第44話

 まぁ、ほんの微々たる改善でも、何もやらないよりマシか。


 豊橋を追い出してから、彼の描いた図面を眺める。最初は全部引き裂いてしまおうかとも思ったが、今はつまらない感情に拘っている場合じゃあない。利用できる物は何でも利用していかなければ、それこそ本当に私たちが何のために月に来たのかわからなくなってしまう。


「まぁ、キミがそういうのなら、仕方がない」私の宣言にも、豊橋さんはにやけ面のまま肩をすくめるだけだった。「そうだ、食料? ウチにも多少、桑の残骸なんかが溜まってるんだ。良ければ分けてあげるよ。勝田女史にばれない範囲でね。後で取りに来るといい」


 そう云って、彼は配線ダクトを伝って隣に戻っていってしまった。


「なぁ、今日はもういいだろ? 眠いわ」


 ベッドの上でぼやくテツジ。私は頭を振って気持ちを切り替えてから、彼に云った。


「その前に、隣に行って食料もらってきて」


「なんでよ。ゴッシー行けばいいじゃん」


「あんな口論した後じゃ、気まずいでしょ。アンタ豊橋さんと仲いいじゃない。行ってきてよ。そんで農家さんからもらってる餌の中に混ぜておいて」


「桑なんて食わせていいのかよ」


「前に調べてあるけど、別にいいみたいよ。さ、行って」


 口の中でぶつくさ文句を言いながらも、起き上がって適当な駕籠を探し始める。


 しかし、何か忘れてる気がする。


 ふと私は考え込んだが、すぐに思い出した。


「そうだ、吸い殻、回収」


「え? なんでよ」


「そのままにしといたら吸うから」


 うっ、と喉の奥で息を詰まらせたが、今度は急に開き直った。


「なんで豊橋さんがokでオレが駄目なのよ。もういいじゃん? 一緒に吸おうぜ」


「駄目だってば。アンタ、どっか抜けてるんだもん。絶対どっかでボロ出すし」


「じゃあ豊橋さん脅して一本もらう」


「駄目だっての!」


 するとテツジは急に声を潜め、不気味な笑みを浮かべ、彼専用の引き出しの中から、銀色に輝く物体を取り出した。


「じゃあ、これは?」


 うっ、と私は息を詰める。


 パイプだ。鈍い銀色の輝きを発する、金属製のパイプ。


「あっ、アンタどうしてこんな物を」


「オレを誰だと思ってんだよ。五歳の頃からアーク溶接やってんだぜ? 克也さんの工場に転がってる廃材で、こんくらい一時間で作れるわ」


「いや、何自慢してんだよ。馬鹿にしてんだよ。まさかアンタ、また性懲りもなく雑草煙草やろうって言うんじゃあ」


「雑草じゃねぇよ。牧草だよ。地上で試したんだけど、結構いい味わいだぜ?」


 テツジの頭には、オイルなんて素晴らしい物は詰まってない。空っぽだ。そう呆れて口を開け放つ私に、彼は延々と力説をする。


「そもそもだぜ? なんで煙草が悪者にされてる訳? 中毒性があってガンになるからだろ? けどオレの煙草はニコチン入ってねーんだぜ? なんで駄目なのよ」


「それ隊長の前で言ってみなよ。殺されるよ?」


 しかし岡のリーダーシップを見ていて学んだこともある。締めるだけじゃあテツジは動かないのだ。まったく面倒な男だなと思いながらも、彼の力は確かに重要だ。それに加えて私には、豊橋の違法行為を黙殺したという負い目もある。


「まったく。しょうがないなぁ。知らないからね私は!」


「よっしゃ! 姉さんの黙認ゲットだぜ!」


 パァッ、と表情が明るくなる。正直、とても許せる話ではないが、あの雑草煙草ならば、仮に見つかったとしても『煙草を吸う気分だけ味わってた』と言い逃れ出来ないこともない、かも。それにテツジは一応基地内で火器を扱う資格を得ていたし、本物の煙草を吸うよりはマシなのでは、という気も。


