第40話
いやいや、そりゃあ煙草は吸いたかったが、あくまで妄想で。こんな月に来て貴重な酸素を消費して空気を汚してまで吸いたいなんて思わないですよ!
まぁ、ウサギ牧場だけでもこんだけ広い空間だし。一日一本くらい吸っても、何の影響もないんじゃね? 実際、この吸い殻の反応も環境測定装置には出てないし。
いや、そうじゃなく、姿勢の問題ですよ!
姿勢は前向きよ? いいじゃんこれをネタにテツジを脅して、一本。いや、持ってきてる煙草の半分をもらっちゃえば。
結局夜通し、そんな葛藤が頭を渦巻き、夢で何度テツジのにやけ面を抓り上げたことか。
それはそれで痛快で、ニコチン切れのストレスは大分和らいだように思う。だが放置していていい事案な訳がない。やっぱりテツジを脅して巻き上げる。いや、捨てさせる。いやいや。
そんな調子で頭を悩ましながら朝の巡回を行っていると、朝食を済ませた三人がバラバラと施設に入ってくる。途端に私はテツジを睨みつけてしまったが、彼は小さく首を傾げ、大きく欠伸をした。
「なんすか姉さん。眉間に皺が寄ってるっすよ」
「何かあった?」
聞きつけて心配そうな表情をする岡に、慌てて両手を胸の前で開く。
「いえいえ。順調です」
怪訝そうな顔をする三人を残して、私は朝食と洗顔を済ませる。そして日常の作業をしながらも、なんとかテツジと二人きりになれる隙はないだろうかと機会を窺っていたが、結局何だかんだ云って彼らは仲良し三人組だ、何処に行くにも連れだって行く。ただ幸いにして今日の宿直は当のテツジで、私は夜になって彼が一人になる隙を狙うことにした。
まさかそんなことはないだろう、と思いつつも、ドクター津田に貰った防犯スプレーをいつでも取り出せるようにして、晩ご飯とシャワーを済ませてから牧場に向かう。中ではテツジがパソコン机の前に座り、口を半ば開け放って、顎を突き出して、暇そうにキーボードをいじっている所だった。物音を聞きつけた彼は慌てて顔を上げ、恐ろしい勢いでキーボードを叩く。
「何ですか。エロいのでも見てたんですか?」
「エロ」
驚愕の表情を浮かべ、言葉に詰まる。しかし時折見せる似合わない鋭い瞳を作り出すと、あの例の苛立たしい冷笑を浮かべて見せた。
「まぁな。いいだろ別に」
珍しく正直に答えたテツジを怪訝に思いつつ、首を傾げる。
「んー、でもそういうエロサイトって、見れないように通信遮断されてるんじゃ?」
「羽場さんが裏技教えてくれたんだわ。やり方知りてぇ?」
「別に」
どうも妙だ。何か勝手が違う。
どう切り出していいか頭を悩ましていると、彼は急に変な笑い声を挙げた。
「別に? へっ、オレにはわかってたぜ姉さん。猫被ってるってよ」
途端にカチンと来て、後藤がすぐさま姿を現した。
「へぇ。何よ急に。猫って? どんな風に?」
「あん? しらばっくれてもネタは挙がってんだぜ。時々すんげー怖い顔するしよ、ぜってー、すんげぇ裏があると思ってたわ」
不意な挑戦に、どうも不思議に思う。だが私とて、テツジごときに臆する気持ちなど微塵もない。薄ら笑いを浮かべながら腕を組み、仁王立ちする。
「何? 麻雀で負けが込んでるの、性格のせいにするつもり?」
「おっ、来たね来たね。けどな、オレぁ姉さんみたいなタイプ、腐るほど見て来てんだよ。そりゃあ何かネタ掴んでオレを脅そうとでもしてんだろ? けど云っとくけどオレぁ、こっちに来てから何も悪いことしてねぇぜ」
どうにも勝手が違う。
何だろう?
