第9話 リスタート~暖機

 六時半に小型PCのアラームが鳴って、僕は目を覚ます……いつもよりかなり早く起きたのは、陳師傅の言いつけを守り、馬歩を行う為だった……机の上の写真立てに手を合わせた後、ゆっくりとストレッチを行った、身体が暖まり...そして緩んだ……ジャージに着替えて外に出た、庭の真ん中で深呼吸を1回し、師傅の昨日教えを思い出しながら腰を落として馬歩の姿勢をとる……外気は早朝ともなれば少し肌寒い9月中頃……庭先に生えているモミジはまだまだ青葉で紅葉を愉しむのは10月中頃からだろう。


 ……幼い頃……


 母さんと毎年このモミジの紅葉を観ていた……ある日、小さな赤いモミジを僕の手に当てて、

「 I 市に着く前に住んでいた所にもモミジがあってね、その頃貴方の手はちいちゃくて、このモミジとおなじ位の大きだったのよ、紅葉した頃にトウマの手にモミジを重ねてあげるとすごく喜んでた……」母さんは僕の手に乗せたモミジを取ってそれを太陽にかざした、モミジの葉脈がまるで血管のように見える……

「もう今じゃ私の手と同じ位大きくなったわ……ねぇ、トウマ、今は何の事か分からないと思うけど、覚えておいて欲しい事があるの……」母さんは一呼吸してからトウマの手を優しく握って話した「これから貴方が大きくなった時、色んなお願いを皆から受けると思う、抗体を持つ若い貴方は、ここの皆の希望の光になるの……私には分かるわ……けど、悲しいけれど、その全ての希望に貴方1人で答える事は出来ないの……だから、無理をしてはダメ……色んな人の期待に振り回されて、貴方の目的の見失ってはいけないの……」母さんが悲しそうな顔で続ける……

「貴方が色んな人のお願いを聞いて応えてあげて、もし本来の目標が叶えられなくなったら、それが一番皆んなを不幸にする事なの、先生にはその事を重々伝えてあるわ、何かあったら先生に聞く事!お願いね……」僕には母さんの難しく抽象的な話の意味は判然とせず、母さんの話の後半部分だけを聞いて、最終的におっさん先生何かあったら聞けばいいや!とその時はあまり深く考えずに「うん!わかったよ!!」と元気よく返事した覚えがある。

 母さんはそんな気楽そうな僕の頬を両手で挟んで少し悲しそうな顔をし……でも直ぐに笑顔に変えて僕の額にキスをした。


 ……幸せなあの時から遠く月日を経た今、母さんの言わんとしていた事が少し分かる様になった気がする……

 現に今、僕はI市の住民から色んな要望を伝えられている、答えられそうな要望も、そうでないものも沢山ある、ユキ婆ちゃんの案件もそういったものの一つだ……

 他にも僕が外に出ている事で、何か頼みたい人が多くいると思う、僕がI市を歩いている時 様々な人達からの視線を感じる事がある、自意識過剰なのかもしれないけれど、多分駆け出しの今の僕には言えないけれど、僕が頼みたい案件に値する人間と判った時には、依頼したい事が有るのではないか……だから僕の事を注視しているのだと想う……

 近い未来、僕はその人々の依頼に忙殺され、本来の目的が達成出来なくなっては、僕が危険を犯して外に出ている事も意味を無くしてしまう……それは、大袈裟だがこの地域の人類の滅亡に拍車をかける行為になる可能性も孕んでいる。だからこそ僕は安易に本来の目的を忘れる訳にはいかない……


 青いモミジを観て、そんな事を思い出し……母さんは僕を連れている最中、様々な暗く惨い体験を味わったけれど、それでも濁ら無い心の持ち主だったと僕は思ってる、おっさん先生はよく母さんを「正しい事をしなければならないと思うより、したい事が正しい事になる様に生きなさい」を体現している女性だと尊敬していた、まぁ、それ以外にも多大な一方的愛情もあった訳だが……


