第2話 台風一過のさえない朝

 うーんとのびをしながら目を開けると、ピカピカにみがかれたような朝だった。

 ちぢこまって寝ている間に台風は過ぎちゃったらしい。

 夏希ははねるように起き上がった。とたんにおなかがグーと鳴る。

 パジャマのままリビングに行くと、もうお母さんとお兄ちゃんが朝ご飯をたべていた。

「おっせえな」

 中学三年生のお兄ちゃんは今日も塾の夏期講座に行くらしい。

 でも夏休みはまだ十日も残っているんだもん。少しくらいねぼうしたっていいと思う。

「お父さんはもう出ちゃったの?」

 テーブルに焼きたてのトーストとホカホカの目玉焼きを出してもらって聞くと、お母さんはうんざりした顔で首をふる。

「昨日の台風であちこち被害が出たらしいの。夜が明ける前にはお役所に行っちゃったわよ」

 お父さんは市役所の住民サービス課というところで働いている。いつもは窓口にいるけど、こういう日は役所に泊まったり、早くから出かけてしまうのだ。

「となりの神野さんなんて昨日は泊まりだったみたいよ」

 口の中のトーストがのどにつかえた。

 それなら、ツバサはあの風と雨の中ひとりっきりだったんだ。

 ツバサのお父さんもやはり市役所で働いている。それも公園土木課だから、台風が近づくと泊まりになることも多いらしい。

 ツバサのお母さんは一年生のころに亡くなって、いまはお父さんと二人暮らしだ。

 だから三年生くらいまで、お父さんが仕事でいない夜はいつもウチに泊まりに来ていた。

 そういえばいつの間にか、そんなこともなくなった。

 こわくないのかな。男子だから? 

 なんだかくやしい気もするし、さびしい気もする。

「ツバサはしっかりしてるもんな」

 お兄ちゃんがそれに比べてという顔で夏希を見た。

「電話で朝飯食いに来ないかって聞いたら、もうすませました、ありがとうだってさ」

「お洗たくも神野さんと交代でやってるんだものねえ。朝、ゴミ出しの時によく会うわよ」

 夏希とちがって里居家でのツバサの評価は高い。保育園に通っていた頃はそんなこと気にもとめなかったけど、最近はそれが少しつらい。

 だれに言われなくても勉強はするし、家の手伝いだってこなす。メガネかけているせいかボールを使うスポーツは得意じゃないけど、走るのだってビリじゃない。などなどなどなど。

 口が悪くてクラスでは一人浮いてるくせにと言いたいところだけど、夏希だって友だちが多いわけじゃないから胸を張って言えやしない。

 だいたいこれと言って得意なことなんてなにもないのだ。ビビりでヘイボン。世の中は不公平だ。

 夏希はだまってトーストの続きをかじった。

 のんびりしているうちに、お母さんもお兄ちゃんもバタバタと出て行ってしまった。お母さんもパートで働いているスーパーマーケットに出勤なのだ。台風の後かたづけがあるんだって。

