歩いていると、ウミの家の坂田酒店の前に出た。

 中をのぞくまでもなく、ウミの下の双子、シュンくんとハルちゃんが店先でゴムとびをしていた。

 まだ小一だし、走り出したら止まらないタイプのウミと比べればかわいいと思うのに、ウミに言わせれば二人ともぜんぜん姉の言うことを聞かなくて生意気らしい。

「あ、ナッちゃん。ねえちゃん知らん? どこほっつき歩いてるんだって母ちゃんおこってたよお」

 ハルちゃかが胸をそらしてにまっと笑った。

「お昼までに帰らなかったらねえちゃんはご飯ぬきだって!」

 夏希はあわてた。それはかわいそう。

「え? ほんとう? いま何時?」

 双子は店の壁に掛かっている時計を確認してくれる。

「十一時十五分! ねえねえ、そうしたらおれのご飯、増えるかな?」

「ねえちゃんの分、半分こね!」

 こまった。うちにだれもいない夏希やツバサとちがって、ウミの家は常に家族がいる。

 いつもはそれがうらやましいと思っていたけれど、おこられた上にご飯ぬきなんてかわいそう過ぎる。

「あたし、探してくるから! だからウミの分、食べちゃダメだよ!」

 早く探さなきゃ。ケンタさんのことは気になるけど、小学生にとって昼ご飯ぬきはつらい。朝早くから歩いたり走ったりしているのだ。

 言われてみるとお腹もキュウキュウ鳴いている。

 夏希は川に向かう一番の近道を選んで走り出した。



 ツバサとウミは、天青川にかかる橋のたもとに座り込んでいた。

 橋を川向こうに渡って青見神社の対岸まで往復して歩いてみたけど、なんの手がかりもなかった。

 鈴はリンとも鳴らないしピカリとも光らない。

 ウミやツバサの住んでいる側の土手はサクラが日影を落としていたけれど、あちら側は背の高い木はほとんどなくて、そのくせまだぬかるんでいた。

 サンダルをはいた足はドロだけになるし、暑いし、正直に言うとウミはちょっぴりあきていた。

 ケンタさんの話だってよくわからないしなぁと、心の中でつぶやく。

 ツバサは全部わかっているみたいだし、ナツはケンタさんが気に入っちゃったみたいだけどね、と。

「ねえ、ナツはなんかみっけたかなあ」

 ウミが立てひざにあごを乗せてつぶやいた。

「ナツがちゃんと解読したら、あんた土下座だからね」

 ふふんとツバサが笑う。

 ほんとムカつくやつだなとウミは口の中で文句を言った。

 たとえその態度が、お母さんがいなくなった分を埋め合わせるために身につけてしまったのだとしても、ムカつくものはムカつく。

「さっき、図書館に着く前、ナツってばケンタさんとしゃべってたよね? なに話してたんだろ」

「さあ、ぼくやウミが話しかけてもナツしか答えは聞けないんだ。そんなのわかんないだろ」

「それって、すごいことじゃない? やっぱりナツはケンタさんに選ばれたんだよね。だってはなれちゃったらなぁんにも反応しないもん」

「すごいっていうか、一番取っつきやすそうだからだろ」

 ウミはわざと大きなため息をついてみせた。

「あんた、なんでそんなにナツにいじわるなの? キライなん?」

「別にそうじゃないよ」

 ツバサは手すりによりかかってぽつんと雲が浮かぶ夏の空を見上げる。

「ただ、イラつくんだよ。なにを考えてるのか聞いてもモゴモゴしてばっかりだし! やること全部のろいし。言いたいことあるならはっきり言えよって」

「そんなの保育園のときからそうじゃん。でも最近のあんたはナツに当たりすぎ。ツバサだって図書館で言ったじゃん。ナツは根気強いってさ。本当にそう思ってんでしょ? だったらちゃんと読み解いてたらちゃんとあやまりなさいよ」

