第37話

 テツジから手渡された懐中電灯を灯すと、彩りみどりのケーブルが壁面を伝っていて、それは施設の壁と平行して延びていた。


「どっちです?」


「こっち」


 と、岡が壁をドンドンと叩く。私は多少心細くなりつつも、四つん這いでケーブルを避けながらのそのそと進む。更に先の方ではコンコンと音が鳴り、耳元のレシーバからはテツジの声が響いた。


「ここが多目的モジュールAの端ね。そのまま、真っ直ぐ」


 導管の中は狭くて、誇りっぽくて、乾燥していた。すぐに目がシパシパしてきて、喉がいがらっぽくなる。それでも低重力というのは偉大だ、手も膝もそれほど痛くもならず、きついのは腰くらいなものだ。


 間もなくウサギ牧場の端を通り過ぎ、未だに真っ直ぐ延びる導管をノソノソと進む。するとすぐにT字路が現れて、私はレシーバに手を当てながら囁いた。


「ここ、どこです?」


 テツジが応じる。


「多目的モジュールBの壁の中かな」


「虫牧場?」


 なんだ、こんな簡単な手があったんだ。


 私はふと動きを止めて、懐中電灯で周囲を照らし上げる。


 謎に包まれている、総研チームの内情を知る方法。


 そっと、壁に耳を寄せる。私の耳鳴りの音、地響きに似た共鳴音。その遙か奥深くに、確かに人の声らしきものが捕らえられた。


 だがそれは酷くか細く、まるで意味のある言葉として捕らえることが出来ない。


 これは何か集音装置がいるな。


 コップでも、何でもいい。


 そう耳を離して周囲を明かりで照らし上げたが、そう都合良くコップが転がっているはずもない。


 まぁいい、方法はわかったんだし、今度の宿直の時にでも試してみよう。


 そう心に決めて、私は再び前進を始めながら呟いた。


「なんか壁が厚くて、運用センターの近くに行けても、聞こえそうもないんですけど」


「ん。あぁ。大丈夫。そこをケーブルは這ってって、運用センターにあるセンサーとかに繋がってるからよ。そこの口から覗けるはずね。わかった?」


 彼の偉そうな指示に従いながら、導管の交差点を曲がり、一メートルほどの段差を這い上がり、十分くらい這い回っただろうか。いい加減に腰が麻痺しかけた所で、天井が網になって光が漏れる部分が現れた。


「もう、その辺のはずよ?」


 そういうテツジに、極小の声で囁く。


「えぇ。ちょっと黙ります」


 そろそろと音を立てないように這い進み、四つん這いから仰向けに姿勢を変える。そして静かに天井を仰ぎ見ると、そこは確かに配線導管の分岐ポイントになっていて、沢山のケーブルが部屋の中に向けて這い出ていくようになっている。