 大人って大変だなあと思いながら、静かになったリビングで時計を見上げた。

 まだ七時四五分。ついでにかべに張ってあるカレンダーに目をむけて、ちょっと暗い気分になる。

 今日はプールの日だったんだ。七級からスタートする水泳検定、五年生のほとんどは平泳ぎもクロールも三級なのに、夏希はどちらも五級のまま足踏みをしている。

 息つぎがぜんぜんできないのだ。級はスイミングキャップについている名ふだの色で一目でわかる。だからあまり楽しくはない。

 それでもさぼろうという考えはおこらなかった。家に一人でいるよりずっといいもの。

 Tシャツとハーフパンツに着がえ、プールバックの中身を確かめる。水とうに冷たい麦茶も入れて準備オッケー。水色のスニーカーをはいてマンションを出た。



 外は昨日の雨風がウソみたいに晴れ上がって空気がむんむんしていた。代わりにセミの鳴き声が降る雨のようだ。

 マンションから学校へと向かうだらだらした下り坂を、だらだら歩いて行くと、数人の大人とすれちがった。

 作業服みたいな服装の人たちに、駅前商店街の中にあるお稲荷さんの宮司さんが混ざっている。

 青見神社に行くのかなあと考えながら校門まで来て、夏希は初めて首をかしげた。プールの日なのに校門が閉まっていた。

「あれ?」

 カギのかかった通用門に手をかけてゆらしてみたけど開かない。そういえば、いつもだったらにぎやかに大騒ぎしながらやってくる低学年の子たちの姿もない。

「ヤッホー、ナツ、やっぱり来てた!」

 元気のいい声にふりむくと、仲良しの坂田海がぶんぶん手をふっていた。

 ウミもツバサと同じく保育園時代からのつきあいだ。商店街の中の坂田酒店がウミの家だけど、お店屋さんの子だからか、いつも元気いっぱいな親友。

 ウミが手をふると、一緒にポニーテールの髪もぶんぶんゆれる。黒いタンクトップに青いショートパンツをはいて、まるで男の子だ。でもその手は空っぽで、プールバックを持ってない。

「もしかしてあたし、まちがえた?」

「朝、いっせいメールで今日のプールは中止って連絡きてたよぉ。でもぼんやりのナツはきっと来ると思った」

 あたしがぼんやりしてるのはその通りだけど、メールなんてお母さんのスマホに来るんだからあたしのせいじゃない。お母さんはせっかく買ったばかりのスマホをろくに活用してないんだ。メールの確認なんてきっと夕方になってからじゃないかな。

 そう思ったけど、夏希はぼんやりした笑みを浮かべた。

 ウミが自分のために来てくれたのがうれしい。

 プールよりもウミと遊ぶ方が何倍もいいに決まってるもんね。ウミの元気な顔を見たらもやっとした気分もふき飛ぶしね。

「今日こそ昇級テスト受けるつもりだったのに、ザンネーン」

 おどけてみせたらウミは目を丸くして拍手した。いつも強引だけど、こういうところは素直でいいやつなのだ。

「おお、息つぎできるようになったん? 四級になったらお祝いにウチの店のサイダーおごったるよ。って、それよりさあ、昨日はすっごい風だったよねえ。ナツ、きっと毛布かぶってるんだろうなって思ってたよ」

「すごかった。マンションがゆれたよ」

「へぇ? 泣いた?」

「泣かないよ! 赤ちゃんじゃないのに」

「成長したねえ」

 ビビりなのは赤ちゃんのころからだ。かれこれ十年以上のつきあいだから、ウミもツバサもよく知っているのだ。くやしい。

「まあ、それよりさ。神社、大変なんだって?」

「神社?」

「ナツんちのとなりの青見神社。瓦が飛んだりしたって、さっきお稲荷さんの宮司さんが出かけて行ったよ」

 ああ、とうなずく。

 神社の瓦が飛んだのは知らなかったけど、それでさっき宮司さんとすれちがったんだ。

「行ってみようよ! 家にいると下の双子(ふたご)がうるさいしさ。ナツと約束したって出てきたんだ」

 ウミに腕をつかまれて、夏希はまたセミが鳴く道をぎゃくもどりした。



 マンションの前を素通りすると、青見神社の階段の上に人影が見えた。

 もともと青見神社には宮司さんがいない。管理はお稲荷さんの宮司さんがしているんだって、商店街のお祭りのときに聞いた。

 人影はその宮司さんと、作業しに来たらしい大人たち。

 それとどういうわけか、ツバサだった。大人にまざってなにをしているんだろう。

 風と雨で流されたのか、赤茶色の土が階段の真ん中までべちゃべちゃと広がっている。その泥に埋もれるように、神社まわりのサクラの枝や葉っぱも散らばっていた。

「階段、すべりやすいから気をつけた方がいいよ」

 ツバサはふり向きもしないで言った。

 背中に目がついてるのかな、メガネのくせに。

「おお、すごいねえ。まさに嵐のあとって感じ」

 ウミはツバサの注意を気にもかけないで、トットッとかけあがった。

 でも夏希は慎重に階段に足を乗せる。それでも何度か足がすべってよろめいた。ぬれた赤土は本当にすべりやすい。

 ウミはサンダルなのに、なんであんなに軽やかなんだろう。あたしなんてちゃんとスニーカーなのにね。運動能力のちがいか、ちょっとくやしいけど転ぶよりはましだからゆっくりと登った。