そう怪訝に思いながらも、私はポケットに入れていた煙草の吸い殻を突きつけた。
「これ、アンタでしょ」
テツジは眉間に皺を寄せ、吸い殻を抓み取る。そしておもむろに鼻を近づけると、思い切りその臭いを嗅いだ。
「んー、マンダム。けどちゃうわ。オレじゃねぇって。何処にあったのよ」
「んな。今更しらばっくれないでよ」
「ちゃうってば。よく見ろよ」そう酷く呆れた様子で、煙草の小さなラベルを指し示す。「キャメルじゃんこれ。んな高い洋モク、オレが吸うかよ」
あ、そういえば。
私は呆気にとられて、まじまじとラベルを見直す。
「そう、そういやアンタ、エコーとか訳のわかんない安っすいのしか吸ってなかったね」
「だよ。それによ」彼は机の引き出しの鍵を開けると、ガラリと引いて見せた。「オレ、こないだの宿直でこんだけ見つけたんだよ」
そこには四本の煙草の吸い殻が、几帳面に並べてあった。
ラベルは全て、キャメル。
「どういうこと? 私、てっきりアンタだと。じゃあ誰?」
「岡はオレに隠すはずねぇし、殿下は吸わねぇし、吸ったとしても絶対吸い殻残すなんてヘマしねぇし。だからオレぁ、ゴッシーだとばっかり思いこんでたけどな」
「私じゃないよ。私だってこんな、立派なのなんて吸わないし。吸うんならキッチリ隠すよ。それ、何処にあったの?」
テツジは眉間に皺を寄せながら立ち上がって、ウサギ駕篭の奥の方に漂っていく。そして例の隠しポイントに潜り込むと、その床をペンペンと叩いた。
「ここらへん」
「私、そこの奥で見つけたわ」
「へぇ。いっつも暗いからなここ。オレが一本、見逃してたのかね」
「でも牧場に入れるのって、私らと、あと運営の四人と、羽場さんくらいでしょ。誰?」
「シラネ」
「シラネじゃなくて」
彼は大欠伸をしながら頭を掻いて、爪先に付いたフケを吹き飛ばした。
「何よ。ここカメラの影になってっから、調べようないじゃん。ゴッシーだってそれ知ってて、ここで吸えるかも、とか思ってたんしょ?」
「そ、そりゃあそうだけどさ。実際吸ってないもん」
「じゃあいいじゃん、誰が吸ってようが」
「アンタねぇ、ここは寮じゃないでしょ? 月だよ? 万人の憧れの的な月面基地だよ? ちょっとは真面目に考えたら? だいたい空気清浄にもの凄いお金かかるし、もし火事にでもなったりしたら」
「おっと。そういう建前止めてくんね?」
「建前?」
「だからアレだろ? 実際のところ、姉さんは自分がここに目を付けてたのに、知らん誰かが勝手に使ってるもんだから。頭にきてんだろ。違うか?」
鋭い洞察を突きつけられ、私は思わず、ぐっ、と息を詰める。
「ば、んな馬鹿なこと云わないでよ。とにかく、放っといていいワケないでしょ。もしこれを誰かに見つけられたら、真っ先に私たちが疑われるよ? それにもし、まさかとは思うけど。岡さんや殿下が犯人だったら。止めさせないと不味いってば」
テツジは、ふむ、というように顎に手を当てて、「っつってもよ、オレぁ平和主義だからよ」
「でもあの吸い殻、何かヘマした時用に私への切り札にしようとしてたでしょ」
それはさっきの表情を見てればわかる。途端に、ウヘヘ、と気味の悪い笑い声を上げると、テツジは立ち上がってパソコンの前に飛んでいった。
どうも月面環境への適応という面では、完全に私は負けてしまっている。あちこちにぶつかりそうになりながら、ようやくパソコンの前に辿り着くと、彼は監視カメラのアーカイブソフトを起動していた。
「えっと、作ってた時はなくて、オレが見つけたのが四日前? だから。それからの五十何日の間だわな」
「一週間くらいは、結構あちこちで作り物してたじゃん? その後じゃない?」
「だな。じゃあそっから」
彼はトロトロとキーボードを叩いて、幾つものカメラの映像を表示させる。その中から最も我らの聖域に近い位置を写す物を選択すると、クルクルと早送りさせていった。それでもなかなか人影は入ってこず、私は画面を覗き込みながら唸った。
「んー、やっぱこの辺、完全に死角だよね。誰も近づかない」
「つか、そういう死角が出来るように設計したワケだわ」