 その隙間から、真剣な面もちで立ち話している数人の姿が伺えた。


 見知っているのは、運用チームの証である赤と黒のツナギを着た戸部と木村、それに克也とドクター。それ以外は顔に見覚えはあるが、何をしているのかは知らない面々だ。


 中心で話を仕切っている人物は、基地の隊長の四方だ。彼は腕を組んで机の端に寄りかかりながら、その良く響く深い声で口を開いた。


「とにかく、その調査とやらには。どれくらいの時間がかかるんだ?」


 答えるのは、同じく赤と黒のツナギを着た人物。恐らく通信士か何かなのだろう。ヘッドセットに片手を当てながら、小さく頭を振る。


「現段階では何とも云えないそうです」


「被害は?」


「今のところ、百名前後」


「ドクター?」


 問われた彼女は、疲れたように頭を振る。


「何とか基地にあった薬品で対処しましたが。一名は助かりませんでした。他に重傷なのが数名。他は軽傷で、帰しても問題ないでしょう」


「じゃあ、受け入れ余地はまだあるな?」


「いえ。ベッドに空きはありますが、解毒薬が絶望的なほど足りません。今はありあわせの薬で対処していますが、限界が。こんな事態は想定していなかったので」


「それより、空気清浄が追いついているのか聞いてくれ。技師の助けがいるかと」


 克也の声に、通信士は手早く英語で尋ねる。


「分離された? 与圧区画? とかで、問題がないとか」


「あぁ、エアフローが独立している区画で隔離したんだろう」


「えぇ、そんな感じだと思います。今は基地全体の中で毒ガスに汚染された五分の一の区画を隔離し、そこから現在も被害者を救出中、だそうです」


「クソッ、しかしジャクソンまで」


「知り合いか?」


 四方の問いに、克也は一瞬言葉に詰まった。


「えぇ、向こうの設備責任者のようなもので」


「ウチにも、何か影響が?」


「え? あぁ、えぇ。実務的な話をすれば、現在水を吸い上げている氷床は極小さなもので、枯れかけてるんです。新しい氷床は既に当たりを付けているんですが、その深度にはウチの掘削機じゃ届かなくて。ジャクソンに手を貸してもらう予定だったんです。ですが、これじゃあ向こうは、それどころじゃないでしょうし」


「それは困ったな」うなり声を上げて、隊長は顎髭に手を当てる。「今の蓄えで、どれくらい保つ?」


「一月分は」


「ウチの掘削機を改良して、掘削深度を伸ばせないのか?」


「やってみないと。半月で出来るか、一月かかるか」


「すぐに取りかかってくれ。それに場合によっては、アームストロング基地にこちらの水を融通してやらなきゃならない可能性もある。とにかく、これ以上は現状じゃどうにもならんな。各自はマニュアルに従って、水の供給体制を緊縮モードに。可能な限り再循環水だけで賄うんだ。私はこれから、緊急の水と医薬品の輸送が可能かどうか、筑波と相談してみる。ドクター、必要な薬品をリストアップしておいてくれ。それと通信班、基地外との通信は全て検閲モードだ。筑波以外との通信は禁止。以上だ。新しい情報が入り次第、随時諸君を招集するから、そのつもりで」


 パラパラと、重いため息を吐きながら解散していく一同。


 さて、これは大変な話だ。さっさとみんなに報告しないと。


 そう私も進路を変えかけたところで、静かになった司令室の中に久しぶりに聞く佐治の固い声が響いた。


「この基地では、何も予防措置を行わないんですか?」


 恐らく彼は、四方と二人きりになるのを待っていたのだろう。四方は僅かに考え込み、呟く。


「今のところは。イスラムと関わりのある人物はいないだろう」


「います」


 佐治の言葉に、四方は片眉を上げた。


「誰だ? そんな報告は受けていない」


「これを」


 そう、佐治は手にしていたパットを差し出す。それを一眺めしてから、四方は軽く頭を振った。


「いや。それでも、魔女狩りのようなことはやりたくない」


「狩りはしませんよ」


 意味深に云った佐治に、四方は暫く黙り込んだ後、結局頷いた。


「任せる。だが、キミが基地の秩序を乱すような真似は、絶対に許さない。いいな?」


 わかってる、というように、胸を反らす佐治。私はそれを確認してから、そろそろと身体の向きを変え、元来た方向へと這い始めた。


「いやいや、これは大変ですよ!」


 出口で待ち受けていた三人に、私は一通り説明をする。例によって殿下が眉間に皺を寄せて、難しい口調で云った。


「やっぱりテロ、か。話からすると、ニュースで云っていた爆発というのは誤報だろう。ガスか何か、そんなものが散布された可能性が高いな」


「えぇ。私が見た人たちも、別に怪我はしてませんでしたから」そこで私は、ふと考え込む。「でも。メッカに向かってお祈りしてる人なんて見たことないですけどね。そもそもどうするんでしょう。月からじゃ」


「イスラムじゃない。イスラムと関係のある人物、だろう?」


「あ。まぁ。そう云ってましたけど」そこで微妙な言葉にはっとして、私は殿下を見つめた。「まさか、心当たりが?」


 彼は渋い表情で頷く。


「恐らく、私のことだろう」


「殿下?」


 彼は再び頷いただけで、それ以上のことは云おうとしなかった。彼以外の三人は、不安げに顔を見合わせる。しかしそれ以上、私たちに出来ることは少なく、とにかく水回りの具合を万全にしておくぐらいしか出来なかった。

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