第33話
基地のメンバーが大きく三つに分かれていることは、最初に説明を受けている。まず、赤と黒のツナギを着る、十五名の運営スタッフ。公団を中心としつつも、様々な企業からの出向職員も含んだ技術屋集団で、基地設備のメンテナンスや、隊員の受け入れ、通信、航路官制などを行っている。克也や農家の二人、それに羽場もそこに所属していた。
続けて、最も多い四十名。彼らは緑のツナギを着た純粋な研究者だ。常駐が基本の運営スタッフと違い、随時カーゴ船や何やらで入れ替わり立ち替わりしている。短いので一ヶ月、長くても半年程度の滞在だという。
そして、佐治を含む三名の駐在武官。彼らは唯一ツナギではなく軍服を身にまとっていて、その待遇も特殊なのだという。
「一番暇な連中だよね」そう羽場は基地内を案内しながら、ブツブツと不平を云っていた。「佐治なんてさ、こんな犯罪なんか起きようもない所で何やってんだろ、ホント」
加えて、新参の私たちと総研チーム。ツナギの色は、赤黒でも緑でもなく、青だ。
「まだ細かい立ち位置は決まってないんだけどね。強いて云うなら民間人、かな。運営でも研究でもない、いわゆる市民さ。キミらのプロジェクトが成功したなら、もっと青が増えると思うよ」
基地は、その殆どが地下にある。私たちの住む居住区画の他には、以下のような区分けがされていた。
共有区画 食堂や図書室、娯楽室、医務室など。
設備区画 発電設備、汚水処理設備、通信設備、水耕栽培場等。
研究区画 物理学、天文学、生物学などなどの研究室。
そして地上に露出しているのは、三階建ての管制塔、観測棟、真空実験棟、太陽電池パネル、スペースポート、そして克也が建設中のマスドライバー等々だ。それらの殆どは地下で行き来出来るようになっていて、やはりというべきか、私があれだけ散々な目にあった宇宙服の出番はなさそうだった。
共有区画を一回りして、設備区画に向かう。私の感想は、想像していたより整ってるな、という感じだった。もっと狭苦しくてゴチャゴチャしたのを想像していたのだが、居住面積としては百人前後が住む高専寮一棟分程度の広さはある。
それを聞いて羽場は、新たな扉を後ろ手に開きながら云った。
「そう? やっぱあんな汚いとこに住んでると、耐性が付いちゃうんだろね。ボクは閉所恐怖症が発症しちゃいそう」
「なんだと? オレがここまで仕上げるのに、どんだけ苦労したと」
恐怖の表情を浮かべながらパッと振り向いた先には、大きな黒い影が落ちていた。汚れた作業服姿で腕を組む筋肉隆々とした禿男は、羽場の首根っこを掴んで部屋の中に引きずり込んだ。
「痛い、痛いってば!」
「何? オマエだって自分の設計した機械を貶されちゃぁ、黙ってられんだろ?」
「悪かったよ、悪かったってば!」
言い訳も聞かず、彼は低重力の彼方に羽場を放り投げる。そして、フン、と小さく鼻を鳴らして両手を打ち合わせると、入り口でまごついていた私たちに笑みを向けた。
「よう、来たな。出迎えに行けなくて悪いな、ちょっと色々あってよ。まぁ入れや」
髭禿男、上井克也は、スクリーンで見たよりも全然大きく感じられた。背丈は殿下よりも頭一つ分大きく、幅は倍はあろうか。ともかくも促されて中に入ると、奥にはテツジがいて何かの機械に頭から潜り込んでいた。
「いやいや、来ちゃいましたよ師匠」例によって岡が口火を切って、部屋の中を見渡した。「で、ここって?」
「オレの持ち場だ。正式名称は何だったか忘れたが、皆は工場って呼んでる」
へぇ、と声を上げながら、私たちは部屋中を見渡す。確かにそこには学校の実習工場で見慣れた様々な工作機械や、作りかけの隔壁のようなもの、加えて小さな電気炉、搬出用のクレーンやフォークリフト等々、ありとあらゆる機械が散在していた。
私は目敏く、大きな金属製の籠に山積みになっていた石の山に駆け寄る。
「ひょっとして、これって」