 鳥居をくぐって境内を見ると、台風の被害は瓦や枝葉が吹き散らされただけじゃなかった。

 拝殿の前に置かれていた二匹の狛犬のうちの一匹が、石の台から転がり落ちていた。

「うわあ、かわいそう!」

 ウミのちっともかわいそうではなさそうな明るい声が、境内に響いた。

「風だけでこんなことになるかな」

 ツバサはしゃがみ込んで横倒しの狛犬をつついている。不思議と泥はついていない。

 ウミに追いついた夏希もそのとなりからのぞきこんだ。

 いつも見上げていた狛犬を見下ろすなんて、ちょっとヘン。

 下から見ていたときはこわい顔だと思っていたけど、こうして近くで見るとどこかユーモラスで憎めない。口をかぱっと開けて、キモかわいい感じ。

「狛犬って、普通は口をあけた阿像と口をとじた吽像のペアなんだけど、これは口をあけた阿像の方なんだよね」

「へえ、そうなんだ」

 ツバサは、熱のこもらない口調のウミを見向きもしないで、狛犬を見つめながら続ける。

「たいていは一緒に作られるものだと思うんだけど、この神社のは、こっちの阿像のほうが古いんだ」

「ねえ……なんでそんなことわかるの?」

 夏希の質問に、ツバサは横目で台の上に乗ったままのもう一匹を見上げた。

「あっちは石の角がとがってるだろ? だから新しいんだよ」

 言われてみればその通り。転がっているほうは耳のはしっこも欠けていた。

 きのうの風で台から落ちたから割れたんじゃないよね。だって欠けた耳に苔がついているもの。

 それに比べると台の上の狛犬は耳もピンと立っている。

「ふぅん、こっちのほうがおじいちゃんなのかあ。早く元通りにしてもらえるといいね」

 ツバサは立ち上がって、苦い顔で首をふった。

「ここは階段も境内もせまいからクレーンも入れられない。元にもどすのは難しいって、さっき宮司さんが言っていたよ」

「え? じゃあこの狛犬は? 人が持ち上げるの?」

「それしかないんじゃないかな。足場を組んでロープをかけてひっぱるとかかなあ」

 試しに手で石の狛犬を押してみた。当たり前だけどびくともしない。

 なんキロくらいあるんだろう。それともなんトンなのかな?

 夏希はもう一度狛犬のせまいゴツゴツしたひたいのあたりをなでて、腰をのばした。

 拝殿のすぐ裏は崖になっていて、葉っぱを茂らせた木のすき間から茶色ににごった天青川が見えた。

 その向こう、川の対岸は田んぼが広がっているけれど、ところどころ稲がたおれている。

 ひどい被害はなさそうだけど、農家の人は大変なんだろうなあ。

 きのうの雨風を思い出すとこわくなって、夏希は背中をまるめたくなった。

「最近、台風多いよね。川の土手、切れなくてよかったけどさ」

 ウミが首を伸ばして天青川を見下ろした。

「君、坂田酒店の海ちゃんだろう? 危ないから崖にちかよっちゃダメだよ。くずれるかもしれないからね」

 後ろで宮司さんが怒鳴るように言った。

 はーいと返事だけして、ウミはぺろっと舌を出した。

「そんなヘマはしないよねえ。ちっちゃい子じゃないんだし」

 うんうんと、夏希とツバサもうなずく。

 せまい町では、大人も子どももみんな顔見知り。それだけに、ときどき視線がわずらわしいのだ。

「はい、気をつけます。危ないところには近づきません」

 ツバサがメガネをおしあげながら声を張る。宮司さんは、神野君なら大丈夫だなってうなずいて、作業の人と一緒に階段を下りていった。

 里居家だけではなく、町の人のツバサ評価も高いのだ。自慢したいような、やっぱりくやしいような。

「ねえ」

 夏希はぐるっとあたりを見回して小さな声で言った。

「宮司さんに言われたからじゃないけど、カワラもあちこち落ちてるし、危ないからそろそろ帰ろうよ」

「拝殿もがたがきてるかもしれないな。確かにそっちにもあんまり近よらないほうがいい」

「あぁ、昨日雨もりしちゃったかもねえ。ふるやのもりはこわいよねえ」

 ウミがケケケとヘンな声で笑った。

 オオカミやどろぼうが、雨もりのことをこわい化け物とまちがえる『ふるやのもり』なんて昔話、夏希にとっては保育園のころに読んだきりだ。でも下に一年生の双子がいるウミは今でもよく絵本を読んでいる。

