第7話
「新海、おはようございまちゅ」
クラス内で1,2を争う体格の持ち主である阿仁田くんが赤ちゃん言葉になっていた。
「えーっと、おはよう。……何があったの?」
教室内はだいぶざわついている。が、阿仁田くんに声を掛ける者はいない。そりゃ自分より大きいサイズの赤ちゃんは恐いわ。
「それが、家に帰ってからこの本を読んだんでちゅ」
表紙には『もう辛抱しない 甘えん坊』と書かれていた。タイトルも怪しいが、本屋敷先輩と運んだ本みたいな独特の雰囲気もある。
「慣れない読書でだんだん眠くなったんでちゅ。それで朝起きたら語尾がこんな感じに……」
本人は語尾だけだと思っているみたいだが、なんとなく仕草も赤ちゃんっぽい。
無暗に手をグーパーさせて何かを掴もうとしたりとか、股を広げて座ったりとか。
「阿仁田くん、こんな大変な状態でも学校に来たのは、お兄ちゃん属性の責任感が残ってるから?」
「そうでちゅ。体は動くし、頭も働いてまちゅ。だから……だから……」
目がだんだんと潤んできて今にも泣き叫びそうだ。お兄ちゃん属性は消えたわけじゃない。
ただ、どういう訳か強力な赤ちゃん属性が追加されて様子がおかしくなっているようだ。
「やっぱり、この本が怪しいよね」
泣くのを我慢した表情で阿仁田くんは頷く。
「実は昨日、図書室に行く前にある先輩と知り合ったんだ。その先輩なら何か分かるかも」
この一言で阿仁田くんの顔はパーッと明るくなる。表情がコロコロ変わって本当に赤ちゃんのようだ。
「ちゃんと連絡先を知ってるわけじゃないんだけど居場所の心当たりはある。放課後一緒に行ってみよう」
「ありがとでちゅ。お願いしまちゅ」
現状、頼みの綱は本屋敷先輩しかいない。これでダメだったら……いや、わずかな希望を諦めないのがヒーローだ。阿仁田くんに頼りにされてるんだ。頑張れ俺!
そんな気合はつゆ知らず、お姉ちゃん属性の妹尾さんが阿仁田くんに声を掛ける。
「阿仁田くん、何か悩みがあるならお姉ちゃんに言ってくださいね」
「あ、ありがとでちゅ」
照れくさそうに体をもじもじさせる巨大な赤ちゃん。正直、かわいくはない。
ある意味目標は達成されてるような気がしないでもない。けど、こういうことじゃないんだよね阿仁田くん?
「……ありかも」
俺は本当にこの人を目標にしてよかったのか。若干自信を失いつつあった。
放課後、阿仁田くんを連れて資料室へと向かった。
部屋には鍵が掛かっていてノックをしても返事がない。まだ本屋敷先輩が来てないだけかもしれないのでしばらく待つことにした。
「この部屋はなんでちゅか?」
「ちょっと危ない闇属性の本を管理してるんだって。昨日偶然知り合った先輩がここを任されてるから、もしかしたら阿仁田くんに起きた赤ちゃん化現象についても分かるかなって」
「それは頼もしいでちゅ」
期待と不安が混ざった表情で赤ちゃん言葉を阿仁田くん。五分ほどすると本屋敷先輩がやって来た。
「昨日ぶりです。先輩」
「あれ? 新海くんと……」
「友達の阿仁田です。ちょっと先輩に相談があって」
「よろしくお願いしまちゅ」
赤ちゃん言葉を喋る巨体の後輩に本屋敷先輩は言葉を失ってしまった。
一通り事情を説明すると先輩はすぐに納得してくれた。
「この本はね、タイトル通り甘えたいと思っている人が読むことで効果が表れるもの……かな」
「そんな簡単に属性が付くものなんですか?」
「だから恐いんだよ。幸いにも、この本は赤ちゃん属性を望んでないと意味がないみたいだけど」
「俺、赤ちゃんになりたかったのか……」
ショタを通り越して赤ちゃん願望があったことに若干ショックを受けている様子だった。
「直接的に赤ちゃんというより、甘えたいという感情をこの本は赤ちゃん属性という形で叶えてるって感じだと思う」
「妹尾さんに甘えたいなんて邪なことを考えなければこんなことには……うぅ……」
目にじわっと涙を浮かべながら阿仁田くんは拳を握る。
「それで先輩。阿仁田くんのこの属性を解決するにはどうすれば」
「うーん。一つだけパッと思い浮かぶ方法があるんだけど……」
髪をかき上げて先輩は奥の本棚へと向かう。今日も相変わらず表情がよく見えなかったけど、一瞬だけ見えたその瞳はやっぱり魅力的だった。
「可能性があるとしたらこれかな」
いかにもな古めかしい雰囲気を放つその本の表紙には『属性反転の書』と記されている。
「読んで字のごとく、属性を反転させる本だね」
「属性を……反転」
「いかにも危なそうだから試したことはないけど、精神的な属性を反対のものにする方法が記されているんだ」
例えば。と先輩は解説を続ける。
「その、えっと、胸が小さい人が突然大きくなったらおかしいでしょ? そういうのは無理で」
先輩の胸元を確認すると確かにこの本を試した経験はなさそうだ。いや、先輩は自分の欲求のために闇属性を悪用するような人じゃない!
