第36話
そんなこんなで、マスドライバーや月面ロボットを見たり聞いたりしつつも、私たちの地味な月面牧場は地味に成長していっている。それはマスドライバーのような破壊的なインパクトもなければ、ロボットのような機能美もない。けれどもウサギたちは確実に大きくなってきて、一面の牧草も十センチくらいまで成長していた。
驚くほど、全てが順調に推移している。一番心配していたウサギたちの月面への適応についても、今のところストレスを感じていたり、健康に悪影響を受けている様子もない。
生物の場合、基本的に低重力は良くも悪くも健康に影響を与える。重力が弱い分、身体にかかる負荷が弱くなる。それはそれで悪くはないのだが、自然の脅威がないと生物は弱くなってしまう。筋力は衰えるし、骨も弱くなる。
ウサギの場合は一生のサイクルが短いから、死に至るほどの悪影響を受ける前に、私たちの胃袋に収まってしまうはずだった。それ以外は、日々の餌に加えるカルシウムやら何やらの添加物でなんとかなる。はずだった。この辺の影響は、最低二ヶ月は様子を見なければわからない。
一方、私たち人間の場合は十分にデータが揃っている。毎日適度な運動や筋肉トレーニングは、欠かしてはならない日課だった。
そして最後に私の場合、得意の怠け癖が出てしまって、ついさぼりがちになってしまう。そこで毎朝ランニングをしているという克也にご一緒させてもらうことにしていた。彼は意外とルーチンワークが苦にならないらしく、どれだけ私が爆睡していても間違いなく起こしに来てくれる。
そうして基地での滞在も一ヶ月近くになりかけたある日のことだ。いつものように半分寝ながらも、足に重りを着け、基地の狭い通路をテクテクと走っていると、目の前の角からもの凄い勢いで曲がってくる一団と遭遇した。
「どいて! 前をあけて!」
叫ぶのはドクター津田。そして彼女に従う数人の赤黒ツナギの一団が、タンカーを手に吹っ飛んできた。
慌てて私と克也は、壁に張り付く。何だ何だと思っている間に、彼らは私たちを掠めていく。一瞬だけ見えたのは、タンカーに横たわる黒人の苦しげな表情だった。
「一体――」
克也が呟いている間に、更に別のタンカーの一団が現れた。一つ、二つと駆け抜けていき、そして最後の五つ目に達したとき、克也が目を剥いて彼らの後を追い始めた。
「おい、ジャクソンじゃないか! どうしたんだ!」
タンカーに乗せられた克也と顔見知りらしい白人男性は、マスクの下の顔を苦悶に歪め、震える腕を上げる。その手を握りながら、克也は運んでいる人員の一人に叫んだ。
「おい、一体何が! アームストロングで何かあったのか!」
「いや、自分は詳しくは」
「邪魔しないで! さっさと運んで!」
角から顔を出したドクターの叫び。それでも克也は彼らの後を追い、診療室の前まで来てドクターに食いかかった。
「何だ! 一体何が」
「アームストロングで事故があったって。向こうの医療室じゃ足りないからって、ウチにも」彼女は焦ったように克也の背後に目をやる。「まだまだ来るはず。そこどいて」
「いや、だがジャクソンは」
「いいから! 邪魔しないで! 私は何らかの事故としか聞いてない!」
再びタンカーの一団が現れて、どんどん大柄な外人たちを医療室に運び込んでいく。その中の一人は明らかに重傷らしく、口の端から胸元にかけて、どす黒い吐血の跡があった。
顔色は真っ青で、白目を剥いている。
あまりの惨状に、思わず寒気に身を震わせて克也のツナギを掴む。中からはドクターの鋭い指示の声が続いている。運び込まれたアームストロング基地の隊員は、総勢十名程度だろうか。タンカーの行列が終わると扉はピシャリと閉じられ、私と克也は廊下に取り残される。
しばらく克也は呆然として立ちすくんでいたが、ふと身を震わせると、慌てて踵を返して通路を掛けた。
「こうしちゃいられん」
「一体、何が? ジャクソンさんって、お知り合いですか」
追いながら尋ねる私に、大きく頭を振る。
「あぁ、アームストロングで、オレのような立場にあるブルーカラーだ。とにかくオレは司令所に行く。ゴッシーちゃんは戻りな」
「いや、でも」
「そのうち発表があるはずだ。それまでは」
そこで言葉を切って、司令所に向かう縦穴を飛んでいく。取り残された私は、他に仕様もなく、とにかく部屋に戻って身支度を調え、食堂に向かった。
「大変、大変ですよ」
岡と殿下の姿を見つけ、トレイを手に座り込む。そして先ほどの出来事を説明すると、岡は月面農場製納豆をかき混ぜながら小さく首を傾げる。
「へぇ? まぁウチらには関係ないっしょ」
「関係なくはない。月面での出来事には、常に我々の未来が」
長くなりそうな殿下の演説を意識的にシャットアウトして、私も納豆をかき混ぜる。所詮私たちは民間人候補でしかない。異常事態があったとしても伝えられるのは一番最後だろうし、何か出来ることがある訳でもない。
でも、何だろう。気になるな。
そう好奇心の虫を抑えられずにいながらも、黙々と口を動かす。
今日のおかずは豆腐ステーキ。明らかに大豆まみれだ、辟易しつつも、農家の戸部と木村の奮闘ぶりに感心もする。加えてテーブルには、細身のコップに刺された一輪の花。すべてが人工物か無機物の月面では、こうしたごく僅かな色彩でも愛おしく感じてしまう。
これも、農家の二人の奮闘の結果だった。
「意外と花って難しくてさ」と、木村は説明していた。「品種改良された農耕植物と違って、酷く弱いんだ。栽培用の花でもこうだから、自然の花なんてもっと大変だろうね」
