第9話

 月面天文台は、基地から百メートルほど地下通路を通った先に作られている。何しろ彼らは、何百光年という先の、針の先ほどの点を観測する。ちょっとした揺れでも支障がでるため、なるべくヒトの活動するエリアから離れていた方が都合がいいのだ。その複数のエアロックを隔てた先にある天文台には、見学や取材で何度か訪れた事があった。その頃はまだ工事中で、半地下にある土累と鉄板で囲まれた観測室は、様々なケーブルが這ったり計器が山積みになったりしていた。しかし今では二十畳ほどの広さの中央に、光学・電子望遠鏡の基礎である太い鉄の柱が鎮座していて、その周囲を囲むようにして様々なコンソール・コンピュータが設えられている。更にその周囲には十数名の科学者たちがひしめき合っていて、何事かを議論したり、真剣に数値を追ったりしていた。


「ちょっと、人口密度高すぎね?」


 と、入り口から覗き込んだテツジ。確かに扉を開けた途端にムワッとした体臭が漂ってきて、私も思わず顔をしかめてしまう。


「ま、世紀の大事件中なんだから。仕方がないでしょ」云った私に、興味なさげに口を尖らせるテツジ。「なに? アンタ、ロボット好きなのにベテルギウス興味ないワケ?」


「うーん、なんつーか、だから何? ってならね?」


「何が」


「いや、だってよ。ロボットは使えるじゃん。格好いいじゃん。でもよ、星とか、宇宙とか。ワケわかんなくね?」


 あぁ、と、私は何となく彼の考えがわかったような気がして云った。


「つまりアンタは、実用的なのじゃないと興味がないと」


「ま、そうかな」


「それは残念ですね!」


 不意な方向からディーさんの声がした。真上だ。それで揃って上を見上げると、そこには中二階のタラップが走っていて、ディーさんが手摺りから身を乗り出している。軽く片手を上げる私に彼女は手を振ってから、ポンと弾みをつけて柵を乗り越え、下に飛び降りてきた。


 優雅に、とすん、と舞い降りるディーさん。そして私が何か云う前に、彼女はテツジに顔を向け、人差し指を立てて見せた。


「でもね。いいですか? 例えばワープとか。興味ありません?」


「ワープ?」唐突な問いかけに、言葉を詰まらせるテツジ。「ま、ワープはアリかな」


「ワープというのは実現は遠そうですが、アレは時空間を歪める技術を用いています。それで時空間を歪めるには極々素粒子の世界を理解する必要があって、更にはこの宇宙が、どのような形で成り立っているかを知る必要があります。それにはどうしたらいいですか?」


「ど、どう?」


「はい。宇宙の極限状態を調べるのが一番です。例えばブラックホール。例えば超新星。パルサー。そうした宇宙で散発的に起きる極限状態を観察し、分析することによって、宇宙の仕組みを少しずつ知ることが出来ます。そうして私たちが宇宙の仕組みを完璧に理解できたなら、時空を歪めてαケンタウリやウルフ359、シリウスなんかにワープすることも。将来的には可能になるかもしれません。如何です?」


 如何です、と云われても、テツジは完全に頭がパンクしているようだった。中途半端に口を開け放ち、目を細め、まるで珍妙な動物でも見ているかのような目つきでディーさんを眺めている。


「いや、ははは!」私は無理に笑い声を上げた。「確かに凄いですよね! あ、で、あんまりお邪魔するのもアレなので、早速とりかかりますけど。何処です?」


 彼女はニコリと笑って、再び床を蹴って中二階のタラップに飛んでいく。


 促された先は、片隅に林立しているコンピュータ・ラックだった。沢山のコンピュータがチカチカと瞬きを発していたが、その中のラックの二本ほどが空の状態で、脇には中に搭載したいであろうコンピュータが積まれていた。


