第34話

 とにかくこの重要なシステムのカットオーバーを迎えて、ウサギ牧場は構築フェーズから初期運用フェーズへと移行した。平常運用フェーズへ移行するためのチェックポイントは、牧草の育成と、ウサギたちへの解放だ。そこまで来て、やっと彼らの繁殖に取りかかることが出来る。


 それまでの日々は、地味な作業が続く予定だった。発芽した牧草の種を、合成樹脂スポンジに穿たれた無数の穴に埋め込んでいく。それは一センチ間隔程度の本当に無数の数があり、感動に打ち震えたはずのテツジは数日にして早速愚痴り始める。


「なんかさ、もっとハイテクに出来なかったのかね、これってさ」そう、数ミリの小さな芽を出している種を、疲れたように眺める。「ザルを使うとか。ザル? ザルでどうする?」


 チェックリストを手にあちこちの装置を確認する岡が笑い声を上げた。


「知るかよ。だいたいザルがハイテクかよ」


「つか、虫牧場見たか? 豊橋さんに見せて貰ったんだけどよ、凄っげぇハイテクだぜ、あっち」


「あ、知ってます。虫駕篭がボックスタイプになってて、ボタン一つで、水やりから汚水抽出から。全自動なんですよね」


 殿下よろしく、片眉を上げる岡。


「んだよ。サバイバルじゃ最後はローテクが勝つんだよ」


 サバイバル、と、私とテツジは顔を見合わせる。


 確かに、月での日常はサバイバルと云えなくもない。無駄は限りなく少なくし、使える物は何でも使い、極力再利用を試みる。


 そして最後に頼れる物は、人の五感だ。それは地上のタスクチームの一貫した見解で、ウサギ牧場でも様々なセンサーを利用しているとはいえ、最終的には五十項目からなるチェックリストを日に四回は目視確認することになっている。


 水の循環が始まったということもあり、この条件は更にシビアになった。万が一にも漏水など起こしてはならない。そのため食事も時間をずらして取ることになり、牧場が無人になるのは、夜間宿直者がトイレに行くときのみとなっている。


 そんな訳で宿直担当になっている私は早めに牧場を抜け、侘びしい食事と寂しい水量のシャワーを済ませ、枕を抱えて戻ってくる。入れ替わりで岡たち三人は怠そうに牧場を出て行き、中にはただ一人、私だけが残された。


 今日の作業は進捗率百パーセントだったが、かといって宿直が暇になる訳でもない。一人で見回りチェックを行うだけで一時間はかかるし、日々のレポート作成も宿直の担当になっている。レポートのフォーマットと今日の行動ログを突き合わせながら、ポチポチとパソコンに入力していく。


 そして気が付くと二十二時を回っていて、私は大きく背伸びをして椅子に寄りかかった。


 しかし月面環境も一週間ということもあってか、だいぶその特性のようなものが実感できる。何より地上で散々悩まされていた肩こりが、全くというほど感じられないのだ。それは忙しく動き回っていたからかもしれないが、確かに重力が少ない分だけ心臓の負担が減り、血流が良くなると云う研究結果もあるらしい。私は軽くなった肩を大きく回してから、いや、煙草を吸ってないからかも、と思い直す。


 忙しくしているとまるで思い出さないが、こうしてふと時間が空くと、つい禁断症状が沸き上がってくる。


 ふと椅子を回して、施設の全体を眺める。今はウサギ駕篭部分はカーテンで覆われていて、牧草部分には煌々と白色LEDが灯っている。天井灯は消されているため執務エリアには影が降りていていて、パソコンの青白い瞬きだけが浮かび上がっていた。


 これなら、奥の方で煙草を吸っても、誰もわからないんじゃないだろうか。


 ふと、そんな誘惑に駆られて、幾つか設置されている監視カメラの視界範囲を思い出し、ふらふらと歩きながら施設の影を探る。ベストポジションは、やはりウサギ駕篭と壁との僅かな隙間だった。ここならカメラには写らないし、仮に急に誰かが入ってきても完全に影になっている。


 だが問題は、大気観測装置だな。


 そう恨めしく思いながら、パソコンと接続されている観測装置の記録を確認する。そのセンサーは施設内六カ所に敷設されていて、酸素、二酸化炭素、窒素といった成分から、気温、湿度といったものも秒単位で観測される。


 さて、こいつは煙草の煙を、どこまで検出出来てしまうんだろう。


「あぁ、来る前にチェックしときゃあ良かったな」


 ぼやきながら簡易ベッドに倒れ込む。


 いやいや、不純な考えが浮かぶのは、暇があるからだ。


 そう私は思い直して、パソコンに入っているゲームを幾つか試し、僅かな眠気を感じたところで目覚ましをかけ、相変わらず寝心地の悪いベッドに潜り込んだ。二十四時。辺りには水の流れる爽やかな音と、ウサギが発するグウグウという小さな鳴き声だけが響いていた。

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