第43話

 マジでこの人は変態だ。こんなのはさっさと終わりにしよう。


 そういう思いから、私は脱兎のごとく高速で配管から這い出る。案の定テツジはベッドの上でだらしなく眠り込んでいた。声をかけても起きあがる気配もなく、仕方がなく布団から覗く真っ黒で綺麗な髪を軽く引っ張ると、ようやく呻き声を上げながら瞳を開いた。


 半ば寝ぼけたままの彼に手早く事情を説明する間に、豊橋さんは腕を組みながら施設の全体を眺めていた。


「まぁ、素人にしちゃあ上出来だ。けどね」と、だらしなくスエットの裾からシャツをはみ出させているテツジに人差し指を向ける。「基本的な部分がなってない。キミらはここを、牧場か何かだと考えてる。だろう?」


 何のことかわからずに、私はテツジと顔を見合わせる。


「牧場、ですよね」


 辛うじて答えた私に、彼は大げさに両腕を広げて見せた。


「ちがーう! 大間違いだ! いいかい、ここは別に娯楽施設でも動物園でも、果てはアルプスの少女ハイジ的な前時代的牧歌的牧場なんかでもないんだ!」そして、例の嫌な笑みを浮かべながら私に顔を近づける。「いいかい? ここは月だ。そして現代だ。求められているのは唯一、資源の供給なんだ。つまりキミらはここを、工場と思わなきゃならない」


「工場?」


 声を揃えて云った私たちに、彼は機敏に動いて導水路の一つを指し示す。


「例えばここ。キミらは何の気なしに、水を流してこの真ん丸な獣に勝手に飲ませて、残りを水耕栽培施設に送り込んでいる。違う! これじゃあ必要な水量を正確に見積もれない! ウサギが日にどれくらいの水を飲むのかはウサギ任せだし、どれくらい蒸発してしまうかなんて全く考えてないんだろう? ダメだ。キミらに。いや、この月に、そんな余裕があるとでも思ってるのかい?」


「けど、公団の人たちは。これでいいって」


 自らの作り上げた施設を馬鹿にされたのが気に障ったのか、テツジが酷く不機嫌な様子で応じる。一方の豊橋さんは口元に笑みを浮かべたまま、救いようがない、というように俯いた。


「そこだよ。元々公団には科学者や開発者は山ほどいるが、純粋な意味での生産工学を知っている人間がいない! わかるかい? 生産工学ってのは、年に何機かしか作らないロケットを作る技術じゃあない。同じ物を大量に、安価に生産するための技術だ。ボクはこれでも生産工学に関しては数多くの工場のラインを革新してきたプロ中のプロでね。最初に公団の連中と話した時には度肝を抜かれたものさ。ハッ、こんな非効率的な方法で月面開発を行っているのか! ってね! つまりボクの手法は彼らにとって未知の技術な訳で、非常に価値のあるものなんだ。けどボクはね、タダで彼らに手を貸そうと思うほどお人好しじゃあない。何しろ彼らは、ボクの収入から半分も税金としてふんだくって、それで食ってる連中なんだからね。それでいて彼らはボクにとって役立たずだ。そんな連中に、どうしてボクがホイホイと手の内を明かしてやらなきゃならない?」


「台詞なげー。羽場さん以上だわ」


 呆れた様子で呟くテツジ。一方の私は面倒になって右から左に聞き流してしまっていたが、これじゃあ朝まで付き合わされかねないと思い、適当な所で口を挟んだ。


「で。じゃあ、どうすりゃいいんでしょう?」


 まるで話の筋から外れている私の言葉に、多少不機嫌そうな表情を浮かべる。


「え? あぁ。そうね。とりあえずこんな雨樋みたいなダサい導水管から手を付けようか」と、真ん丸になって眠り込んでいる巨大ウサギの一匹に目を向ける。「ところでこいつは、どれくらいの知能があるんだい?」


「え? さぁ」


「犬並み? 猫並み? あぁ、つまりしつけが出来るのかって事だけど」


「しつけ、ですか。多分無理です」


「そうか。じゃあ。こうするしかないな。例えばこんな装置を付ける。テツジくん、紙とペンを」


 手元に届けられた方眼紙と鉛筆で、彼はあっという間に綺麗な図面を引き始めた。フリーハンドで歪みない直線を何本も引き、想像だけで完璧に三次元的な奥行きを描く。その完成度はテツジも引けをとらなかったが、彼の場合は電卓とドラフター(製図用の定規セット)の力を借りてのことだ。驚きに目を丸くしながら、どうやってその精度を出しているのか豊橋さんの手元を凝視する。


 私にとっても、彼の技は驚異的だった。私も定規がなければこんな直線は引けないし、カーブは雲形定規、三次元の消失点を得るには何本も線を引かなければ無理だ。


 それを彼は、全くのフリーハンドで実現している。


「さっ、こんな感じ」


 と、私たちの驚きにまるで気づかない様子で、出来上がった図面をこちらに向ける。それはまるで古風な計りのような形をしていて、四角い箱の上にトレイ状のものが載っている。