「今の阿仁田くんに付いている赤ちゃん属性を反対にすれば大人っぽい属性になるってわけ」
「なるほど! じゃあこの本を読めば」
一筋の希望が見えたところで当事者である阿仁田くんが疑問を呈した。
「大人ってどれくらい大人でちゅか?」
「あ……」
「この本のリスクも考えなきゃなんだけど、そもそもの問題はそこなんだ」
お兄ちゃんなのか、親父なのか、おじいさんなのか。
「ごめんね。ちゃんと力になってあげられなくて。私にできるのはやっぱり本の管理だけ……」
先輩はしょぼんとうつむいてしまい、ますます表情が見えにくくなってしまった。
「そんなことはないでちゅ。おかげで一つ解決策が見つかりまちた。いろいろ試して、それでもダメなら頼りにさせてもらってもいいでちゅか?」
うつむいたまま少し悩んで、顔を上げた先輩は答える。
「もし本の力を頼るなら、その時は先生にも相談させて。管理してるのは私だけど、使うってなるとどうなるか自分でもわからなくて」
「ありがとうございます。俺一人じゃ何もできなかったのに、先輩に相談したらいろいろわかって……先輩はすごいです!」
「そんなことないよ。友達のために奮闘する新海くんこそ、ヒーローみたいだよ」
えへへ。と笑う先輩からは闇属性の暗さを微塵も感じない。闇属性というものをちゃんと理解できてないっていうのもあるけど、先輩は本当に闇属性なんだろうか。
「先輩、今日はありがとうございまちた。ビックリさせてちまってごめんなしゃい」
「私の方こそ、初めて会った人に対して失礼だったよね。人見知りっていうのもあるんだけどギャップに驚いちゃって」
「気にしないでくだしゃい。クラス全員に同じリアクションをされて慣れまちた」
全員? 本当に全員か?
「ねえ、阿仁田くん。本当に全員が絶句してた?」
「うぅ……そうでちゅ。自分自身もビックリしたくらいでちゅ」
「妹尾さんは……阿仁田くんにとっては珍しかったかもしれないけど、妹尾さんはいつものお姉ちゃんだった!」
お姉ちゃん属性のなせる技なのか、赤ちゃん状態の阿仁田くんに対しても他のクラスメイトと同じように姉として接していた。
普段の阿仁田くんはお姉ちゃんと対等なお兄ちゃんだから珍しいシチュエーションだけど、妹尾さん自身は普段通りだ。
「先輩、『もう辛抱しない 甘えん坊』って甘えたい欲求を叶えてるんですよね?」
「う、うん」
「もし心の底から甘やかされて満足したら、赤ちゃん属性が消えるって可能性はありますか?」
ハッとした先輩がすごい速さでページをめくっていく。
「あ! 『心を委ねられる者と出会い重圧から解放された時、赤ちゃんを卒業できるだろう』だって!」
「阿仁田くん、心の準備はいい?」
「なんのでちゅか?」
「妹尾さんに告白する心の準備!」
まずは妹尾さんを探すために一人で教室に戻った。よかった。今日も残ってる。
「あの、妹尾さんちょっといいかな」
「なーに?」
自分より小さいのに、その表情や語気は優しく包んでくれる安心感を与えてくれる。
「阿仁田くんのことなんだけど」
「なんか大変だよね。お姉ちゃんにできることがあればいいのだけれど」
「それが、あるんだよ」
本当! と、クラスメイトの力になれることに心から喜びの声を上げる妹尾さん。
「私は何をすればいいのかな?」
「どうってことないよ。ここで阿仁田くんと話をしてほしい。……お姉ちゃんとして」
「いつも通りということでいいのかしら?」
「そう。阿仁田くんを救おうとか気負わずに、できるだけ普段の妹尾さんでいてほしいんだ」
「少し緊張してしまうけど、お姉ちゃん頑張るわ」
ふんっ! と鼻息を鳴らす姿は頼もしいと同時に幼さを感じて不安になるんだけど、妹尾さんなら大丈夫だろう。
