第42話

 それは克也たち設備運用チームの一人か、あるいは。


 しかしこれは、運がいいと云うべきなのだろうか? 配管の中を這うゴソゴソとした音は、明らかに目の前のT字路の奥から響き始めていた。私は既に、誰かの喫煙所のすぐ目の前まで来てしまっている。とにかく死角まで戻る余裕もない。私は息を詰めたまま、相手の物音と被るよう、それでいて可能な限り音を出さないよう、僅かずつ後ずさる。


 配管の中を這うのは、相手も随分慣れているらしい。あっという間に物音はこちらに近づいてきて、T字路の交差点で止まる。そしてもぞもぞと身体を捻らせるような音を立てたかと思うと、不意に配管の中が橙色の灯りで包まれた。


 相手は口にくわえた煙草に視線を向けていて、こちらにはまるで気づいた様子はない。ライターの橙色の炎は最初大きく揺らめいて、配管の中に様々な影を作り出す。そしてその中心に浮かんでいたのは、セミロングの髪に、痩せた頬。キザな銀縁眼鏡の奥に光るのは、ギョロリとした瞳。


 総研チームの設備担当、豊橋さんだ。


 橙色の灯りはすぐに消え、私はほっと胸を撫で下ろす。暗闇の中には小さな小さな煙草の火種だけが明滅を繰り返し、その度に私の鼻孔には、懐かしいというか、甘美というか、そんな香りが漂ってきた。


 クソ、こっちがこんな頑張って我慢してるってのに、のうのうと平気で一服しやがって!


 だが久しぶりに吸う煙にしては、キャメルはキツすぎた。すぐに煙が喉と肺に絡んで、呼吸困難に陥る。顔を真っ赤にしながら何とか咳を堪えていたが、彼が二本目に火を付けると限界に達した。


 もう、どうにでもなれ!


 そう思い切り咳き込んだ瞬間、可哀想なほど強く頭を天井にぶつけたであろう、大きな音が響く。ヒッ、という声にならない叫び声に続けて、配管の中に例の嫌らしい声が響きわたった。


「だっ、誰だ!」


 こうなってしまっては、仕様がない。私は一頻り咳き込んで喉のつっかえを取ってから、懐中電灯を手にして相手の顔を照らし上げた。彼は眩しそうに目を細め、煙草を挟んだままの手で光源に影を作り、その奥を必死に覗き込もうとする。


「誰だ? あ? キミか? 五所川原さん?」


 咳だけで相手を当てられるあたり、彼は余程洞察力が優れてるか、女に対する執着がもの凄いかのどちらかだ。そのどちらにせよ、油断ならないことに変わりはない。私は大きく息を飲んで、少しだけ自分の顔を照らして見せた。


「当たり、です」


 限りなく、声色を恐ろしくしてみせた。その効果があったのか否か、彼は目に見えるほど喉仏を下げてみせて、僅かに硬直し、そしてようやく余裕ぶった声を上げた。


「あぁ。いや、その、何だ。えっと、とりあえず、眩しいから消してくれないかな。その、懐中電灯を」


「嫌です」


「へぇ。あぁ、そう」落ち着かないように視線を揺り動かし、唇を嘗めた。「それで。その。何だ。キミはこんな所で、一体何を」


「誰かが隠れて煙草を吸ってるのを見つけたので。見張ってたんです」


「そうか。そりゃあ。あはは、参ったな。これね」明らかな証拠であるキャメルを床に擦り付けてから、大きく息を吐いた。「それで。どうする? キミは犯人を見つけて、どうするつもりだった? どうして運営に通報しないで、自分で捕まえようと?」


 さすがに鋭いな、と思いながら、必死に頭を巡らせる。


「そう。運営に云わなかったのは、下手に騒ぎを起こしなくなかったからです」


 心にもない台詞だと見破ったのか、彼は鋭い瞳の色を深め、身を屈めてこちらに顔を近づけた。


「はっ、そりゃあ有り難い。でもこんな風には考えなかったのかい? ここは基地の中でも僻地だし、ボクらは二人っきりだし、そう簡単に逃げられるほど広い場所じゃあない。もし犯人が自暴自棄になって襲ってきたりしたら」


「知ってます? 女性隊員は皆、防犯スプレーを携帯してるんです」


 と、云ってから思い出した。


 寝支度してて、枕元に置きっぱなしにしたまんまじゃん!