「吸水用の簡単なタンクだ。雨樋は全部普通のパイプに取り替えてしまって、全部の駕篭にこのタンクを設置して、接続する。上のトレイを押すと、押し込んだ量に比例して水が出てくる。ほら、シャンプーのボトルみたいなもんさ。これがあれば、キミらは指定の時間にこのトレイを適量押していくだけで、決められた量の水を与えることが出来るようになる」


「けど、水を露出させたくないだけなら、ポリタンクかなんかに入れて、配るだけでいいんじゃ?」


 もっともなテツジの疑問に、豊橋さんはしてやったりというような嘲笑をした。


「それは作業効率を考えたら、明らかに劣るね。ポリタンクを運ぶ、水用の皿を取り出す、適量計って入れる、駕篭の中に戻す、ポリタンクを持ち上げる。ほら、最低五ステップだ。一方この簡単な装置なら、移動する、トレイを押す、の二ステップで済む。駕篭は全部で何個だっけ? 空のも含めて百以上? なら一回あたり三百ステップの差になって、それを一日に三回やるとしたら千ステップの差だ」


 確かに、と頷く私。一方の豊橋さんはお構いなしに、次の図面にとりかかっていた。そうして幾つか示された改善案は全て理にかなっていて、私たちが疑問を挟む余地もないものだった。不承不承テツジは豊橋さんが示した改善案をどう組み上げていくか、図面を前に思案を始める。私は一通りの改善リストを眺めながら、最後に豊橋さんに尋ねた。


「この牧場って、一日にだいたい十立方メートルの水を消費するんです。それで、この改善案を全部やったとして、どれくらい削減出来るんでしょう」


 ワイシャツを袖まくりをして紙に向き合っていた彼は、ふと顔を上げてから唸り声を上げた。


「そうだなぁ。一立方メートルもないんじゃないかなぁ」


「え? それじゃああんまり意味が」


 驚いて突っ込みを入れた私に、彼は肩を竦めてみせる。


「だって。ハハ、それはウチはキミらにはない、即効性のある保水技術を持ってるけど。でもこればっかりは無理だなぁ。鳥取クンの将来を潰してしまうことになる。彼の発明だからね。さすがのキミも、それは望まないだろ?」


「え。まぁ。それは」


「それにさ、もっと地道な方法をとるにしても、この施設の根本に手を付ける訳にもいかないじゃないか。通常工場の効率アップには半年くらいかけて業務のヒアリングを行って、それから改善に着手するんだ。それは設備だけじゃなく、原料とか、生産物の吟味も含まれる。お望みならそこまでやってもいいけどね。時間がかかるよ? まずボクが、この施設の存在意義を理解するところから始めなきゃならない」


「でも。じゃあ仮にそれをやったとして。どんな風になるんです?」


「そうだなぁ。この施設で飼育するウサギの数は適正なのか、とか。本当に月でウサギを飼わなきゃならないのか、とか。実際ボクらの施設は、そうやってターゲットを蚕に絞った。それが一番、全てに効率がいいと見込んでのことだよ」


「それは。私たちも同じです」


「そうかなぁ」彼はあからさまな表情で、私を見下した。「さっきも云ったように、これでもボクは生産工学の権威だし、勝田女史はMBAまで持ってる経営のプロだ。鳥取くんは。まぁ、若い割にはバイオ生物学では博士号も持ってるし? 一応プロだよ。比べてキミらは? 何がある? それに噂じゃあキミたち、公団の広告塔になることを条件に採用が決まったなんて話もあるけど。もしそれが本当なら、こんな獣の牧場に何の意味があるんだい? キミらは月面で商業活動を行うなんて大それた夢は適当にしといて、大人しく公団の云われたとおりやってればいいんじゃない?」


「この変態野郎! 馬鹿にすんな!」


 叫びたいのを、ぐっと堪える。


 そう、私も考えていたこと。


 私たちは既に、月面基地に対する役割を果たしてしまったんじゃないか?


「でも、私たちは、もうここにいるんです」そうとしか考えようがなかった。「そう、例え一年で終わる話でも。もう来てしまったんです。だったらここで、やれることをやりたい。誰かの役に立ちたい。そう考えるのって、何か間違いですか?」


 豊橋さんは私の半ば震える言葉を、大きく頷きながら聞く。そしてうっすらと顔を上げると、相変わらずの嫌らしそうな瞳で私を見つめた。


「誰もそんなことを責めちゃいないけどね。わかるよ? うん。確かにキミらは若い! 無限の可能性に満ちあふれてるような気がするだろう! けどね、それは間違いなんだ。キミらがこうしている間にも、地上の友人たちは、大いに遊び、セックスして、よろしくやってる。そんな楽しみを味わわないまま、こんな所で一年も無駄にするなんて。悲しすぎる!」


「だから、とっとと帰れと?」


 芝居がかった素振りで、悲しそうに顔を歪める豊橋さん。


「まぁ、手がない訳じゃあない。カーゴ船は補給物資に比べて、帰りは空荷に近い。軽く頼み込めばキミら四人くらいは」


「嫌です」言い放った私に、彼は心底驚いた表情を浮かべた。「あぁ、もういいです。何を云われたって、私たちは帰りませんよ? 今日教えて戴いたことには感謝します。けど、これは取引です。煙草の件、忘れた訳じゃありませんからね」

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