彼らは水耕栽培プラントの管理運営だけではなく、花や二次加工品の生産も行っている。現在のところ味噌、醤油、納豆、豆腐といったものは自給自足の体勢を整えており、改めて大豆の偉大さに心打たれていた時だった。ざわめきに包まれる食堂に戸部が駆け込んできて、慌てたように周囲を見渡す。その細い瞳が私たち三人を見咎めたかと思うと、小走りに駆けよってきて殿下の隣に座り込んだ。
「参ったことになった」そう、きょとんとしている私たちに、頭を寄せる。「ニュースは見たか? まずキミらに伝えなきゃと思って」
「ニュース? なんかゴッシーがさっき」
しっ、と大きな声を上げかけた岡の口を塞いで、彼はすぐに腰を浮かせた。
「とにかく、水の供給が制限されるかもしれない。もう少し何かわかったら伝えるから、一応手を考えといてくれ。じゃあな」
慌ただしく食堂を飛び出していく戸部。残された私たちは互いに顔を見合わせ、すぐに顔を寄せ合った。
「やっぱり、大事件っぽいですよ」と、私。
「どうも大事件らしいな」と、殿下。
「とにかく早く食って、テツジと合流しようぜ」と、岡。
大至急納豆ご飯を掻き込んで、私たちは多目的モジュールAに向かう。宿直だったテツジは半分夢遊病状態で朝一番の全体チェックを行っていたが、岡から短い説明を受けると、無精髭を掻き、辺りを見渡し、施設制御用のパソコンを操作して地球のテレビ回線に接続させた。
四人がその小さな画面を覗き込むと、朝の情報番組らしい騒がしい音と絵の上部に、緊急速報の字幕が流れていた。
「げ。マジかよ」
一番に呟いた岡。私と殿下は途端に顔を見合わせて、再び画面に目を戻した。
『米月面基地で爆発。イスラム過激派が犯行声明。』
その文字が繰り返し流れている。殿下が一番前に陣取っているテツジを押しのけて回線をCNNに合わせると、すぐに緊急番組らしき映像が流れ始めた。厳しい表情をした女性キャスターが何事かを説明するのに続けて、アメリカのアームストロング基地の図面がCGで展開される。毒々しく付け加えるのは、赤い×印。円形の基地の外辺部らしかったが、当然中継映像などはなく、具体的な被害も明らかになっていない。
「え? 何? 何て云ってんの?」
尋ねる岡に、殿下は難しそうに唸る。
「爆発があった。今のところ、それしかわかってないらしい。そしてイスラム過激派が、自分たちの仕業だと犯行声明を出したと」
「毒ガス戦争の関係か?」
「さぁ。そこまでは言及されていないが、その可能性が高そうだな」
「戸部さんが。水の配給が減らされるかもって。どうしてなんでしょう」
「単に事態がこの基地に波及する可能性を考慮して、緊縮体制に移す可能性があるというだけじゃないかな」
「まぁ、設備内再循環率はかなり高いから、二、三日止まってもなんとかなるんじゃね?」
と、まるで政治のことには興味なさそうなテツジ。早速端末片手に計算していた殿下は、渋い表情で顔を上げた。
「設備内総水量は現在、五百立方メートル前後に保たれている。そこから自然消費量は日に十立方メートル程度。岡、確かタスクチームの計算に、必要最低貯水量と一日に必要な最低供給量の推定があったな?」
「あぁ。ちょっと待って。えっと、牧草の成育状況によっても違うけど、今時点なら三百立方メートル、日に十立方メートルはいるな」
「なら、二十日は誤魔化せますが」私は慌てて記憶を辿って、木村からもらったデータをパソコンで呼び出した。「でもイネ科の場合、月面栽培だと成長具合にかなり変異があるらしくて。このデータって、タスクチームは取り込んでないんじゃあ」
「木村さんたちに比べたら、タスクチームは素人だからな。とにかく一度、農家に相談させてもらおうぜ」
そう端末を手に立ち上がりかけた岡の腕を、殿下が掴んだ。
「しかし先ほどの様子からして、運営スタッフは我々の相手をする暇もなさそうだが」
うぅむ、と四人揃ってうなり声を上げる。そこで不意にテツジが手を打ち合わせたかと思うと、スパナを手にして設備の最上階まで飛び上がり、更に奥の方に潜り込んで行く。
「また、訳のわからん事を」
岡は私が思っていたのと同じ事を呟いて、眉間に皺を寄せながら後を追う。テツジは密かに私が目を付けていた死角ポイントに這っていき、隔壁の一つを外しはじめていた。
「何をやっているんだ?」
痺れを切らして尋ねる殿下に、テツジは口にネジをくわえたままフガフガと声を発した。
「この奥、空洞になってて配線が走ってんだけどよ。そっから司令所の床下に行けたような気が」
「マジか!」
勢い込む岡。殿下は例によってため息だ。
「馬鹿なことは止せ」
「けどよ、このままぼうっとしてても仕方がねぇだろ?」
「それはそうだが」
「だろ。よし、いっちょ行ってくるか」
そう青いツナギのチャックを閉じる岡。テツジは隔壁の一つを外し終えて奥を懐中電灯で覗き込んでいたが、すぐに軽く頭を振って腰を上げた。
「岡でも無理だわ。狭くてよ」
途端に、三対の瞳が私に向けられた。
「また、私、ですか。なんか、こういうの多くないです?」
呟く私の肩を、岡が強く叩く。
「わかってんじゃん。行ってら!」
私は私で、こういう立場に慣れてしまっていた。仕方がなく髪を結わえ直してから、耳に無線レシーバを取り付け、腕まくりして頭から暗闇の中に潜り込んだ。
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