 ……ダメだ……


 馬歩に集中していなかった、腰が浮いている、思い出に浸り、訓練がおろそかになっていた……もう一度、腰を落とし正しい姿勢をとる、「訓練だが、無意識にしてはイカン、訓練がより良いものになる様に考えながら行うのだ、馬歩1つにしても、より良い馬歩になる様に常に考えながら行うのだ」陳師傅の言葉を思い出す、師傅は続ける「例えば今行う馬歩が昨日と同様ではイカンという事だ、その為には、今の馬歩を考える事が必要だろ、時には間違った馬歩を行うかもしれん、それでも間違いに気付いたという事、それは進歩だよ……翌日からは間違いを正せば良い、そうして間違いを修正しお前にとっての『唯一無二の馬歩』になれば良いのだ……」陳師傅は言い最後にもう一言付け足した「時間切れになる前に、お前の生の目的を見つけるんだよ、今の話はその為の処世術だよ、馬歩に限った事じゃない」

「僕の目的は荒地に出て調査する事ですよ」僕が言うと、「それは、他者から与えられた目的だろ、お前の目的じゃないよ……」陳師傅は僕の言葉を切って捨てた……「確かに、他人から与えられた目的かも知れないですけど、今僕は自分自身の意思で進んで行ってます、イヤイヤやっている訳じゃない」僕は反論した「それはそうだろう、それならユキ婆ちゃんの件もイヤイヤやってないだろう、見つかればいいと心の底から思っているだろう、お前の事だその位私にも分かる、まぁ今は分からなくていい、ただ、お前の人生だ、誰かに振り回されるだけで、終わりたくないだろう……」

「……師傅、冷たいですね……」僕は思わず呟いた……

 陳師傅は少しの沈黙のあと……「……そうだよ、私は冷たいよ……この荒地で生きてきたんだ、自分の都合で見捨てたものも沢山ある、命からがら逃げてる人と自分の命とを天秤にかけて、そして助けなかった……」陳師傅は訥々と独り言の様に言い、それでも僕から目を離さなかった。「……ごめんなさい……」それしか言えなかった。

「構わん……事実だ……だが、後悔は在るよ、しかし覚悟も在るのだよ、それは私自身で決断したからだ……誰に言われた訳でも無い、私自身がその人を見捨てると決断したんだ……もしその人が生きて私の店に来て『何故助けなかった!!』と皆の前で詰り、暴力を振るったとしても甘んじて受け入れる、他人に判断を任せた訳では無い、自分で決めた事だ……まぁ、それでも、あの時助ける事が出来たのではないかという後悔はずっとあるのも事実だ……皆そうやって生きて行くのだよ……」強い言葉とは裏腹に陳師傅は静かな少し哀しい表情で続ける。


「だから、自分の判断で自分の目的を見つけるのだ、そこから覚悟が生まれ、覚悟はお前の能力の限界値を引き上げる、お前はお前自身の人生を生きるのだよ……」二つの眼球が僕をじっと見詰める……


「難しいですね、自分で判断する事……」僕の言葉は途中で途切れる……その覚悟が自身の心の内に無い事に、気付いたから……


「誰でも無い自分で決めた決断は安易に他人に責任転嫁も出来んしな……」陳師傅は最後にボソリとそう言うと「喋り過ぎたな、さぁ、もう一度……」師傅はそう言い……僕の腰側と腹側に掌を当てて、僕の姿勢正した。


 ……あの時の姿勢思い浮かべながら、

 ……馬歩を続ける……


 ……見つかるのだろうか??