 とはいえ動揺を悟られたら大変だ。私は無理に笑みを深くして、軽く背後を指し示してみせた。


「それに。ウチのメンバーが、私が戻ってくるのを待ってます。変な気は起こさない方がいいですよ?」


 それも嘘だ。テツジはきっと寝てしまってるに違いない。


 しかし彼はそうした私のブラフを見破れなかったらしく、それでも疑い深げに、一歩だけ私に向かって這い出した。


「へぇ。でも確かキミらのチームは、夜の宿直は一人だけって」


「まだ宿直の時間じゃないです」


 また、一歩。


「そう? テツジくん。さっき彼とはトイレで会って。もう寝るとか云ってたけど」


「それ以上近づいたら、本気でエアロックの外に放り出されることになりますよ? 私は襲われても泣き寝入りするような女じゃないですからね」


「ふぅん。でも、どうせ喫煙がバレれば地球に強制送還だ。今更婦女暴行が加わっても、大差ないんじゃないかな」


「バレれば、でしょう!」もはや目と鼻の先に迫りつつある彼から、なんとか逃れようと後ずさる。彼の云うとおり、この狭さでは向きを変えている間に捕まってしまう。「そう、条件です。そうしましょう。別に元々、運営に通報するつもりはないんですから私は。それはおわかりでしょう?」


 はた、と気づいたように、眼鏡の奥の瞳を細める。


「うん。それはそうだねぇ。じゃあ、お互い納得ずくってことで、一回ヤっちゃおうか」


「は?」


「だって、そうなんだろう? キミもこんな所に島流しにされて一月以上だろう? それにこの先一年を考えれば、そういうパートナーがいた方が気持ち的にもいいって」


「いやいやいやいや」思わず連呼して、両手を突き出す。「ワケがわかりません。なんでそうなるんです?」


「だってキミは運営に通報するつもりはないんだろう? つまりここで煙草を吸ってたボクを支配下に置きたかった。つまり言いなりになる相手を確保してセックスしたかった」


「何でそうなるんです! 違います!」


「え? 違うの?」如何にも不思議だ、というように首を傾げた。「じゃあ、何? あぁ、キミはレズビアンか? 狙いは勝田女史だった? それなら頷ける。それならボクも協力できる部分がないワケじゃあ」


「違いますって!」なんだか妙に暑くなってきて、額の汗を拭った。「違います。別に私は欲求不満でも何でもないです」


「ワケがわからないな。じゃあ、キミは、その、何だってこんなことを?」


「どうしてそこに考えが及ばないか不思議なんですが。前にそちらにお尋ねした話がありますよね」


 本気で忘れているようで、床にうつ伏せになりながら考え込む。


「え? 何だったかな。確かテツジくんからガンダムのビデオコレクションを貸してくれって云われた記憶はあるけど。他には。そうだなぁ。残念だけどボクはBL系の趣味はないし」


「水です」面倒くさくなって、言い放った。「お忘れですかね。私、水の消費量を削減する方法がないか、聞いたじゃないですか。そしたら守秘義務がどうとかって」


「あー、あれか」


 ようやく思い出したらしいが、彼のモチベーションは異常に低下しかかっていた。酷く面倒くさそうな様子で、床に薄く積もっている埃の上に落書きをし始める。


「んー、まぁ、それを手伝ってあげれば、煙草は黙ってると。そういうこと?」


「です」


「うーん、気が乗らないなぁ。一応ボクも総研から給料をもらってる身だし、もしばれたら色々と面倒なことに」


「煙草よりも?」


 想像するに、多少高専チームの手伝いをすることよりも、煙草を吸っていたことが発覚する方が面倒なことになるに違いない。


 彼もそれは十分に理解しているはずだったが、彼の場合、性的な目的以外に対しては酷く面倒くさがり屋らしい。いつまでたっても一向に決断しないのに飽き飽きして、私は宣言した。


「じゃあ、もういいです! これから一部始終を運営チームに報告しに行きます」


「あぁ、いや、待ってくれ! わかった。わかったよ。キミには負けた。キミらを手伝う。それでいいんだろう?」


 やっとか。


 私は胸を撫で下ろして、大きく息を吐いた。


「えぇ。それで取引は成立です」


「それで? じゃあ、早速見てみるとしようか」


「え? 今からですか?」


「他に仕様がないだろう。ボクはキミらほど暇じゃあないし、正面からキミらの施設に入る訳にもいかない。さぁ、とっとと片づけよう」


「そうは、云われても」


 何が嫌といって、彼にお尻を見せなければならないことほど恐ろしいこともなかった。かといって彼に先に行かせるほど場所に余裕がある訳でもない。


「じゃあ、触んないでくださいよ?」


 そう念を押してから、もぞもぞと身体を捻らせて方向転換する。そしてウサギ牧場の方向に這い出した途端、案の定、足首に気味の悪い感触がした。


「止めてくださいって! 蹴りますよ!」


「そう嫌うことはないだろう」


「嫌います! 次やったら真面目に通報しますからね!」


 どうもこの人は、私がこれまで出会ってきた人たちとは、まるで違う世界に住んでいるらしかった。

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