「これです。せっかく冶具を造って頂いたのに、どうも上手く乗らなくて」


「あぁ、こいつ、ディーさん云ってたラックの規格と違うんだよ」


 早速改め始めるテツジ。ディーさんは驚いたように、テツジの背から一緒に中を覗き込んだ。


「えっ。そうなんですか?」


「なんでこんなラック持ってきたんだろ。まぁいいや。コイツら乗せればいいんでしょ?」


「え。えぇ。お願い出来ます?」


 否とも応とも云わず、メモ帳とメジャーを取り出して採寸し始めるテツジ。私は代わりに、ディーさんに答えた。


「すぐ、やっちゃいますよ」そして、あまり見慣れない凄そうなコンピュータの山に目をやった。「また高そうな機材ですねぇ。幾らくらいするもんなんです?」


「これは生物学班から急遽お借りした物なんですけど。そんな高くないですよ。最近はコンピュータ、どんどん安くなってますし。だいたい一台、二百万くらいです」


 にひゃく、と、揃って声を上げてしまう私とテツジ。それが二十台くらい積み上げられているから、全部で四千万円。


「へ、へぇー」としか、云いようがなかった。「それで、何に使うんです?」


「これは様々な観測データのアーカイブ装置にする予定です。ベテルギウスの観測といっても、望遠鏡や各種センサーの情報を眺めていて、『あっ、これだ!』ってすぐに何かわかるワケじゃなくて。取得した膨大なデータを、何ヶ月、あるいは何年もかけて分析して、ようやくヒントを得るような感じなんです。そのためにとにかく膨大な量の様々なデータを保存しておく必要があって、それにはエクサバイト級のデータストアが必要です。さすがに月面にそれだけの装置を持ってくる事もできませんから、ここではデータを可逆圧縮してヘテロジニアスな領域に投入し、かつ」


 完全に墓穴を掘った。羽場にしてもそうだが、科学者というのは自分の専門領域について尋ねられると口が止まらなくなるらしい。月面通信でのディーさんは、一般視聴者向けを意識して手を抜いていたのだろうが、どうも私の上辺だけの科学知識を知って、コイツは多少わかるだろうと思われてしまっているらしい。テツジがラックの採寸を終わるまでの十分間、私はワケのわからない用語のオンパレードで窒息しそうになっていた。


 とにかく適合する金具を造ってくる、と言い残して、私とテツジは逃げるように天文台を後にする。途端に私たちは大きく息を付いて、肩を落としながら通路を漂った。


「いやぁ、キツいわ」と、テツジ。「姉さん、何の話してたか、わかったかよ」


「ワープの話は辛うじてわかったけど。他はさっぱり」ここで見栄を張っても仕方がない。「やっぱ現役の博士ともなると違うよねぇ。学校の先生たちとも、全然違う感じ。私ら、やっぱ場違いな所に来ちゃってるのかもねぇ」


「あ、でもそういやオレ、あの人に天才って云われたわ」


 妙な所で前向きなのも、テツジの特徴だ。


「それは単に、馬鹿にされてたんじゃないの?」相変わらずの口の悪さが出てしまった。「あ、いや、ディーさん、そんな人じゃないからね? 凄いいい人だよ?」


「つまり本気ってこと?」


 面倒くさい所に追い込まれてしまった。何か上手い逃げ道はないかと首を捻りながら基地本体に通じる地下通路を出た所で、不意に目の前を、久しぶりに見た羽場がすっ飛んでいった。すっ飛ぶ、というのは確かに正しい形容で、彼は赤と黒のツナギに包んだ小さな身体を水平にし、まるで弾丸のように飛んでいく。


 基地では禁止されている移動方法だ。単純に危ない。


 案の定、彼が飛び去って行った方向から、まるで猫が踏み潰されたかのような悲鳴が上がった。慌てて私たちも向かうと、羽場は廊下に積まれていた資材に頭から突っ込んでしまったらしく、辺りに散乱した何かの部品に埋もれるようにして倒れていた。


「ったく、何なんだよ! 誰よこんなとこにガラクタ置いたの!」


 叫ぶ羽場。呆れながらも私たちが手を貸して起きあがらせると、彼は不意に何かに気づいた様子で、私たちの手を掴んで引っ張り始めた。


「そうだ、ゴッシーちゃんにテツジちゃん、大事件なのよ! もう、どうしよう!」


「どう、って? 何が?」


 戸惑いながら云う私も構わず、彼は私とテツジを司令室の方向に押し始めた。


「いいから! ちょっと来て! もう猫の手も借りたい状況なんだ!」

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