 親たちが店でいそがしいときは、ウミが妹たちのめんどうをみているのだ。めんどくさいって文句ばっかり言ってるけど、ウミはえらいなあ。

 あたしだけ、なんにもできてないと思うと、やっぱりちょっと……とっても情けない。

 かわいいとか、頭がいいとか、元気がいいとか。なんにもないな。

「で、さあ。ツバサはなんで神社に来たん? 狛犬に興味なんてあったっけ」

「興味があるって言うか。鈴が鳴ったから」

「すずぅ?」

 夏希も首をかしげて、それからドキンとした。

 なんで昨日の夜のこと、いままで思い出さなかったんだろう。

 すごい風とたたきつけるような雨。月にかかる黒い雲。

 それから鈴のような不思議な音。

「うん。この狛犬はあけた口の中に鈴を持っていたはずなんだ。チビのころからおもしろいなあって見てたからまちがいない。それなのに今はない。どこにいったんだろう」

「口の中って、そんなとこ見てたの? ツバサらしいなあ」

 ウミは笑ってから首をひねった。

「本体が台から転げ落ちたんだから、鈴もそのへんに転がってるんじゃない?」

「うーん、そんなはずないんだよ。だって、小さいころ、台によじ登って取ろうとしたことがあるんだけど取れなかったんだ。鈴はただ置いてあっただけじゃなくて口とくっついていたんだと思うんだけどな」

「よじ登ったあ? なんと! 罰当たりな。じゃあ落っこちたときに割れちゃったとか」

「割れたようなあともないんだ。ほら、ツルツルだろう?」

 ツバサは狛犬の口に手をつっこんでみせた。

「それに鈴の音が聞こえたんだよ」

「石の作り物の鈴が鳴るわけないじゃん」

「そう。取れるはずのない石の鈴が取れて、鳴るはずないのに鳴ったんだよ」

 夏希は口をきゅっと閉じた。

 なんだかこわい。あれは夢だとか、空耳だとか言ってほしいのに。ツバサは狛犬の口をのぞきこんで動かない。

「その鈴の音っていつ聞いたん? さっき?」

「昨日の夜。ちょうど台風の目に入って静かになったときに聞いたんだよ。リーンリンリンって鈴の音。な、ナツ?」

「う……うん」

 とつぜん話をふられて、夏希は歯切れ悪く首をななめにふった。そうだって言いたくない。ねぼけたんじゃない? って言いたい。でも聞こえたのは本当だからウソもつけない。

「ええっ? ナツも聞いたの? それって虫の声じゃない? ほら松虫も鳴き出した~」

「ほら松虫が鳴き出しただろ」

 ツバサは地面の狛犬を見つめたまま言い直す。それから足で倒れた草をかき分け始めた。

「もしかして探してんの?」

 ウミが聞いた。

「あれは石じゃなかったと仮定して。転がったときに口から出ちゃったならそのへんにあるはずだ。一緒に探して」

 えええっ、いやだ! そんな石でできてるはずなのにリンリン鳴るオカルトな鈴なんて見つけたくない。

 なのにウミったら「ほーい」ってお気軽な返事をして、拝殿の床下をのぞきこんだりしている

「ね、ねえ、あぶないよ。ウミ、拝殿に近づくなってさっきツバサも言ってたじゃん。もう行こうよ」

 うったえてみたけど、声が小さすぎて二人には聞こえなかったみたい。

 しかたなく、ウミのそばをウロウロする。

 すると――。

 ――リーン、リリリリリ、リンリンリリン。

 音が聞こえた。

 こわがりの夏希だけじゃない。ウミもツバサもぴたっと動きを止める。

「ど、どこだろ?」

 昨日の夜のは夢だったかもしれないけど、今度のは夢じゃない。はっきり聞こえた!

 やだ、こわいよ。

「あれだ」

 ツバサが、拝殿の、階段のかげを指さした。

 そこに、夏希のこぶしより小さな丸い石があった。

 ううん、石じゃない、鈴だ。青緑色の丸い鈴。

 そう思った瞬間、鈴がぼうっと光り出す。

「うわぁ、なにこれ、マジック?」

 ウミがうわずった声で夏希にだきつく。

 鈴はどんどん、どんどん光って。

 それから、ボンと二つに割れた。

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