 そう漠然とした考えからだったが、すぐに本当に良かったのか心配になってくる。早速いそいそとパイプを磨き始めるテツジに、私は指を突きつけて限りなくきつく言い放った。


「でも、いい? 一、絶対に見つからないように、やる時は鍵をかけること。二、廃液をタライに入れて、その上で吸って、終わったらパイプごと沈めること。三、必ずガムか何かで臭いを消すこと」


「んだよ。任せろって。隠れて吸うことに関してはプロだぜ?」


「任せられないから云ってるんじゃん」


 ともかくも、ニコチンは含まれていないながらもパイプ効果は抜群らしく、翌日にはテツジは豊橋さんの案を元に施設改修素案を作り上げていて、さっそく上井克也の元に飛んでいって金属の加工を始める。


「何か、妙にやる気だな」


 怪訝な岡の呟きに、忸怩たる思いをする。


 やっぱり彼には、夜の出来事を話すべきだろうか?


 散々悩んでみたが、どうしても言い出せなかった。彼が豊橋さんの行為にどう反応するかわからなかったし、私の裁きに関しても同様だ。


 しかしそれから数日の改修工事の進展を見る限り、今のところテツジがポカを犯すような様子もない。そうして大分胸の内が落ち着いてきたからか、どうにも様子が変なのがテツジだけではないような気がしてきた。


 殿下だ。普段はミーティングともなれば突っ込み役の先陣を切るというのに、テツジの改修案を見ても妙に素っ気ない。妙だな、と思っていたところで、私は決定的な場面を目撃してしまった。昼休み後の休憩時間、暇をもてあましてふらふらと基地の中を漂っていた所で、共用区画の資料室に入っていく殿下の姿を見かけたのだ。最初は例の勉強熱心さが出たのかな、としか思わなかったが、すぐに後に続いて入っていく人影を見て考えが変わった。勝田さんだ。


「ちょっと、岡さん、なんか変な感じですよ!」


 とてもその場では踏み込めず、すぐに牧場にとって返して岡を捕まえる。難しい顔で線表を眺めていた彼は、そのまま大きなため息と共に顔を上げた。


「ゴッシーさぁ、何か上手い手はないかねぇ」


 別の話題で返されて、思わず口ごもる。


「何、です?」


「水。不味いわやっぱ。六匹で比較グループ作ったろ? そんでここ一週間の結果を集計してたんだけど、メシを減量させると明らかに体重が減ってる」


「あら」


 云いながら、彼の手にしている方眼紙を覗き込む。確かにグラフの動きは明確な違いがあって、減量させていた二匹は減少傾向にあった。


「つまりさ、食い物があるから無駄に食ってた訳じゃなく、成長に必要だから食ってたんだよ」


「ひょっとして、自重が軽くなって、動けるからエネルギーの消費が大きくなって、って感じですかね?」


 そんな議論をしているうちに、休憩を終えたテツジと殿下が戻ってきてしまう。そして上手い具合にウサギと遊びに来たドクター津田を巻き込んでの会議となって、結局私は殿下と勝田さんの密会について、すっかり忘れてしまっていた。


 そう、ウサギの食い扶持が想定よりも多いというのは、下世話なスキャンダルなんかよりも、遙かに重大な問題だった。


「ゴッシーちゃんの推理は正しいかも」と、ドクターはペンをクルクルと回しながら調査結果を吟味する。「普通、低重力環境ではエネルギーの消費が少なくなるものなんだけれど。このウサちゃんたちは逆みたいね。地上にいた頃は、体重が重くて動けなかった。けど月に来て軽くなったから、動くようになった。結果、新陳代謝が促されて成長が促進され、それを補うように食物の摂取量が増えて。まるで種としての生態が変わってしまってるわね。面白い。詳しく調べれば論文に出来そう」


