第15話

 とっくに背後のかぐや基地は見えなくなり、気がつくと一時間ほど経過していた。移動距離は、正味三十キロほど。だが感覚的にはコミケのブースを軽く巡っていた程度な物で、それほどの疲労はなかった。


「佐治さんは」と、私はようやく無言で歩くのも暇になって、彼に尋ねた。「地球にいた頃は戦闘機のパイロットだったんですか?」


「いや?」


 軽く答えるだけの佐治。


「あれ、でも。F3に乗ってたんじゃあ」


「以前はな。F2、F15、F35、そしてF3のテストパイロットをやったが。それから先は駐在武官として、色々な国の大使館にいた。制服組、ってヤツさ」


「へぇ、そんなお仕事もあるんですね」


「まぁな。つまらん仕事さ。各国の軍との協力体制を整えたり、情報収集するのが主な仕事だ。最初は戦闘機を降りるのなんて嫌で断ってたが、将来的に月面基地の駐在武官になれるかもしれないと聞いて、仕方がなくな。ま、結果は悪くなかった」そして鏡面バイザーに被われた宇宙服の顔を、伴走する私に向けた。「どうした? 軍に就職する気になったか?」


「え? いえいえ。ただ、あまり良く知らない世界なので」


「ま、学生にしてみれば、会社だ組織だって世界は。さっぱりわからんからな。それで一生をある程度決める就職先を選ばなきゃならん。今になって思えば、無茶な話だよな」


「姉さんは単にSF好きなだけっしょ」ヘラヘラとして、テツジが云う。「戦闘機とか戦車とかの話を聞きたかっただけ」


「あ、アンタと一緒にすんなよ! 私は、そういう先端テクノロジーが切り開く未来に興味があるのであって、ただメカが格好いいとか、そういう考えじゃあ」


「何だ。別に〈メカが格好いい〉って考えるのは。悪い事じゃない」佐治は苦笑いしつつ。「オレだって、別にそんな思慮遠望があって空軍に入ったワケじゃないしな。単に戦闘機に乗りたかった。それだけだ。それだけだが、想いが単純な分、迷わなくて済む」


「迷う?」


「大人になるとな、〈こんな人生で良かったんだろうか〉って。思い返す物なんだよ。アレがやりたかった、これもやりたかった。でも今、この状況は何なんだ? ってな。だが本当に自分が好きな物を追い続けたら、多少の選択の失敗があっても。後悔せずに済む」そして彼は小さく笑い声を上げ、云った。「オマエらも、給料がいいからとか、何となく適正がありそうだからとか。そんな下らん理由で進路は選ばん方がいいぞ? やりたい事を叶えられる仕事を選ぶことだ」


「ま、それだけの能力が自分にあれば、楽なんでしょうけどね。私なんて、とても戦闘機なんて。操縦出来るはず、ありませんし」


 云った私に、佐治は哄笑した。


「何を云ってる。夢ってのは、望みだろう? 今の自分にない物を追い求める。そんな物が、黙ってて手に入るはずがないだろう。手を伸ばして、爪先だって、ようやく指先を掠めるんだ。違うか?」違わない。「要は、自分をどれだけ信じられるかって話さ。ニーチェだよ。世界的には敗北した思想だが、オレは好きだ。もっとも、あそこまで非情には。なれんだろうがな」


 ニーチェ? と、私は首を傾げた。どうもこの軍人はただ者じゃないとは思っていたが、やはりただの筋肉馬鹿ではなさそうだった。


 その佐治は不意に三輪車をスライドさせて停めると、宇宙服用の双眼鏡を取り出して一方を眺めた。ムーンキーパーは、一度止まると動くのに力がいる。だから私は止まるのも嫌だったが、仕方がなく足腰の力を入れて片足を滑らせ、彼の隣で立ち止まった。