「あぁ。いわゆる、月の石、ってヤツだ」そう彼は岩くれの一つを取り上げ、私に投げて寄越す。「斜長石。何に使う?」
「アルミニウム、ですね」
「おう、さすが機械科だな。よく勉強してる」そしてようやくがらくたの山から這い出した羽場に、石の一つを投げつける。「ったく、コイツらの方が、オマエら公団の技術部の連中より全然使えるわ!」
「何だよ! アンタだって図面がなきゃ、何にも作れないくせに!」
「あぁ? あんな無茶なテーパーやら何やらが付いてて、何が設計だ! この訳のわからん図面のおかげで、どれだけオレの帰還が遅れてると!」
延々と続く罵りあいに口を開け放っていると、ウェスで両手の油を拭きながらテツジが呟いた。
「いやぁ、勉強になるわ」
「何が?」
訳がわからず問い返した岡に、地上では見られなかった鋭い目つきで云う。
「オレら、設計も加工も自分らでやってたじゃん? でも実際はあんな風で、設計が現場に関わることなんてまずないし、現場は図面通りに作って終わりなのが殆どなんだってよ。考えもしなかったわ」
「どうして、そんな非合理的なことになるんだ?」と、殿下。
「要はさ、実際に機械を扱うのは技量がいるし、設計をするのも耐久性やらなにやらの計算が複雑だべ? マジな物作ろうとすると、両方一通り出来るヤツなんて居ないんだってよ」
「じゃあ、持ちつ持たれつじゃないのか?」
「だろ? でもあんな風に、実際に仕事する現場は設計に不満があるし、設計は現場は面倒だから知らん顔。いやぁ、難しい話だわ」
呟いて、本格的に図面を取り出して議論を始める羽場と克也を遠くから眺める。一方の私たち三人は、まるで目の前の人物が「あの」テツジだと信じることが出来なくて、互いに顔を見合わせていた。
一通りの基地の見学と荷物の検品などを済ませてから、私たちはテツジの案内で多目的モジュールAに向かう。公団の人が作ってくれたCGで頭の中ではイメージ出来ていたつもりだったが、実際に目にするとその異様というか、巨大さに言葉を失ってしまった。
ぱっと見には、何の変哲もない立体駐車場のようだ。だがそれが自分たちの発案で、巨額な税金を費やし、月の将来を担う重要な施設なのだと思うと、その重圧で胸が締め上げられる。
「まぁ、八割ってとこだけどよ。時間がなかった割には、いい出来だ」
工作に関してだけは妥協のないテツジ。早速私と岡はウサギ駕篭の移動方法や牧草設備のメンテナンスのレクチャーを受け、殿下はそれらの制御プログラムを入れ込んだパソコンの設置を始める。そうしているうちに正面の大きな扉が開いて、断続的にフォークリフトで荷物が運び込まれてきた。
施設に荷受け場所なんて用意していない。運ばれた順に大慌てでウサギを駕篭に放り込んでいく。放り込む、というのは、確かに正確な形容だった。二キロから六キロある彼らは、月面では体感で五百グラムから一キロ程度の重さしか感じられない。この程度なら私も扱うのは簡単で、真っ白でモコモコで、たいして動きもしないボンヤリとした彼らは、まるで少し重いバレーボールのようなものだった。扉の前からポンポンと投げ渡し、間もなく全体の十分の一である十二匹分の駕篭が埋まる。そして最後に、ドナドナだった。彼女は相変わらずこちらにお尻を向けたままで、その駕篭は特等席である制御パネルの隣に置かれる。
他にも地上から持ってきた荷物が幾つかあった。牧草が育つまでの当面の食料であるペレットや、設備の稼働に必要な幾つかの精密機械。当初の手はず通り殿下とテツジがパーツを次々に設備に組み込んでいき、私と岡はウサギへの餌やり、そして一匹一匹の健康診断を行っていく。
これは公団のタスクチームから重要視されている仕事の一つだった。血液を毎日採取して分析することで、ウサギの生態的何とかを調査する必要があるのだ。
「月面環境の及ぼす生態的影響、な」