「じゃあ、それをネタに水の配給を増やしてくれませんかねぇ。今のままじゃ、メシのストックが底をついちまいますよ。早く牧草プラントをフル稼働させなきゃ」


 懇願する岡に、じっと考え込むドクター。そして彼女はパッと顔を上げると、真面目な顔で一同を見渡した。


「それは無理だと思うわ」えぇ、と喘ぐ私たちに、彼女は小さく頷く。「そうね。あなたたちも切羽詰まってるものね。だから話すんだけど、これは絶対内緒よ? 誰にも」


「あ。えぇ。何すか?」と、岡。


「例のアームストロングの事件だけど。やっぱりテロリストの仕業だって断定されたらしいわ。自爆に近い毒ガス攻撃。それにアメリカはひた隠しにしているけど、実際の人員の被害は甚大なの。死者十名以上よ」口を開け放つ私たちを一眺めして、重々しく頷く。「まったく馬鹿げた話よね。月には国境なんてないし、今までも他の基地と資源を融通しあって上手くやってたのに。でもそれも、戦争のどん底にある連中にしてみれば、気にくわない金持ちの道楽に見えちゃうらしいわ。地球でCIAが背後関係を洗って指揮系統にあるらしい容疑者を捕まえてみたら、驚くべきことを云ったらしいの。標的は全ての月面基地だ、って」


「え。つまり、この基地にもテロリストが?」


「それはわからない。単に標的だってだけで。でも例の墜落事故の影響で、この基地でも十分に身元を洗えていない人員を受け入れざるを得なくなってきている。人だけじゃなく、資材についてもね。だから隊長は今、凄く敏感になってる。ヒトと、モノと、資源に関してね」


 参ったなぁ、というような岡の喘ぎ声に続けて、相変わらず興味なさそうなテツジが口を挟む。


「でもさ先生、いつまでもそんなことやってられんでしょ?」


「それはね。だから隊長も含めて、公団は決断に迫られている。今の拡張計画をそのまま続けるか、現状維持にするか」


「あるいは、縮小?」


 私が尋ねると、彼女はあからさまに狼狽えてしまった。


「可能性は、ね」


「でもそうなったら、一番に追い出されるのは私たちですね」


「いえ、いえ」慌てて頭を振って、必死に上手い言葉を探しているようだった。「そうは云っても、ここはもう、これだけの設備を作ってしまったんですもの。今更閉鎖するとは思えないわ」


 明らかに嘘だ。


 それはテツジすらも理解できたらしく、私たちは互いに顔を見合わせ、それ以上の追求はしなかった。


 重苦しい雰囲気のまま、私たちは日常の仕事を再開する。お構いなしなのはウサギたちばかりで、良くバクバクとメシを食う。体重の増加は留まるところを知らず、一番大きな一歳二ヶ月の雌は、一週間後にはとうとう十キロの大台に乗ってしまった。


「まったく、メシの心配さえなきゃあ快挙なのにな」


 岡は腐りながら、藁を毛玉女王の口元に差し出す。私たちの浅知恵もとうとう底をついてしまって、そろそろ牧場の壊滅が確定する秒読み段階に入っていた。


 簡単な話、そろそろ交配を始めなければ、月面ウサギ第一世代の妊娠が難しくなる。かといって新しい世代を養うだけの食料もなく、それは第二世代である八ヶ月グループの将来すら暗くしている。


「いっそのこと、第一世代は二匹だけ残して、あとは潰しちまうか?」


 岡にとっても、苦渋の発案だったろう。それは私も頭の中では考えていたが、あまりにもリスクが大きすぎた。


「云いますよ?」前置きして、心の準備を促す。「一、残された二匹が確実に交配するとは限らない。二、八ヶ月グループが交配する頃は月面に来てから半年も経っているから、ひょっとしたら低重力の影響で不妊になってしまっているかもしれない。三、」


「だよな。もういい」駕籠から藁を抜き取って。暫くそのままの姿勢でウサギを眺める。「でもな。そろそろヤバいぜ。今週中に事態が好転しなきゃ、腹を括るしかねぇわ」


 しかし事態は好転するどころか、悪化してしまった。


 何だかただならぬ気配を感じて振り向くと、扉の前に三人の男が立っていた。皆が空軍の制服に身を包んでいて、肩からは機関銃のようなものをぶら下げている。中央にいるのは総研チームの面倒見役でもある佐治で、彼は設備を見渡して目的の人物を見つけると、例の少し乾いた声で云った。