「ありがとう。それじゃあ阿仁田くんを呼んでくるね」
緊張した面持ちで阿仁田くんは教室の扉を開ける。
「お姉ちゃん。僕のためにありがとでちゅ」
「いいのよ。私はお姉ちゃんだからね。でもまさか、お兄ちゃん属性の阿仁田くんの力になれる日が来るとは思っていなかったわ」
「俺もそうだよ。こんなシチュエーションになるなんてね」
「ふふ。本当に」
阿仁田くんは望んでいた展開ではあるんだけどね。
「それで、阿仁田くんに何があったのかな?」
俺は阿仁田くんが闇属性の力を持つ本によって赤ちゃん属性を手に入れてしまったこと。
この事態を解決できる別の本は存在するが、リスクを考慮して別の解決方法を探していることを説明した。
元を辿っていくと阿仁田くんが妹尾さんに恋してることが原因だったりするので、それはどうにか隠し通した。
これから起こることを台無しにする訳にはいかないし。
「怪しげな本を読んだことは感心しないけれど、安易に胡散臭い方法に頼らないのは偉いわ」
妹尾さんは、いい子いい子と阿仁田くんの頭を撫でる。
阿仁田くん、顔が真っ赤だぞ!
「じゃあ俺は一旦失礼するよ。妹尾さん、阿仁田くんを頼むよ」
「任せなさい」
たぶん妹尾さんが思っているのと違う展開になるだろうけど。
「阿仁田くん、がんばって」
そっと耳打ちをすると阿仁田くんはコクンと頷いた。
告白を覗き見するなんて野暮なことはしない。
でも、誰かが入ってきたら困るので教室の壁からは離れる形で見守ることにした。
これで声が聞こえてきたら、それは声が大きいせいだ。
「告白、成功するといいね」
本屋敷先輩もこの場に同席している。
万が一、赤ちゃん属性がより深く根付く事態になった場合に属性反転の書を使ってくれるそうだ。
「きっと大丈夫だよ。だって、ヒーローが認めたお兄ちゃんなんでしょ?」
夕陽に照らされる笑顔は後ろ暗さなんて感じない、まさに希望の光のようだった。
「阿仁田くん、今回は大変だったね」
「は、はい」
「そんなに緊張しなくていいよね。だって私はお姉ちゃんなんだから」
この一週間、唯一お姉ちゃん属性を発揮できなかった阿仁田に対して自らの能力を発揮できることに喜々とした表情を浮かべている。
(いけない。いつも通りって頼まれていたわね)
拓の依頼を思い出し、いつものキリっとした顔に戻る。
「さっきのいい子いい子は本心よ。甘い誘惑に負けない精神力は、やっぱり頼れるお兄ちゃんって感じだもの」
「そう言ってもらえると嬉しいでちゅ。それで、あの……」
「なにかな? お姉ちゃんに言ってみて?」
「僕、ずっとお姉ちゃんに甘えたいと思ってまちた。だから、怪しげな本を読んで赤ちゃん属性に……」
妹尾はじっと阿仁田を見つめて、うんうんと話を受け止める。
「でも、自分が赤ちゃんになって、頭をナデナデしてもらってわかったんでちゅ」
数秒の沈黙。それでも妹尾は言葉を急かしたりしない。
「みんなから頼りにされるのは嬉しいことだけど、たまには甘えたい。俺の勘違いだったらごめんだけど、妹尾も毎日大変だよな。
だから、そんな苦労を分かち合って、対等の立場になりたい。俺は妹尾を頼るし、妹尾も俺を頼ってほしい。そんな関係になりたいんだ!」
『好きだ』と一言で伝えることはできなかった。性別によって呼び方が違うだけのほぼ同じ属性で、自分と同じ悩みを抱えているんじゃないかという想像。
赤ちゃん属性に逃げた自分なんかを頼りにしてくれないかもしれない。妹尾は頼られることに疲れていないかもしれない。都合の良い話を押し付けているだけかもしれない。