ここのところの私は宣伝マシーンと化していて、ウサギに生物学的観点から対応するのは岡の担当になっていた。この現状も、月に来たからには元に戻していかなければならない。
そう、殿下はパソコンが得意だから理論担当に落ち着いているし、テツジは設備担当なのに変わりない。そして当初の私の担当だった経理や統計といった分析は、今では殆ど公団のタスクチームが握っている。このままじゃあ私は雑用係になってしまうから、何かもう少し役に立てる立場を見つけなければ。それには岡には元通りリーダーの立場に退いてもらって、ウサギの検査や調査は私がやっていけばいい。
今日からは徹底的にウサギの勉強をするか。
「ともかく、これで一通りの形は整ったかな」
皆で腰を落ち着けてパックの珈琲を飲んでいると、岡が施設を眺めながら云った。
約百平米、高さは五メートル。その空間の半分はウサギの可動駕篭が積み重ねられ、残りの半分は牧草飼育用の平面が三段に積み重なっている。残った一角が私たちのオフィスのようなもので、設備の制御パネルと机、四足の丸椅子、そして簡易ベッドがあるだけだ。
「でもま、これくらい狭いのが落ち着くわ」と、テツジは無精ひげを掻く。「すっかり貧乏性ってか、寮に慣れてるとな。克也さんの工場も、なんか落ち着かなくてよ。で、今日は後は何かあるんだっけ?」
「今日はこんな所だな。明日からは忙しくなるぜ」
タスクリストを眺めながら云った岡に、テツジはニヤリと笑みを浮かべた。
「じゃあ、ま、宴会といきますか。克也さんが準備してくれてるし」
あぁ、でも、と困惑した表情を浮かべる岡に代わって、殿下が腰を上げた。
「じゃあ楽しんでくることだ。今日の宿直は私がやろう」
そう、テツジは知らないことだが、緊急時を想定して多目的モジュールには必ず誰かが常駐することになっていた。しかし、せっかく色々と面倒を見てくれた克也がセッティングしてくれたのだ。私は咄嗟に手を打ち合わせて、らしくない役回りを買って出た。
「あ、じゃあここでやりましょうよ。牧草エリアは、まだ空っぽだし」
「それ、いい」岡が指を突きつけて、それをテツジに向けなおした。「つー訳で、ウサギのお披露目も出来るしよ。どう?」
「あー、別に。じゃあ呼んでくるわ」
無感動に呟いて出て行くテツジ。私は殿下のため息を聞き逃さなかった。岡が場所を確保しに床を蹴って飛び跳ねていくのを見送ってから、私は囁いた。
「苦手そうですよね、こういうの」
「どうしてキミは楽しそうなんだ?」
そりゃぁ、他人の不幸は蜜の味、だ。
そうしている間に、扉が開いてぞろぞろと人が集まってくる。真っ先に、やぁ、と手を挙げるのは、農家の小太り青年である木村。彼の隣には対照的に痩せぎすな戸部がいて、じろじろと設備を見渡す。他には荷運びをさせられている羽場と、それを叱りつける上井。そして知らない女性が、一人いた。
「じゃじゃーん、基地のドクターだよ。津田さんね! ウサギの健康管理を手伝って貰うから、呼んでおいたんだ」
円陣を組んで座り込んだところで、羽場が紹介する。三十代中盤くらいだろうか、小柄で丸顔な女性で、それでもハキハキした口調でしゃべり始めた。
「もう、ウサギちゃん! すっごく楽しみにしてたのよ! へぇ、これ? でっかい! 可愛い!」
「確かに大きいな」と、神妙に、怪訝そうに遠くから眺める戸部。「これ、キミらは食ったのか?」
上井の話によると、こんな時ぐらいしか酒を飲むことはないらしい。供給は限られているし、何より低重力下の血流の問題もある。つまみは農場で生産している野菜の漬け物や、豆の煮物といった類。
彼らは年が近いということもあってか、良き友人たちとして行動を共にすることが多いという。早速岡はドクター津田にウサギの特性などを説明しはじめ、殿下は農家の二人と水耕栽培施設の運用開始に向けての調整を始める。