 ツバサはぴくりとも顔を動かさずにじっと空を見てばかりいる。

 すかしちゃってとウミは思ったが、これ以上言ってもしょうがない。

 ナツはナツだし、ツバサはツバサなのだ。

 腹の立つこともあれば、いいなと思うところもある。それだけだと思う。

 坂田海にとっては小さな頃からの一番身近にいた友だち。

 ケンタさんがナツを選んだのも、ツバサの言うとおり一番ぼんやりだからかもしれないし、他に理由があるのかもしれない。

 宇宙人の作ったロボットの考えてることなんて、うちらにはわかんないよね、と思う。

「そろそろ昼だよな。図書館に戻るか」

 ツバサは平たい声で言って、また歩き出した。

 ウミも、うーんとのびをしてからぴょこんと立つ。

 すると、急にツバサが立ち止まって、めずらしく驚いたような声を出した。

「ナツだ。走ってくるぞ」

 かっこよく、さっそうと、とはいかないけど、確かにナツが手をふりながらこちらに走ってきていた。ウミも元気よく両手をふった。



 まっすぐウミの前まで来ると、夏希はハアハアと息を切らして立ってままひざに手を当てた。

 気持ちははやるのにぜんぜん速く走れなくて情けない。

「どしたの? なにか大事件?」

 ウミが背中をさすってくれるけれど、のどが張りついたようにカラカラでなかなか言葉が出てこない。

「おひる……」

「え?」

「ウミんち、十二時までに……帰らないと、お昼、ぬきだって!」

 ようやく言い切ったのに、ウミはぼかんとした顔をしている。

「だから! 早く帰らないと! 双子に食べられちゃうよ!」

 ウミはプッと吹き出したかと思うと、ケラケラと大声で笑い出した。

「ああ、うちの店の前を通ったんだ。なになに、あいつらがそう言ってたの? 母ちゃんがおこってるとかって」

「うん、そう」

 がんばって走ったのに、こんな大笑いされるなんて割にあわない。

「いやー、そうかそうか。きょうは父ちゃんは配達しがてら、昨日の台風のお見舞いにお得意さんとこ回ってるし、母ちゃんは商店街婦人会の会合でいないよ」

「え? えっ?」

「つまり家には店番のばあちゃんと双子しかいないの。で、お昼はうちが焼きそば作ることになってたんだった。あー忘れてたわ。それであいつらうちに早くもどって欲しいんじゃないかな」

 今度は夏希がぽかんと口をあけた。

 なんだ、そうだったのか。あたし、あんなに一生懸命走ったのにバカみたい。

 でもウミはそう思わなかったらしく、両腕を広げて夏希にだきついてくる。

「もう、ナツってば最高! ありがと。心配してくれたんだよね」

「う、うん」

 ありがとうって言われて、走って苦しかった胸が楽になる。ウミっていい子だなあと思う。大好き。

「それはどうでもいいけど。図書館の方は収穫はあったの?」

 そこにツバサが水を差すように冷ややかな声で割り込んできた。でも夏希はへこまない。だってちゃんと調べてきたんだもの!

「うん。でもハルちゃんもシュンくんも待ってるから、歩きながら話すね」

 ツバサはおや? と言うように眉を上げた。

 夏希は背中を伸ばすと、ウミからプールバックを受け取ってだきしめる。

「ねえ、ケンタさんの仲間、どこにいったかわかったかもしれないの。出てきて」

 鈴は何度か光をチカチカさせて、それからケンタさんの声が頭の中に響いた。

『ありがとうございます。でもいまは、エネルギーを節約したいので、このままで』

 夏希はツバサとウミを見た。二人とも期待した目でこちらを見ていた。

 仕方なく、夏希は右手にメモを持ったまま話しだした。

「えっとね。あの昔の記録を解読した人のノートがあったでしょう。それでね、やっぱり寬保二年の水害のときに、神社の木にかみなりが落ちて、裏の崖がくずれたんだって。で、ええっと、倉と狛犬一匹が流されたって書いてあったの。そのときケンタさんの仲間がどこにいたのかはわからないけど、一緒に流されたんだと思う」