 ……無限に広がる姿勢の中で

 ……自分だけの唯一無二な馬歩



 ……腰を落とし続けるのが、

 ……腕を上げ続けるのが、

 ……とても辛い、辛くて堪らない……



 ……止まっているのに、汗が吹き出る……

 ……20分が1時間に思えるほど……


 ……思わず尻餅ついた、暫く立ち上がれない、足が痙攣していた、これ程続けたのは今回が初めてだった。

 これが最良かは、全く解らない、今は自分の出来る限りの限界まで数をこなそうと思う。


 ……ゆっくりと立ち上がり、脚や肩をぐるぐると回し緊張を解く……

 玄関の靴箱上においたデジタル時計を見る、まだ7時を少し過ぎた程度だった……靴を脱ぎキッチンへ向かう、パンを1切れ卓上オーブンに放り込み、ダイヤルを回す、暫くして香ばしいパンの香りが鼻をくすぐる……程なくして、「チンッ」という音と共にパンが焼き上がった、僕はパンはカリカリに焼くのが好みなので、大抵全体がきつね色になっている。パンにバターを1欠片落とし溶けるのを待つと同時に、卵をフライパンに落とし、塩胡椒をしたら、卵周辺に水を回し掛け、蓋をした。

 5分もしたら、黄身は半熟な目玉焼きが出来上がった、そいつを皿に盛り、保冷庫から出した茹で野菜のブロッコリーを添える、牛乳もカップに注ぐ、パンの上のバターをスプーンで伸ばす。

「いただきます」と手を合わせブロッコリーをフォークで突き刺し口に入れた、仄かな野菜の甘みが口の中に拡がる、次いで、目玉焼きの塩胡椒の効いた白身を食べて、パンで追いかける、バターの染み込んだパンは絶品だ、それから黄身をスプーンで割り、パンで黄身を掬って口に入れる。

 美味いしか無い。

 後は牛乳を一気に飲み干して5分も経たずに朝食が終わった。

 母さんには「ゆっくり噛んで食べなさい」と何度言われた事か……直らない悪癖だった……

 食事をして一息ついたら、今日の予定を頭の中で反芻する、先ずはおっさん先生の所に寄り、その後、Y市に向かう、コンビナートの現状確認の為だ。確認後A県に向かい、いつもの作業だ、但し人口密集地だった為、「ヤツら」との遭遇頻度も高くなる事を覚悟しなければならない……



 ……忘れていた……ヨシタカの依頼、「変わり種のヤツら」の件、Y市に行く前に調査した方が良いか?否か?おっさん先生と相談しておこう。


 頭の中では旅路の準備がある程度出来た、そして僕は今までの調査で大分くたびれた防風加工のパンツを履き、同じく防風素材の厚手のジャケットを羽織った……玄関を出て、バイクを押して、おっさん先生の病院まで歩く5分程度の道程の中で僕はこれからの調査活動を再考する……また冬が来る……危険を考慮するなら、調査は一時休止して、春先に再開という事も考えられたが、僕とおっさん先生は危険よりも無くなりつつある時間を優先した、冬本番になるまでにまだ1ヶ月の猶予がある、調査人員は今は僕だけなのだ……今後調査人員を増やしたいのは当然だが、荒地に出るには最低限の装備、移動手段が必要だった、それ以前に、それを扱う人材が必要だ、

 最低限のサバイバル技術と運転技術を持った人材……『ヤツら』をかいくぐり、生きてI市まで情報を持ち帰れる技量を持った人材が……戻ってこれなければ、ただ荒地に貴重な資源を捨ててくるだけになってしまう……食品.燃料.移動手段.そして人間、どれひとつとしても、今のI市にとっては貴重な資源だった……無駄にする事など出来なかった……しかし、残された時間、一人だけで何処まで、調査出来るのだろう……そういう諦めにも似た気持ちも僕には有る……多分、おっさん先生にも有るだろう……根本的にこの人員不足を解決しなければ駄目だ……まぁ、だからこそ大都市に行き人間を探したいのだ、動ける人間を少しでも多く確保したいのだが……


 ……独り夢想しているうちに、おっさん先生の病院まで着いてしまった……


 バイクのサイドスタンドを掛け病院の玄関横にある立て付けの悪くなった小さなドアを開けて、「おはよー」と言いおっさん先生を呼んだ……奥から、「居間だ……入って来い……」とおっさん先生の声がする。


 ……そういや、渡すモノが有るとか言ってたっけ?

 何かオモシロイ物を貰えるんだろうか?僕は興味津々で居間に向かった……


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