「牧草の検疫なんかは、ちゃんと済んでるのよね?」と、ドクターが圧縮された牧草パックを手に取りながら。「まずないと思うけど、雑草には毒のあるのもあるし。ウサギもだけど、みんなも健康管理には気をつけてね」
私はその両方に首を突っ込みながら話を聞いていたが、心配したような人間関係の面倒くささがなさそうなのに安堵していた。木村は元々愛想が良さそうなので心配していなかったが、戸部はなんだか神経質そうな感じがしていた。だが実際に話してみると、彼は単に人見知りするタイプだというのがわかる。それでも感情の振れ幅、特に負の方向が大きいのには変わりないようで、一通りの設備の状況を把握した途端、小さく舌を打って右側の壁に目を向けた。
「まったく、キミらのように色々相談してくれる分には安心なんだがな。あっちはどうなってるんだ? 何をやるのかとか、さっぱり聞かせてくれない。設備の見学もさせてくれないんだぜ?」
彼が向けた瞳の先には、壁を隔てて多目的モジュールB、即ち総研チームの虫牧場がある。
「私も全然、何も聞いてないんだけど。平気なのかしら、検疫とかやらなくて。虫が媒介する病気も結構あるのに」
眉間に皺を寄せるドクター。木村は変わらぬ笑顔で漬け物を飲み込んでいた。
「平気なんじゃない? 地上でちゃんと済ませてるだろうし」
「だから云ってるでしょう? 地上とこっちじゃ、全然違うんだから。仮にも私は医療部長よ? ちゃんと現状を把握しないと心配で」
「出たね、完璧主義の虫が」
「その虫は食えるのか?」と、戸部。
「そうだね。堅くて、ベトベトしてて、噛むとカフェインまみれの味がする。ちなみにゼロカロリー。厚生省認可、不健康食品」
「そりゃあ蚕以上に食えないな。エアロックの外に捨てちまえそんなの」
彼らが冗談のネタにする完璧主義だが、私もすぐにその実態を知ることになった。宴会の後にすぐに呼び出され、学校の保健室に似た設備で個別に面接させられたのだ。
「この基地じゃあ、まだ女性は少ないの。その中でもあなたは、別格の最最年少。重要だから二回云うのよ? 最、最、年少」
そりゃあ若さに対する僻みか、と突っ込みたくなるのを、無理に飲み込む。
「それで低重力環境が及ぼす影響について心配だけれど、それ以上に心配なのが性的交渉に関する問題」
医学用語だ。
そう口を開け放っている私に、彼女は真剣な顔を近づけた。
「冗談じゃないのよ? それは優秀な人たちが揃っているから危険性は低いと思うけれど、用心にこしたことはない。一人の時にはちゃんと鍵をかけて。あと、これも持ち歩きなさい」そう手渡されたのは、護身用スプレーだった。「あと、あなたはチームの三人の中に、特別な関係の人がいたりする?」
「え? いえ、そんな、滅相もない」
「本当? 嘘は駄目よ? 本当に、本当?」
「完全に、本当です」
「そう」ようやく顔を引き離して、背もたれに寄りかかる。「じゃあ今はいいけれど、一年は長いわ。もし基地の誰かとそういう状況になったなら、必ず相談しに来てちょうだい。月面での妊娠は未だにどの基地でも実例がないし、この基地を第一号にするつもりもない。いい? 考えてみて。人類初のムーン・チャイルド。その母親になることが、どれだけの騒ぎを引き起こすか。わかる?」
「えぇ、わかります」
「本当? とにかく、肝に銘ずること。外に出すから平気だなんて、間違っても考えないこと。それと週に一度、検査を行います。今云ったことは、必ず守ってね」
こりゃあ、完璧主義というより猜疑心の固まりだ。
私は辟易しながらも、ふと疑問を挟む。
「そういえば、勝田さんも女性ですけど」
「あぁ、そう。そうね」
彼女は検査しないのか、と遠回しで尋ねたつもりだったが、まるで通じていないらしかった。
つまり信用されていないのは私だけ、ってことか。
ともかくそれから私は、辛子やら何やらが詰まった防犯スプレーを、作業服の足のポケットに突っ込んで歩く。この基地の制服とも云える作業服はツナギのように上下一体になっていて、一人一人のサイズにぴったり合うようにオーダーメイドされたものだ。供与されるのは四着で、それを使い回して行くことになる。