「まあ、それは予想内だな」

 ツバサが合いの手を入れる。

「でね、作業していた宮司さんや他の人も流されちゃたんだって」

「何百年も前の話でしょ。わかったのはそれだけか?」

 そうだけどとつぶやきながら先を続けた。

「それで、行方不明の人をまつった慰霊碑があるんだって。下原村笹谷ってところに」

「それって川向こうじゃん。下原っていうと……うーん、田んぼなイメージだけどさ。笹谷ってどこかなあ。ばあちゃんか父ちゃんなら知ってるかも。ばあちゃんは年寄りだし、父ちゃんは配達にあちこち行くし」

 ウミが答える。

 下原地区は神社から見える川の対岸。田んぼしかない。遊ぶ場所でもないからあまり行ったことはない。

『これからそこに行くんですか?』

 ケンタが聞いてくる。

「ごめんね、ケンタさん。あたしたち、まずお昼ご飯食べなきゃ」

『エネルギーの補給は重要ですね』

 小さな体で重々しくうなずく様子が想像できて、夏希はくすっと笑った。

 その声は二人に伝えてないのに、二人ともなんとなくわかったみたいで、うんうんとうなずいてくれる。

「オーケイ。じゃあ午後はそっちの方に行ってみよう。ウミはお父さんに慰霊碑の場所を知ってるか聞いといて」

 指示を出したツバサにウミが口をへの字に曲げた。

「エラソーにする前に、ナツに言うことがあるんじゃなかったっけ?」

 ツバサがメガネの縁を光らせてにらむ。

 夏希は、二人の顔を交互に見た。

「なあに、あたしに言うことって」

 ツバサはぷいっと顔を背け、夏希を置いて早足で行ってしまう。

「なんなの?」

 ケラケラ笑っているウミに聞くと、ウミは涙のにじんだ目をこする。

「いやー、うちが言ったら絶対あいつおこるしぃ? じゃ、一時半にさっきの橋に集合ね。ツバサにもそう言っといて」

「えっ、あたしが?」

「だってとなりじゃん。それともナツ、お昼うちで食べてく?」

「ううん。お母さんがサンドウィッチ作って冷蔵庫に入れてくれたから。それ、食べないとキゲンが悪くなるもの」

「そっか。じゃあ伝言よろしく~」

 手をふってウミも走って行ってしまった。


 夏希は一人、ゆっくりと歩いた。ケンタさんも黙ったままだ。

 朝からいろんなことがおきて、夢中になっていたけど、こうしてゆっくり歩くうちにようやくいろいろ落ち着いて考えられる。

 ケンタさんって本当に宇宙から来たんだなあ。

 ずっと一人で宇宙を旅するってどんな感じたろう。こわくないのかな。さびしくなかったのかな。

 宇宙船に乗ってきたのかな。それともあの鈴が宇宙船なんだろうか?

 大人たちにこのこと話さなくて良かったのかな。話してケンタさんを見たらどう思うかな。信じてくれるかな。大騒ぎになっちゃうかな。

 でも頼まれたのはあたしたちなんだしね。

 でもでも。ケンタさんの仲間ってどうしてわざわざ地球にきたんだろう。

 ケンタさんはその仲間を追いかけてきたんだよね?