「どうしました?」


 答えず、じっと一点を眺める佐治。一つのクレーターの外輪山が途絶える辺りだ。間もなく彼は双眼鏡を元通り納めると、アクセルを全開にして三輪車を急発進させた。


「ついてこい。司令室」と、彼は鋭く云う。「我々の位置から七時方向、約二キロほどだ。レーダーに何か反応はないか?」


 間もなく、私の耳にも、月面基地司令室のオペレーターの声が響いた。


「上空には、特に何も」


「いや、地上だ」


「そこはもう、曲率の範囲外で。地上にレーダーは届きません。GPSでの位置確認と衛星経由の通信のみが可能です」


 電波は、まっすぐに飛ぶ。けれども、地球も、月も、丸い。だから地面の陰になってしまうほど遠くは直接見えないし、レーダー電波も届かない。そして月は地球より小さいから、曲率も大きく、レーダーで捕らえられる範囲は酷く狭かった。


「クソッ、そうか。もうそんな場所か」


 佐治は舌打ちし、一つの大きな岩の陰に三輪車を滑り込ませた。促されて私たちもそこに身を隠すと、彼は軽い跳躍で岩の上に登り、再び双眼鏡を覗き込む。


「おい、ムーンキーパーのレーダーを作動させろ。わかるか?」


 云われ、私とテツジは顔を見合わせ、手元のパネルを操作する。


 間もなくゲームで見るような、私たちを中心とした丸いグリッドが現れ、いくつかの陰が表示された。私がその読みとり方に戸惑っている間に、テツジが声を上げた。


「なんか、いるっすね。確かに。機械的なのが。時速三十キロくらいで移動してるっすわ。しかしでけぇなこれ。ウチのLRVの倍はあるっすよ」


「テツジちゃん」と、宇宙服のヘッドセットに、月面基地にいる羽場の声が響いた。「云われたとおりに操作して」


 私も彼の指示に従ってムーンキーパーのコンソールを操作していく。間もなく画面には、何かの波形らしき物が現れた。


「なんか、波打ってますけど」


 云った私に、羽場はすぐ舌打ちした。


「それ、アームストロング基地が衛星通信に使用してる周波数帯だ」そして彼は、素っ頓狂な叫び声を上げた。「どうなってんのよ! 連中、ホントはまだ出発してないはずでしょ! 隊長! どうしてもう、あんな所まで行ってるの!」


 ふむ、と、ヘッドセットに隊長の唸り声が響いた。


「どうやら我々が協力者だと思っていた男は、我々にガセネタを掴ませて油断させるための罠だったようだな。さすがはリチャード将軍だ」


「何その高度な情報戦っぽいの! ちょっと隊長、感心してる場合じゃないって! これは遊びじゃないんだよ!」


「まぁ落ち着け」苦々しく佐治が口を挟んだ。「このまま行けば、そうだな。連中に十五分ほど先行出来るはずだ。よし、急ぐぞ!」


 すぐ、佐治は三輪車を砂礫の中に突っ込ませていく。今度は全力だ。砂や小石を吹き飛ばし、煙を上げながら。


「まったく、何だってのさ」


 私は小さく愚痴ってから、仕方がなくムーンキーパーを加速させる。それは私にしても、F3の搭乗券がかかっている。あまり乗り気薄ではあったが、ここまで来て負けるのも馬鹿馬鹿しかった。


 さすがに全力で走るとなると、だいぶ体力を使う。すぐに足は重くなってくるし、速度があるだけに足場が悪いとすぐにバランスを崩しそうになる。五分もすると息も絶え絶えになってきて、腰にもなんだかヤバそうな堅さが感じられてきた。


 けれども、ここからは更に難所が待ち構えている。前方は次第に上り坂になっていて、切り立った十五メートルほどの壁が現れる。佐治は地図のライン通りに三輪車を旋回させて迂回路に向かおうとしたが、そこで不意にテツジの一号機は速度を落とし、ヨロヨロとふらつき、遂に足を停め、上背を倒し、月面に膝を突く。


 やった、勝った!