なんとまぁ、用意周到な。そう口を開け放つ私に気味の悪い笑い声を上げていたが、急に彼は身を起こして画面に顔を近づけた。
「あん? 殿下?」
「あ、でもすぐ出てきた。今の、どんくらい?」
「二、三分だな。根っこまで吸える時間じゃあねぇわ」
そう、私が見つけた吸い殻も、テツジが見つけたのも、かなり根っこの近くまで吸われている。よほど肺活量がない限り、五分はかかるはず。
延々と早送りの映像を眺めていくと、急に真っ暗になる。ウサギ駕篭エリアは消灯時間だ。それでも水耕栽培側からは明かりが漏れていて、僅かだが駕篭の形状の見て取れる。注意すれば、これなら人が通ってもわかる。はず。
だが結局その日は誰も聖域には近づかず、翌日も短時間だけ入り込む人影はあっても、すぐに出てくる。
変化があったのは、三日目だった。タイムインデックスによると、夜の二十二時。一瞬だけ影が過ぎったのを私は見咎めて、テツジに注意を促す。
彼は映像を少しだけ巻き戻して、今度は等倍で再生させる。その影は身体を揺らしながらゆるゆると駕篭と壁の隙間に近づくと、素早く飛び込んで死角に消える。
「ん? 誰これ」
私はすぐに見当が付いていて、ため息を飲み込みながらテツジの肩を蹴った。
「アンタでしょ」
「え? オレ?」
「自分でしょうが。歩き方で一発だよ。ホントにアンタじゃないの? あの吸い殻?」
「ちゃうって! あー、そういや夜に暇だったから、吸ったつもりになりに入ってたことあったわ」
「この時は吸い殻なかったの?」
彼は真っ赤な唇を尖らせて、手垢の付いた眼鏡の奥の瞳を細める。
「んー、なかったんじゃね? ありゃ気づいてんべ」
「あー、時間無駄にした。じゃあさ、アンタが見つけたのが四日前でしょ? で、その前の宿直にはなかったんでしょ? じゃあ八日前から四日間チェックすればいいじゃん」
「へいへい」
そしてテツジの前々回の宿直が終わった朝から再生を再開させる。するとすぐに画面の中が人で一杯になって、テツジは「ん?」と首を傾げながら再生を停止させた。
「あぁ、あれでしょ? これ。私が壁の奥に入ってった時」
「あぁ」
彼が再生を再開させると、画面の中の私たちはちょろちょろと動き回り、私は聖域の壁の奥に潜り込むためカメラの死角に消え、三十分くらいして戻ってくる。後は特になんの異常もなく、どんどん日付は進み、テツジが吸い殻を発見したという当日になってしまった。
「んー、誰も映ってねぇなぁ」
背もたれに倒れ込むテツジ。私も首を捻らせて、施設の方に目を向けた。
「このカメラに映ってない死角への入り口とかないの?」
「ねぇって。だいたい、ありゃあオレはそっから入るべ?」
「そういう言い訳を考えてたとか?」
「ちゃうわ! 自分でカメラの位置、見て見ろや!」
確かに、悔しいが彼の云うとおり。聖域に入るためには、あのカメラの前を絶対に通らなければならない。
「でもさー、これ見ると、そもそも誰も吸い殻の回数分も近づいてないじゃん。殿下が二回と、アンタが三回。私が二回。岡さんはゼロ」
「数えてたのかよ。渋いねぇ」
「渋いってか、アンタが抜けてんのよ。とにかくだから、そもそもあそこで吸うの、不可能じゃん。これじゃあ」
「んだね」
うーん、と二人揃って首を傾げる。
そして悔しいことに、テツジがパチンと指を鳴らして、私の足下を指し示した。
「ちょっと、いい?」
「え? 何がよ」
「それ、壁の奥に潜り込んだときに着てたヤツ?」
さぁ、とツナギのローテーションを思い出そうとした所で、彼は身を屈めて私の足に顔を近づける。驚いて逃げようとした所で、彼は蛇腹の二つ折りになっているツナギの裾をめくった。
「あー、これ」
そう云われて、私も裾の折り目に溜まっていた物に気が付いた。
灰色や黒の、見慣れた屑。
「煙草の灰? じゃあ、私が壁の奥に行ったとき、どっかで引っかけて来て」
「そうそう。んで、出てきて立ち上がった時に床に落っこちたんだわ」
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