素晴らしいのは、こんな作業服一着にしても幾つかの最新技術が取り入れられていることだ。一番は光触媒洗浄機能。繊維に特殊な分子を配合させることで、光に晒すだけで有機物を分解し、ある程度の汚れを落としてしまう。他にも消臭効果も付いていて、基本的に洗濯などしなくてもいい。
食堂で出されるメニューは、ご飯、味噌汁、漬け物が基本で、それらはほぼ水耕栽培施設からの供給が行われつつある。日々それにプラスして何らかのおかずが出るが、それは殆ど地上から持ってきた宇宙食に依存している。
「炭水化物、植物繊維、植物性タンパク質。おおよそ足りてはいるんだけど、動物性タンパク質が圧倒的に不足している。それは食堂のメニューを見ればわかるわ」
そう、例のドクターは云っていたし、地上での調査の結果でも明らかだった。
そのまま私たちは場所を通信会議室に移して、地上のタスクチームとの初回のミーティングを行う。月面の現状を報告し、スケジュールの微調整をし、当面の作業手順を確認した。
多目的モジュールAでは、細かい設備の調整や水耕栽培設備の稼働が急がれた。地上から持ってきた餌はなるべく節約したかったし、農場から出る廃棄物もウサギの餌としては潤沢ではない。海綿状のベースへの水の循環に関しては、特に慎重に作業が行われる。月面下に氷が存在するとはいえ、潤沢とは言い難い。そのため水が貴重な資源だというのには変わりなく、この多目的モジュールAでも実に様々な工夫を加えてあった。
モジュールに与えられた水は、まずウサギゲージの前の樋を伝う。ここで彼らは好きなときに好きなだけ水を飲むことが出来るし、飲み残しも発生しない。そしてウサギゲージを伝った水は牧草生育部のポンプに流れ込み、適切な添加物を加えた後に、土代わりの合成樹脂スポンジへと供給される。
合成樹脂スポンジは二層構造になっていた。底の方は柔らかく、保水能力のあるもの。そして表面は比較的堅く、通気は良くとも水の揮発は防ぐ特殊な樹脂を採用していた。
やってきた戸部と木村は、その敷設状況を確認し、隙間にパテを埋め始める。
「なんか、柔すぎませんかね、これ」そう表面の弾力を確かめる岡。「やっぱ予想以上に、ウサギが動くみたいで。これだとすぐにヘタっちゃいませんかね」
そう、ウサギたちは未だにゲージに閉じこめたままだったが、それでも地上では見られなかった活発さを見せている。様子を見に来たドクターは彼らの調子を子細に確かめて、例の尖った感じの声でハキハキと説明する。
「毛を毟ったりしていないし、ストレスではないと思うわ。逆に自重が軽くなった分、好きに動けるようになって気分がいいのかも」
「でもま、これくらいで大丈夫だと思うぜ」と、足で合成樹脂スポンジを踏みながら戸部は云った。「牧草の根っこが生えれば、もう少し堅くなるよ」
「問題はチモシーの繁殖具合だよね。一応イネ科だから、ウチの農場で育ててる水稲と近いと思うんだけど。こればっかりはやってみないと」
小太り木村が、地上から持ってきて水槽で発芽待ちさせているチモシーの種を確かめる。
「まぁ、これで漏れはないと思うし、水、通してもいいっすかね?」
小型の溶接トーチで細部の仕上げを行っていたテツジの言葉に、戸部は指を鳴らして基地汎用の携帯端末を取り出した。
「おう、上井のオッサン? ウサギ牧場のAバルブに水を通してほしいんだけど。よろしく!」
間もなく、サァッ、という独特の水流音が壁の奥から響いてくる。Aバルブと呼ばれる大型のノズルに取り付けられた水圧計が次第に上がってきて、一定の場所でピクピクと振れるようになった。それを確認してから、岡は手順書をチェックして私に指を向けた。
「ゴッシー、環境測定機を稼働」
「オッケーです。現在の湿度十パーセント」