 そう、私も安堵して足を停める。テツジより先に音を上げるのだけは嫌で、必死に頑張っていたのだ。


「おい、どうした!」


 三輪車を停めて振り返る佐治に、テツジは無線をオンにする。途端に彼の、ゼエゼエとした息づかいが響いてきた。


「いや、無理、無理っす、シンドいっす、ちょっと、休ませて!」


「何を云ってる! この崖を回り込めば、すぐにJTVが見える!」


「んなこと、云われても。走るのは想定外っすよ。足の裏に自由度は入れてないから、こう足場が悪いとバランス取るのキツいっす」


「ほう、なるほど」云って、首を傾げる佐治。「確かに今は下駄を履いて走ってるようなものだからな。要改良だ。難しいのか?」


「まぁ、少し考えれば、何とかなるっしょ」


「よし、じゃあ先に行こう」


 非情に言い放つ佐治に、テツジは悲鳴を上げた。


「だから休ませてって!」


「何を云ってる。五所川原は全然平気そうだぞ? 女に負けていいのか?」


 全然平気じゃなかったが、私は辛うじて直立していた。無線はオフのまま。そんな私を見上げて、テツジは喘ぎながらぼやく。


「いいっすよ、別に。姉さん、先に行ってJTV確保しといて」


「い、いやっ!」私は無理に息を飲んでから、無線を入れた。「何云ってるの! 私たちチームでしょ! 一緒にゴールできないんじゃ意味ないじゃん!」


 単純にもう、走りたくない。だがその意図は悟られなかったようで、テツジは、えぇ、と嫌そうな声を上げた。


「姉さんって、そういうとこ、無駄に体育会系だよな」


「うむ。頼もしい限りだ」と、佐治のあまり嬉しくない賞賛。そこで彼は私たちの背後を指し示した。「見ろ! マゴマゴしてると追いつかれる! 行くぞ!」


 えぇ、と再び声を上げるテツジ。確かに振り返ると、アームストロング基地の巨大なLRVが、砂塵を上げながら迫ってくるのが見える。私たちはだいたい、彼らに対して二キロほどの先行しているだろうか。


 しかし地図を見ると、JTVまでまだ、この崖をぐるりと回り込んで二キロ程もある。


 疲れたし、無理臭い。


 テツジも同じ風に考えている様子だったが、彼はふと虚ろに辺りを見渡し、目前に迫った断崖を見上げ、云った。


「つか、こんくらい、登れるんじゃ? ここ上がったら、すぐっしょ。その方が楽なんじゃ?」


「え、ちょっと何云ってんの!」私も慌てて、崖を見上げる。「七十度くらいあるじゃん! 無理無理!」


「そうか?」


 テツジは云いつつ、立ち上がる。息は殆ど落ち着いている。そして十メートルほど後ずさると、助走し、加速を付けて、膝を曲げて、飛んだ。


 おお、という佐治の声。


 そう、飛んだ。確かに飛んだ。全長十メートル。ヒトの身体を六倍に拡大させるムーンキーパーは、地球上で一メートル飛ぶのがやっとな程度のテツジでも、六メートルの跳躍を可能にさせる。砂礫をまき散らし、両足で何度か宙を蹴り、星を掴もうかというほどに伸ばされた両手は、遂に崖の上へと届いた。


 そして金属の指を、岩にめり込ませるムーンキーパー。そこから少しテツジはジタバタしていたが、すぐに崖に足がかりを得ると、再び軽く跳躍し、両足を崖の上に、しっかりと乗せた。


「おお、余裕余裕」それほど大したことでもない、という風なテツジ。「足より手の方が使いやすいんだよ。やっぱこれだ」


「素晴らしい! ブラボー!」


 らしくない歓声を上げる佐治。彼は宇宙服で両手を叩いて見せてから、すぐに三輪車をウィリーさせながら発進させた。


「すぐに迂回してくる。それまで先に行っててくれ!」


 いや、それは私が登れたらの話で。


 そう彼を引き留めようとしたが、とっくに佐治は砂塵の向こうに消え去っていた。

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