「佐藤。ちょっと来い」


「殿下?」


 思わず、呟く。彼は指定席であるパソコンチェアーに座っていたが、呼び出しを受けてすらりと立ち上がる。その様子はまるで普段と変わりなく、限りなく無表情に近かった。


「あの、ちょっと」慌てた岡が、床を蹴って佐治の前に飛んでいく。「どうしたんです、一体」


「後でオマエらからも話を聞く。佐藤?」


 それだけ言い放って、後は無視だ。一方の殿下はいつの間にか私の側に来ていて、小型の電子パッドを差し出していた。


「以前頼まれていた解析の結果だ」


「解析?」


 まるで記憶にない。それでもとにかく受け取ると、殿下は床を蹴って佐治の前に向かった。岡は果敢に二人の間に割って入って、執拗に事情を尋ねる。だが、どうにも彼らと殿下の間には暗黙の了解があるようだった。殿下は大人しく彼らの先導に従い、何処かへと連れ去られてしまった。


 残された私たちは、訳がわからない。すぐにテツジと岡が私の側に寄ってきて、困惑の表情を浮かべる。


「何? あれ。どうしたのよ一体」


 怯える岡。こんな時に意外とドライなのは、他ならぬテツジだ。


「やっぱ殿下、テロと関係あんのかね?」


「馬鹿云うな。んな訳ねぇだろ」


 ガシッと顎を掴んで捻じ上げる。そうやって一通りの儀式を済ませた後、彼らは揃って、手元のパッドに目を落としていた私に目を向けた。


「何、それ」


 尋ねる岡に、頭を振る。


「何かの解析結果とか。でも頼んだ覚えもなくて」さらさらと読み下していったが、イマイチ何の資料なのか良くわからない。「何か化学的なデータみたいですけど」


「保水能力?」


 岡が注意を向けたグラフ。私もそこで手を止めると、内容を確かめていった。


「あれ。これって」


 すぐにインデックスを辿り、キーとなる記述を探る。そして想像が当たっていることを確信すると、まるで訳がわからなくなって岡とテツジを見上げた。


「何? どうした?」


「いや。あの。これ、まさに私たちが探していたものです」


「って云うと?」


「水に特定の添加物を加えて、ゲル化するみたいです」


「ゲルって、どろどろした寒天みたいな?」


「えぇ。そうすると揮発性が低くなって、蒸発が抑えられるらしくて。乾燥地帯での農業や水耕栽培では有用な技術で、他にも根の野放図な伸長も抑えられたり。そうすると茎が細くなって丈だけ伸びて食べられる範囲が大きくなって。葉野菜や牧草向けの技術で」それだけじゃあない。「それに飲料水の代わりに生物に与えた場合、保水能力に優れているので腸に留まる時間が長くなって、尿や便として排出されてしまうのが減って。いいことずくめで」


 呆気にとられて、私たちは顔を見合わせていた。


「なんでそんな凄いもん、殿下は隠し持ってたんだ? さっさと見せてくれれば」


「でも、この水に添加する物質の組成が結構微妙らしくて、開発に凄い試行錯誤した形跡が」


「つまり、結構な秘密っぽいってこと?」岡は腕を組み、そして怯えた声を上げた。「それってさ、まさか」


 私も同じ事を考えていた。そもそもそんな上手い有名な技術があるなら、公団からアドバイスされていたはずだ。何より農家の二人が知らないはずもない。


 そうなると、最も可能性が高いのは。


「キミらにはない、即効性のある保水技術を持ってるけど。でもこればっかりは無理だなぁ。鳥取クンの将来を潰してしまうことになる」


 豊橋の言葉。


 パッドのデータは、総研チームのものだと考えるのが、一番無理がない。


「あの、すいません」


 不意に背後からかけられた大声に、私たちは身を震わせながら振り向く。私たち以上に驚いたのは、扉の前で立ちすくんでいる二人の方だったらしい。途端に身を反らせて、互いに不安げな顔を見合わせる。そして促されて声を発したのは、まさにこのゲルで成長したようなひょろっとした男だった。


「すいません。勝田さんが。それにそちらの佐藤さん? も?」


 問題の、鳥取と豊橋だ。


 そして私たちは慌ててパッドを隠しながらも、彼の断片的な言葉から、その意味するところをつかみ取っていた。


「勝田さんも、佐治さんに?」


 尋ねた私に、鳥取さんは身を震わせながら頷いた。

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