戸部が側に寄ってきて、値を確認する。
「忘れるなよ? 四十を越えるようなら、エアコンで除湿して再循環に回すことな。電力がもったいないと思うかもしれないが、地上での常識は捨てるんだ。電気よりも機械よりも、何より物理的資源が大切なんだからな。大気のバランスにも注意してくれよ? 僅かな変動でも報告してくれ。基地内の空気循環計画に取り込むから」
「了解です」
「それからテツジは樋のセパレータを解放、循環ポンプの稼働チェック」
岡の声に、テツジはジャングルジムの中を文字通り飛び回って、水の流出防止用の仕切り板を外していく。それが終わると一同は大きなハンドルが付いた蛇口の前に集まって、岡の作業を見守った。
もう一度チェックリストを確認してから、彼はゆっくりとハンドルを回す。間もなく水の流れる音が響き始め、透明な液体が駕篭の前を流れてくる。ウサギたちは早速その音を聞き咎め、前に空いている小さな穴から口を突き出し、我先にと飲み始める。
三階建てのウサギ駕篭を伝い終えた水は、最終的に貯水タンクに集められ、一部は水耕栽培部へと向かい、残りは飲料水側へと再循環される。その一通りのシステムが無事に稼働するのを見届けると、誰からともなく拍手がわき起こり、歓声と共に握手をし始める。
この仕組みは、ウサギ牧場で一番重要なものだと云ってもいい。一番尽力したのはテツジに違いなく、彼の感動は人一倍だったらしい。驚いたことに彼は瞳を真っ赤にして、震える唇を無理に真っ直ぐ結んでいた。
そして一際、大きな拍手。
施設の入り口から響いてくるその音に一同が振り向くと、そこにはいつの間にか赤と黒のツナギを着た大柄な男が立っていた。克也とよく似た丸坊主で髭を蓄えていたが、どちらかというと色白な克也と違い、浅黒くて視線が鋭い。戸部たち運用チーム、それにテツジは、彼の姿を認めるなり軽く頭を下げる。続けて怪訝な表情を浮かべている私たちに、小さく囁いた。
「基地の隊長。四方さんだ」
すぐに体育会系の岡が、背筋を伸ばして大きく頭を下げた。
「お世話になります! 高専チームの残り、岡、佐藤、五所川原です! ご挨拶が遅れ、申し訳ありません!」
四方は、ウム、と低く頷いてから、後ろ手に手を組みながら施設を見渡した。
「なかなかいい出来じゃないか」
「それは、えぇ、運営の皆さんのご助力が」
「そう堅くならなくてもいい。別に軍隊じゃないんだ」そう岡に微笑んで見せて、「今の計画だと、肉はいつ頃に供給できそうなのかね?」
「二ヶ月後に、試験的に一度。そこから先は繁殖具合によります」
「じゃあ新年には間に合いそうかな。正月くらい、まともなものを食わせてやりたい」
駕籠の中のウサギを眺め、指先で軽くちょっかいを出す。そして再び一同を見渡してから、彼は朗々と響く声で云った。
「邪魔して悪かったな。何か困ったことがあったら、遠慮なく云ってくれ」
「ありがとうございます!」
またしても大きく頭を下げる岡に苦笑し、軽く手を挙げ、一つだけ付け加えた。
「そうだ。私がいつも、隊員の皆に云っていることだ。『皆を信頼し、信頼されるよう努力する』。この狭い基地では信頼が第一だ。いいかね?」
「はいっ!」
威勢のいい返事に軽く頷いて、隊長は施設を出て行った。それを見送ってから、戸部は岡に軽く指先を向ける。
「いい人だよ。そう怯えなくてもいいって。そもそもこの基地の最初期から駐在を繰り返してる、一番のベテランだし。技術屋の味方だよ」
「でも、ぶっちゃけ怖いっすよ顔が」
「まぁ、時々怖いこともあるけどな。一つだけ守ってれば大丈夫だよ」
「何です?」
「基地の規則。秩序の維持が隊長の役目だからね」
途端に私たちは、テツジに顔を向けざるを得なかった。しかし当の彼は、何のことだかわからないように、首を傾げるだけだった。
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