モヤモヤと悩んでいた感情を吐き出してスッキリしたと同時に、阿仁田は不安に襲われ妹尾を顔を見れないでいた。
「こんなこと言ってもらったの初めてだよ」
声の主を見ると涙が乾いたような跡が残っていた。
「やだなぁ。お姉ちゃんが泣くわけないでしょ」
聞いてもないのに泣いたことを否定する。
「でも、そっか。阿仁田くんは私のお兄ちゃんでいてくれるんだ」
「おう! 任せろ! ……って、赤ちゃん言葉じゃない! それにこう、力が湧いてくる感じだ」
「さっきから赤ちゃん言葉は直ってるよ。それに、頼れるお兄ちゃんって感じのオーラも出てる」
「そうか! きっと妹尾お姉ちゃんのお陰だ。ありがとう」
深々と机に頭を付けて感謝の意志を伝える。
「うふふ。こちらこそありがとう。……ねえ、阿仁田くん。たまには赤ちゃんになって甘えてもいいと思わない?」
「いや、俺の理想は新海くらいのショタだったんだが……」
「へー。ああやって女の子からチヤホヤされるのが良いんだ」
「違う! 俺はあくまでも妹尾に!」
思わず本音が漏れてあたふたする阿仁田を楽しそうにからかう。
「ねえ、お姉ちゃんからのお願いなんだけど、せっかくだからこの部屋を出るまで阿仁田くんは赤ちゃんってことにしない?」
みんなの頼れるお兄ちゃんは、好きな女の子にお願いされたら尚更断れない。
「わ、わかりまちた」
「それじゃあ、目も瞑って」
阿仁田は無言でスッと目を閉じる。
それから三十秒の間があり、放置プレイでもくらうのではと不安が募っていると……
―――ちゅっ
頬に柔らかく艶やかな感触が走った。
「ほっぺにチューも、赤ちゃんになら普通だよね?」
妹尾はちょこちょこと扉の方へと駆け出していく。
「頼りにさせてね。お兄ちゃん?」
「任せるでちゅ」
教室には妹尾との約束通り赤ちゃんのままの阿仁田だけが残った。
勢いよくドアを開けて教室から走り出す妹尾を見て、何事かと俺達は中に入る。
「阿仁田くん、大丈夫?」
「この顔は一生洗えないでちゅ」
「なにがあったの!?」
結局赤ちゃん属性は消えなかったのかと焦ったが、資料室に戻り詳しい話を聞てホッとした。
阿仁田くんは無事にお兄ちゃん属性だけになり、妹尾さんに甘えたいという願望も叶えたのである。
「新海、本屋敷先輩。今回は本当にありがとうございました」
「思わぬ形だったけど、阿仁田くんの願いが叶ってよかったよ」
「うんうん。これも使わずに済んだしね」
先輩は属性反転の書をポンポンと叩く。そんな雑な扱いをしていいのだろうか。
「これからはおかしな本に手を出したらダメだよ?」
「はい。属性の恐ろしさがよーくわかりました」
元々悪気はなかったし、お兄ちゃん属性の責任感からか阿仁田くんの言葉からは反省の意志をひしひしと感じた。
「ふぅ。なんか疲れたね。阿仁田くん帰ろうか。先輩はどうします?」
「私はちょっと片付けてから帰るね」
「……あっ! 俺、教室に忘れ物してたから教室戻って1人で帰るわ。じゃあな。本当にありがとう!」
そう言って阿仁田くんはそそくさと資料室から出ていってしまった。つまりこの部屋には俺と先輩の二人だけ。
「阿仁田くんにフラれたので、先輩手伝いますよ」
「それじゃあお言葉に甘えて」
先輩は小さな体で大量の本を運びつつ俺に指示を出す。あれを運んで。これを運んで。せわしなく動いてる中で、勘違いかもしれないけど嬉しい言葉が聞こえた気がする。
「友達を救えるなんて、新海くんはヒーローだよ」
シチュエーションが生んだ空耳かもしれない。だけど、誰かにヒーロー扱いされたのはすごく嬉しかった。
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