 考えながら住宅街をぬけると道はゆるやかに上り坂になる。

 とちゅうで川の方を見下ろすと、まだ倒れた稲を起こす作業をしている人があちこちに見えた。遠くの山の上にはもくもくとした雲がかかっている。

 午後は雨が降らないといいなと思いながらマンションの前に着いた。

 神社の方は誰もいないのか、とても静かだ。あんまり暑いせいか、セミの声もひと休みしている。

 夏希はなんとなくトントンと階段をのぼって鳥居をくぐり境内に出た。そこからだとマンションのツバサの部屋がよく見えるのだ。

 ツバサのうちはとなりなんだし、ピンポン押せばいいのに。どうしてか夏希はそれが苦手だった。

 三階の窓を見上げて少しびっくりした。ツバサの部屋の窓が開いていた。もうとっくに帰っていたんだろうけど、こんなに暑いのにエアコンをつけてないんだ。

 それとも夏希が神社に回り込むことをわかっていたんだろうか。

 よびかけてみようかと迷っている間に、ケンタさんの鈴が夏希の心を読んだようにリーンリーンと鳴りだした。とたんにツバサが窓から顔を出す。

 手にカップラーメンの容器を持っていた。ツバサならちゃんとしたご飯を作って食べているのかと思ったのに、カップラーメン。それなら夏希にだって作れる。

 こんどお母さんやお兄ちゃんがツバサをほめたら言ってやろうと思いながらだまって見上げていると、ツバサはあからさまに顔をしかめた。

「そいつ、おまえ一人のときは、出てきてしゃべったり鈴を鳴らしたりするんだな」

「えっそう? ツバサがそいつだなんてよぶからじゃない?」

「ふん、ずいぶん気に入られたんだな」

「そうかな」

「そうだろ」

 一度だまってから、ツバサはちょっとひっこむとまた顔を見せた。今度はカップラーメンを持っていなかった。そしてなぜかメガネもかけていない。

 そのせいか、いつもピリピリしてみえるのに、どこかぼんやりした顔に見える。

「里居夏希」

 突然、フルネームでよばれ、夏希はどきっとした。

「本当は、ナツにあの資料を読むことなんてできないって思ってた。でも一緒に来ると歩くのおそいし、へばってもこまるって思って図書館に置いていったんだ。だからあとでぼくが読んでやるつもりだった」

 言われた言葉の意味がゆっくりと夏希の頭にしみこんでくる。

 なんだ、そうだったんだ。根気強いから、だから任せられたんじゃなかったんだ。

 単純に、置いて行かれたんだ。

「うん。わかった」

 思ったよりもショックじゃなかった。だから、ふへへとヘンな笑い声がこみ上げてきた。

「あのね、ウミが一時半に橋で待ち合わせって言ってたよ。あたし、いたらじゃまかな」

「バカ、ちがうだろ!」

 ツバサは大きな声でどなった。川から吹き上げてくる風がいっしゅん止まったような気がするくらいに大声で。

「ごめんって言おうとしてたんだよ。早とちりするなよ」

「なんであやまるの? あたし、おこってないよ」

「おまえのことバカにしてた、ごめん。でもちゃんと調べ物してくれたし、それにそいつ、おまえにしか答えないじゃん。いないとこまる」

 ツバサは両手を窓わくにおいて、頭を下げてみせた。

 夏希は、何度か目をぱちぱちさせた。

 いばりんぼうのツバサがあたしにあやまってる?

「昼、食べたら早めに橋に行くぞ。ピンポンするからさっさと食べろよ」

 なにが起きたかよくわからないでいる間に、ツバサは窓をぴしゃっと閉めてしまった。

 それでもぼんやりツバサの部屋の窓を見上げていたら、ケンタさんの鈴がまたリーンと鳴った。

『ナツさん、エネルギーの補給は大事ですよ。そうしたら仲間を探しに行きましょう』

 声が小さく聞こえた。夏希はプールバックごとケンタさんの鈴をぎゅっとだきしめる。

 そうだった。ツバサがツバサっぽくないことするからびっくりしちゃったけど、まずはお昼ご飯を食べて、早くケンタさんを連れて行かなきゃね。

 夏希は自分にできる最速のスピードで、マンションにかけこんだ。



 窓を背にしたツバサは、食べかけのカップラーメンを見下ろした。

 むしむしした暑い日にラーメンなんかにするんじゃなかった。少し胸がむかむかする。

 でもなんだかイライラして、ちゃんとご飯を作る気になれなかった。

「あいつのせいだ」

 口に出してさらに顔をしかめ、メガネをかけ直す。

 あんなにひどいことを言ったのに、へらへら笑っていた夏希に腹が立つ。

 メガネを外したのは、もしかしたら泣くかもと思って、そんな顔をはっきりと見たくなかったからなのに。なんで笑うんだろう。

 カップラーメンの残りを口の中にかきこむと、冷蔵庫のコーラをペットボトルのまま一気に飲んだ。

 炭酸が口の中でもおなかの中でもはじけて、それと同時にイライラも少しだけはじけとぶ。

 そういえば、あの宇宙人のロボットはなにをしに地球にやって来たんだっけ。環境を調査してどうするつもりだったんだろう。

 ツバサはあごに手をやって考え始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る